第7話 「あの二人だった……」
バスルームから出てきた睦美は、未だ鼻歌を歌いながら上機嫌だった。それもそうだろう、異性から食事に誘われるなんて何年ぶりの経験なのか思い出すことさえ難しい……しかも相手があの槇本となれば尚更だ。
「うっさい! 失礼だよ、君っ!」
『じゃあ聞くっすけど、何年振りなんすか? デートに誘われたの』
「——デート⁉ いや、これは違うでしょ……多分……」
『ほら、期待してるじゃないっすか!』
「うっさい! 久しぶりに会えるのが嬉しいだけだから!」
『……で、何年ぶりなんすか? 異性から誘われたの』
「……さすがにそろそろ怒るよ?」
『スミマセンデシタ』
日常……それは確かに変わらずここにある。繰り返されるそれは、人が生きて行く為の道を迷わないように記してくれている道標なのかもしれない。
今をどれだけ迷おうとも日常を取り戻せば、また新しく一歩を踏み出せる。いつもと変わらない何気ないやり取りの1つ1つが自分を前進させる為に必要な篝火なのだ……闇の中に進むべき道を照らし、自分の存在を教えてくれる灯りなのだ。
(——はっ! 聞き惚れちゃってた……けど!)
「なんかカッコよくいい事言ってるけど、さっきのは帳消しにはならないからねっ!」
『……………………』
「……けど、ありがとう。いつも私の篝火になってくれて」
『睦美さん……熱でもあるんじゃないっすか⁉』
「——! 人が恥ずかしいの堪えて言ってるのにそれかぁー!」
怒髪天を衝くという言葉があるが、今の睦美はまさにそれだった。さっきまで上機嫌で鼻歌を歌っていたのが嘘のような変貌ぶりだ。顔を真っ赤にしながら天井に向けて放たれた怒りの言葉ではあったが、当然ながらそこには誰も居ないのだ。
「全部、君が原因でしょぉ!」
『はい、すみませんでした……。あのぉ、睦美さん? お怒りのところアレなんですけど……』
「何よ⁉」
『あゆみさんの事、どうするんすか?』
「——! そうだった、結局何も分かってないんだった……」
少し冷静になった睦美は、まだ乾ききっていない髪をバスタオルで拭きながら思案し始めた。どう頑張っても槇本以外に聞く当てはなかった。これまでに何度も試みたが電話は繋がらないし、直接会おうにも何処に住んでいるのかも分からない……完全にお手上げ状態だった。
「ん-、どうしたもんか……」
そう呟きながら髪を拭いていたバスタオルを使い、2つに分けて前に持ってきた髪にタオルを被せクルクルと包んでいく。そのままタオルの中に髪をすべて入れて両端を頭上で結んで落ちないような形に仕上げていた。
「やっぱり聞くしかないんだろうなぁ……」
(でも、やっぱり聞きにくいよ……別れた人のことなんて)
睦美は充電器に刺していたスマホを手に取り、側にあるソファーへ腰を下ろした。背もたれに体を預けたまま天井を仰ぎ、スマホの画面をつけたり消したりしている。その物悲しげな表情からは自分の無力さとの葛藤が伺える。
「そうだよね、無力だよねー。結局、自分一人じゃ何も出来ないのが現実だよ」
『そんなことないっすよ? ちゃんと進んでるじゃないっすか』
「確かに勇気だして聞いただけでも前進してるのかなぁ……」
『——今から語るのは特別っすからね!』
「ん? どういうこと?」
あの日……睦美がすべてを奪われたあの日からどれだけの月日が過ぎたのだろう。
(——!)
人を信じることが出来ず、誰も自分に近づけない程、心に深い傷を負った。なんとか助けようと手を伸ばしてくれてたその手さえも、恐怖からその手を振り払った。光の見えない毎日の中で心身ともに弱っていく自分の姿さえ気にもせず、唯々時が過ぎていくのを待った……いつかこの夢は覚めるのだと信じて。
(なんで急に昔の話を……)
しかし、待っていたのは変わることのない現実と心に傷を負った自分の姿だった。そこからの睦美は一人だった。常に一人で自分に問いかけ続けていた。
(やめて……お願いだから……)
そんなときに出会ったのだ、自分を闇の中から連れ出してくれる光に。その光は睦美を闇の中から救い出すことが出来たが、彼女の中の闇を払うことは出来なかった……どれだけ寄り添おうと何も出来なかったのだ。
(……その光って、君のことだよね?)
光は無力だった……しかし、何も見ようとしなかった睦美にどうしても見せたいものがあった。それは闇の中に居た彼女を助けようと手を伸ばしてくれた人の意思。諦めず助けようとしてくれてる人が居ることを知って欲しかった……その手を掴んで欲しかった。その手の持ち主なら彼女の中にある闇を払ってくれると信じていたから。
繰り返される闇に閉ざされ苦悩する日々にどれだけの時間を費やしたことだろう……そんな出口の見えない中、ついにその瞬間は訪れたのだ。
——光は睦美に、助けようとしてくれるその手を掴ませることが出来たのだ!
(私のことを助けようとしてくれてた人……⁉)
その助けようと手を伸ばしてくれていたのは、西宮あゆみと槇本俊輔の二人だった。彼女達は諦めることなく睦美を助けようと手を伸ばし続けてくれていたのだ。
「そう……だったよね、あの二人だった……」
『もう分かるっすよね? 睦美さん一人じゃないっすよ? 止まってた時間を動かすことが出来たんすよ? 今助けを求めることを躊躇してる場合じゃないっす!』
「……うん!」
泣いているのにも関わらず、睦美は満面の笑みで頷いた。その笑顔が見せる輝きを言葉にして表すのは無理だろう……だが、それでいい。1つくらいは言葉にして現すことの出来ないような神秘的なものを見せているほうが本当の彼女らしいから。
「——えっ! この件ってラブコメ要素だったの⁉」
『——! 今ので全部台無しじゃないっすか!』
「あはは! まぁ、そんなもんでしょ」
(もう絶対言わないけど、本当にありがとう。ちゃんと道を照らしてくれて……)
その後は特別変わったこともなく、ベッドの上で本を読むことに夢中な睦美の姿がそこにはあった。いつもと変わらない日常は確かにここにある……新しい一歩を踏み出す為の拠り所として存在する止まり木にも似た日常が。
「——あっ! 洗濯物入れるの忘れてた!」
『……………………』
こうして呪われてると称された睦美の波乱に満ちた誕生日は、忘れられていた洗濯物を取り込むことで幕を閉じた。
(……あれ? 私「呪われてる」って口に出して言ってないよね……?)
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