第5話 「いや、君は騙されてる!」

 終業後の更衣室の中は、朝のそれとは違って賑やかだ。今日一日の仕事の愚痴が聞こえてきたかと思えば、この後の予定の事で盛り上がりを見せたりと常に騒がしい。和気藹々としたその雰囲気は、まるで女子会でもしているのかと思えてしまう。そんな中でも睦美が話に加わることはない。周りもそれを知ってか、話しかける人の姿はなかった……ただ一人を除いて。


「お、いたいたー、睦美おつかれー」


「七瀬さん、お疲れ様です」


 更衣室に入ってきた二人組のうちの一人が、やっと見つけたと言わんばかりに話しかけてきた。その声に続くように、もう一人も挨拶をしてきた。


「逢澤さんに柊木さん、おつかれさまです」


 睦美は声のする方にふり返ると同時に誰なのかを確認するとすぐに挨拶を返した。今しがた着替え終わったばかりで開いたままだったロッカーの扉を閉め、改めて二人に向き直った。二人は経理部で働く同僚である。そして、この逢澤こそが遠慮なしで睦美に話しかけてくる唯一の存在だった。一方、柊木は逢澤の後輩というだけで特別親しいわけではない。逢澤のことを姉のように慕っていて、いつも行動を共にしている。


「あー、その声よー……癒されるわー」


 そう言うや否や、逢澤が睦美に抱き着いてきた。いつものスキンシップのようなものなのだろう、慣れてしまっている睦美は微動だにもせずに離れるのを待った。


「私を探してたみたいですが、どうかしたんですか? 何かありましたか?」


「そうそう! 睦美、今日誕生日でしょ。お祝いも兼ねてご飯でも行かない?」


「お祝いなら昨晩にスマホの方へメッセージで頂きましたよ?」

(あの返信のやり取り、逢澤さんが誰よりも一番長かったんだよ……)


「それはいいの、だからご飯行こ? もっと色々話しよ? その声聴いてたいのよ」


「要するに、私の声を聴きたいだけですよね?」

(やっぱりかぁ……、逢澤さん声フェチだからなぁ)


【逢澤響子】……社内では声に性癖があることで有名だった。長身でシャープなフェイスライン、そこに切れ長なつり目がきつめのイメージを作り出している。性格も姉御肌という言葉がしっくりくるほど面倒見が良く頼りになる。それもあってか、性癖とのギャップの大きさが知る人の記憶に焼き付いてしまっているのだ。

 ちなみに、隣にいる柊木も睦美に負けず可愛いアニメキャラのような声の持ち主である。逢澤が傍らに置いて面倒を見ている理由は、おそらくそれなのだろう。


「いいじゃない! 可愛いは正義って言葉あるでしょ? 声も一緒だぞ」


「いや、もう何を言いたいのか分からなくなってきてますよ?」


 このままでは埒が明かないと考えた睦美は、困った表情で柊木のほうを見て助けを

求めてみた……が、笑顔を返されるだけに留まった。


「それにしても、お二人は仲がいいですよね? 同期だからですか?」

(柊木ちゃんには私たちが仲良く見えてるのかぁ、私普通に困ってますけど……)


 「いやいや、違うよ? 仲はいいけど同期じゃないよ? 歳は一緒だけどね」

(勝手に仲がいいことにされてる! まぁ、そう言ってもらえるの嬉しいけど……)


 「えっ、そうだったんですか⁉」


 柊木はまったく予想してなかった逢澤の返しに驚きを隠せずに返答した。その慌てた姿を見て睦美は、微笑みながら軽く頷いて見せた。


「睦美はね、中途入社なのよ。……何年前だったっけ?」


「かれこれ10年前でしょうか……」


「お! 10周年じゃん! お祝いしないとだねぇ……ご飯行くか!」


「何でそうなるんですか、私欲の為になんでもこじつけないでください」


「やっぱダメかぁ……ダメなの? 本当にダメなの?」


 残念そうに何度も問いかけて来たが面倒見の良い逢澤のことだ、おそらく睦美の様子に異変を感じて気にかけてくれたのだろう。


(いや、君は騙されてる! 絶対に声聴きたいだけだよ? この人は!)

「本当にすみません、今日は予定があるんです」


 申し訳なさそうに逢澤に断りを入れる睦美、その脳裏は今晩のことで一杯だった。どうしても聞かなくてはいけない事がある。今までのように無視して平穏を守るという選択肢もあった……だが、今回はそれを選べない。知りたいのだ、純粋に。


「そっか、じゃあ仕方ないかぁ。何かあったんならいつでも言いなよ? 私で良かったら相談乗るからさ! 柊木、着替えたらご飯行くよー」


 逢澤は睦美の二の腕を軽く叩きながらそう言うと、横を通り過ぎ自分のロッカーへと歩いて行った。それを柊木が会釈しながら追いかけていった。


「ありがとうございます。では、お先に失礼します」


「おつかれー、また明日ねぇ」


「お疲れ様でしたー」


 睦美は二人と挨拶を交わすと、他の従業員にも会釈をしながら更衣室を出た。

 今からの事を考えると、踏み出すその一歩が重く感じる……。毎日のように通っている、このエレベーターホールまでの通路も心なしか長く感じてしまう。


(考えても仕方ない! とりあえず帰ろう……考えるのはそれからだ)


 一度大きな深呼吸をし気持ちを整え、しっかりと前を見て一歩を踏み出した。そこにあった通路はいつもと変わらず、歩みに重さを感じることはもうなかった。


「——あ、晩御飯どうしよ」


 そう呟いた睦美の頭の中では、すでに晩御飯の事を考えていた……って!


『台無しじゃないっすか! いい感じの緊張感の中で帰宅の流れだったのに!』


(うわ、ここでツッコんで来るのか)


『緊張感とか無いんすか! 今から大事な局面迎えるんすよ⁉』


(そんな身勝手な事言われてもなぁ……お腹は空くじゃない)


『今は周りに人もいて話せないだろうから、言い分は帰ってから聞くっす!』


(そういう配慮はできるんだ……でも、面倒だわぁ)


 万全の態勢で事に臨みたい睦美は、食事一つでさえ疎かにするつもりはなかった。健康にも配慮した食事は、一人暮らしの生活を守るイベントのようなものだからだ。


(おぉ! なんか上手くまとめて着地した……けど、ぷぷぷ……笑える)


 今から向かう目的地が決まった睦美は、自宅近くのスーパーに向けて歩きだした。

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