第5話 葛川クミ

 ハルカは殴られた痛みで満足に動けず、マリアの肩を借りて保健室に入った。口元の酸っぱい臭いを嗅がれたくなくて、ずっと顔を逸せている。

 マリアはベッドに腰掛けるように促し、ペットボトルの水を差し出してきた。


「これで口を濯いで下さい」

「水は貴重なのに」

「いいんです。気にしないで」


 控えめに口を濯いで近くのバケツに吐いた。

 ほんの少しだけ気分は晴れたが惨めさが心に覆い被さる。


「お腹を見せて下さい」

「いいよ、自分でやる」

「ちゃんと傷口を確認しないとダメです。さぁ、脱いで」

「……」


 グイッとマリアの顔が近づいてきて、気圧されたハルカは制服を脱いだ。豊かなバストをブラが支え、括れた腰回りが露わになる。瑞々しい肌だが腹部にはクッキリと拳の痕跡があった。内出血によって青く腫れ上がっている。

 捻り上げられた腕にもミカの指の跡が残っていて、並外れた握力だったことが見て取れる。


「ひどい傷……」

「ごめん」

「何故、謝るのですか?」

「あなたは食糧を失った。あの女に土下座することになった」

「羽川さんのせいではありません」


 救急箱を持ってきたマリアは優しく微笑んでくれた。

 消毒液がいつも以上に染みる。手当を受けながらハルカは目を伏せて己の行動を振り返った。全てにおいて軽率だったと言わざるを得ない。普段通り黙っておくべきだった。そうしておけば余計なケガもしなかったし、マリアが食糧を失うこともなかったのである。


 あまりに未熟。自分をまったく制御できていない。治療が終わり、唇を噛み締めていると握り込んだ拳にマリアが並んで座り、そっと手を添えてくる。

 同時に甘い香りがハルカを包む。マリアの指先は温かかった。


「羽川さんは立派です。葛川さんを助けました」

「別に。あの女の態度が頭にきただけ」

「実は、私もです」

「え?」


 予想外に一言にハルカは目を丸くしてしまう。大人しそうなマリアの口からそんな台詞が出てくるなんて思いもよらなかった。そのおかしさが緊張を解し、痛みをほんの束の間だけ忘れさせてくれた。


「ぷっ…… ははははっ…… 痛ぅっ……」


 笑うと肺が大きく膨らんで骨に響いた。殴られた痛みがぶり返してくる。それでもハルカは笑うのを止められない。

 一緒になってマリアも笑った。


「あははははっ……」

「ふふっ……」


 2人の笑い声を聞きつけたのか、保健室にはエリとニィナが入ってきた。

 開口一番、ニィナは深々と頭を下げて謝罪する。


「すまない。間に入って止めるべきだったのに何もできなかった……」

「気にしないで。勝手にやったことだから」


 ハルカはすぐに表情を切り替えていた。ちょっと前まで笑っていたのが嘘のように無関心を装って制服を着直す。

 エリは口を紡いだまま廊下の方を気にしている。保健室に入ってきてから一言も発しておらず、眉間に深いシワを寄せている。


「真壁さんが差し出した分の食べ物はボクが補填する。三戸部さんは頭が冷えた後で、個人的に話してみるよ」

「あのカラテ女が耳を貸すとは思えない」

「羽川さんの怒りはもっともだ。しかし、ボクたちはいがみ合っている場合じゃない」

「……」


 正論ではあるが、ハルカの感情がそれを認めない。三戸部ミカとうまくやっていくなんて有り得なかった。

 ニヤニヤ笑う彼女の顔が思い浮かび、腹立たしさに拳を握り込んでいると保健室の扉が勢いよく開く。

 全員がビックリして振り返ると葛川クミが立っていた。いつものオドオドした表情はなく、目尻が吊り上がって口元に笑みが浮かんでいた。まるで別人のようだ。


「葛川さん? もしかして、羽川さんの見舞いに……」


 マリアの問いかけにクミは答えず、値踏みするように室内を見回す。

 興奮しているらしく、肩で息をしていた。明らかに様子がおかしい。

 皆が声をかけられずにいると、クミは大きく息を吸って胸を張った。


 全員、明日の夜までに校長室へ食糧を持きなさい! 逆らう奴はそこの根暗女みたいに痛い目を見るから覚悟して!」

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