第4話 三戸部ミカ

 6人の少女は再び調理実習室に集まった。

 『壁』の隙間は発見できず、外に出られるルートも無かった。苛立ったミカは『壁』に向かって机を投げつけたそうだが壊すことはできなかったという。


 その一方、ニィナは『壁』を削った破片を理科室の顕微鏡で観察したという。

 結晶構造はガラスに似ていたが、背の高い構造物を造れるほど頑強なのかという疑問が湧いてくる。見た限り『壁』は柱も筋交も無く、平坦な単一材料で建築されていた。もしかしたら曇って見えない裏側に鉄骨などの支えがあるのかもしれない。けれど、学校という大勢が知っている場所にどうやって短期間で建設したのか。これだけの資材を校庭に運び込むだけでも多くのトラックや重機が必要になるだろう。


 思考に行き詰まったニィナは『壁』の破片を理科室にあったアンモニアやら塩酸やら、様々な薬品とも混ぜてみた。どれも破片を変色させることも溶かすこともできなかった。つまりは化学反応しない。直接、アルコールランプの火で炙っても変化は見られない。まったくのお手上げである。


 ……といったレポートを聞かされている間、ハルカは眠りそうになってしまった。

 その後、別の重要な話題に移る。すなわち、食糧問題だ。

 調理台の上には校舎のあらゆる場所から集められた食糧や飲料が並ぶ。その殆どは菓子ばかりで、たまに弁当箱があったが殆ど空だった。


「食べ物があっただけありがたいね。どういう理屈かは推測の域を出ないけど、ここは正午の学校らしい。せめて昼食前の状態だったらな」

「そんなこと言っても仕方ないわ。食糧は平等に分けましょう」


 ニィナの愚痴に対してエリはテキパキと仕分けを始める。食べかけの弁当は食中毒の恐れがあるから捨てることになった。ペットボトルの飲料は種類がまちまちだが未開封のものがある。

 六等分の食糧を各々が受け取った。クミは目の色を変え、チョコバーに齧り付く。他の者に盗られまいとネズミのように覆い被さっていた。よほど腹が減っていたのか、怯えていたのが嘘のようである。


「あっ、待ちたまえ。食べ物は貴重なんだ! ちゃんと考えて食べないと……」

「はぐっ、はぐっ、ぐぐっ……」


 チョコバーが砕けて甘い香りが漂った。室内には耐え難い誘惑が広がる。

 ハルカの脳は空腹を思い出してしまい、涎が噴き出てくるのを止められなくなった。

 どうにか我慢している最中、ミカは調理台に肘を突いて不機嫌に首を傾げている。


「あのさぁ、クラス委員〜 これって不公平じゃない〜?」

「はぁ? なんでよ。平等に分けたじゃない」

「あーしは『不公平』って言ったの。『平等』との違い、分かる?」


 嘲るように立ち上がったミカは夢中で食べ物を口に運ぶクミの後ろに立ち、首根っこを掴み上げる。突然のことに驚いたクミはチョコバーを喉に詰まらせる。


「体格差を考えてよぉ〜 このおチビちゃんと、あーし。消費する栄養の量が全然違うでしょ〜?」

「ングっ、んんっ!」


 酸素を取り込めなくなったクミが青い顔で悶えている。だが、ミカは気にした様子が無い。

 ハルカの腰は入り口の壁から僅かに浮く。


「バカなこと言わないで。量を増やせっていうの? 平等に分けたんだから、それで文句は無い筈よ」


 クミとは真逆にエリは顔を赤くして反論していた。2人は火花を散らすばかりで、周囲のことがまるで目に入らない様子だ。ハルカは痺れを切らせて割って入る。


「喧嘩なら、その子を離してから。締め殺す気?」

「あん?」


 舌打ちしたミカが手を離すとクミが机に突っ伏した。駆け寄ったマリアが背中を摩って飲み物を差し出す。咳き込むクミだが喉を潤し、徐々に落ち着いて顔色を元に戻っていく。

 頭に血が昇っていたエリはようやく我に返ったが既に蚊帳の外である。

 拳を握り締めて直立するハルカの周囲を野良犬の如くミカが嗅ぎ回った。一触即発の状態に皆が息を呑む。


「ずっと黙っていたかと思えば、いいトコで正義の味方気取り〜? チョーシ良すぎなんじゃない〜?」

「……」

「何か喋ってよ〜? ねぇ、ねぇ?」

「……」

「あ、そう」


 ミカがハルカの胸倉を掴もうと手を伸ばした。その手をハルカが叩き落して火蓋が切られる。

 凶悪に笑ったミカは腰を落として斜に構えを作った。見るからに体幹が力強く、一切のブレが無い。明らかに武術の心得がある。


「ふっ!」


 短く息を吐いたミカの脚が鋭い軌跡を描いた。短いスカートがふわりと舞い、紫色の派手なショーツが露わになる。首を刈り取るハイキックを辛うじてガードしたハルカだが、ミカの足の甲は深々と腕にめり込んで骨を軋ませる。


「へぇ? ちゃんと反応できるなんてねぇ。何かスポーツやってたのぉ?」

「関係ない」

「あっ、そ?」


 ミカは軸足をそのままにコンパスのように広げた脚を振り抜く。止められたキックをいとも簡単に押し込み、防御の上からハルカを薙ぎ倒した。


「がっ……」


 並々ならぬ脚力で床に叩きつけられたハルカは、痛みを堪えながら上体を起こした。

 ミカは嘲笑を浮かべている。追撃を仕掛けてこなかったのは余裕を見せつけるためだろう。


「あーし、実家が道場でさぁ。小ちゃい頃はカラテ習ってたんだよねぇ?」

「……ぺっ」


 ハルカの口の中には鉄の味が広がっている。倒されたときに切ってしまったのだろう。血を吐き出してミカを睨む。

 運動の心得のあるが、目の前の空手ギャルとは全く方向性が違っていた。

 バランスや瞬発力であれば負ける気はしない。けれど喧嘩で勝てるとも思えなかった。

 何よりも体格差が顕著である。ハルカは平均よりも背が高い。だが、ミカはハルカよりも一回り大きい。殴り合いをしたら体重差がそのまま威力の差となる。


「もう起き上がれない〜? じゃあ、チャンスあげちゃう。土下座すれば許してあげようかなぁ?」

「……」

「あれ? 無反応? さっきのキックは手加減してたんだよぉ? 次は骨が折れちゃうかもねぇ? それでもいいのぉ?」


 歯軋りしながらハルカは視線を巡らせる。

 他の面子は暴力を前にして硬直してしまった。仮に、誰かの加勢があったところで一緒に叩きのめされるに違いない。だから期待するつもりもなかった。

 覚悟を決めたハルカは立ち上がって構えを作る。ガードに使った腕は痺れて中途半端な高さまでしか上がらない。


(でも、もう片方の手は使える)


 ジリジリと躙り寄るミカに対して動かずにその場へ留まる。あの重く鋭い蹴りの射程まで数十センチ。流石のハルカも緊張と恐怖で汗が出た。普段の憮然とした表情よりも、さらに口元を引き締める。

 相手の攻撃が届くギリギリの位置に入る直前——百八十度向きを変えたハルカは駆け出した。


「なっ……!?」


 逃走するとは夢にも思っていなかったミカは間抜けな声を上げる。

 ハルカの背中には「逃すわけないっての!」と怒声が浴びせられた。


(狙い通り、追ってくる)


 ポケットに手を突っ込んだハルカは精一杯の握力で、隠し持ったビスケットを握り込む。そして廊下に出た瞬間、調理実習室の出入り口を振り返った。中からは怒りの形相のミカが飛び出してくる。

 タイミングはピッタリだった。ミカの顔に目掛けて、砕いたピスケットを投げつけてやる。


「ちょっ…… うわっ!?」


 砕片がミカの目を直撃し、視界を奪う。

 動きが止まったミカの膝を狙ってハルカは踵を打ち下ろす。見事に軸足を潰した。

 だが……


「チョーシに乗んなっての!!」


 片目を開けたミカが物凄い形相で手首を掴んでくる。一瞬で身体を引き寄せられたハルカの鳩尾に、握り込んだミカの拳が深々と突き刺さった。


「ぐはぁっ!?」


 ハルカの身体は真っ二つに折れ、口からは涎が飛び散った。呼吸しようとしてもうまく息が吸えない。

 ボディブローを決めたミカはハルカの髪を乱暴に掴んだ。


「あははははっ! いい声で鳴くじゃん! もう一発、イってみようかぁ?」


 苦悶するハルカに二発目のパンチが突き刺さった。一発目よりもさらに角度を付けて、肋の内側を突き上げる。食道を迫り上がってきた胃液が焼き払い、耐え切れず嘔吐してしまった。

 それでもミカは容赦しない。ハルカの身体を廊下に引き倒して頭を掴む。ハルカは吐瀉物の上で大根おろしのように頬を擦り付けられた。酸の臭いに鼻を焼かれ、嫌悪感からさらに吐き気が込み上げてくる。


「あーしの邪魔するなっての。2人分は食べなきゃダメなんだぁ?」

「……っ!!」

「やっぱ、腕の骨くらい折った方がいいっしょ? どっちが上だか分からせてやらないとねぇ? 右がいい? それとも左?」


 ミカはお試しとばかりに、うつ伏せに倒れたハルカの右腕を掴んで捻り上げる。耳の裏側に骨の軋む音と筋繊維が断裂する音が伝わってきた。脂汗を流しながらもハルカは必死に声を押し殺す。


「さっさと土下座すればよかったのにさぁ?」

「そこまでです」

「あん?」


 凛とした声に反応して、ミカの力が緩んだ。

 這いつくばっていたハルカが顔を上げると、マリアが廊下に立っていた。両手には、いっぱいの菓子を持っている。


「私の食糧を差し上げます。だから暴力はやめて下さい」

「あんたさぁ、あーしがここまでコケにされて引き下がれると思ってんの〜?」

「面子を気にしているということでしょうか?」

「そうそう? 舐められたままじゃ引き下がれないっしょ」

「では、これで怒りを収めて下さい」


 マリアは菓子を手渡すとその場で膝を突き、正座した。一呼吸置いてからゆっくりと両手で廊下に触れる。額は指の背にピタリと触れた。


「……!!」


 マリアの土下座を目の当たりにしたハルカの胸が張り裂ける。呼吸が大きく乱れて声が出ない。

 ゆっくりとマリアは顔を上げる。ミカを見上げる視線に恐れや恥じらいは無かった。


「これで、許してもらえますか?」

「ちょっとナマイキだけど、仕方ないなぁ〜」


 ニヤニヤ笑いのミカはマリアの横を通り過ぎる。

 すぐにクッキーの包みを開けて口の中に放り込むとバリバリ音を立てて食べ、肩越しに振り返ってウィンクした。


「これからは、あーしに逆らわないでよねぇ?」

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