第3話 また増えた悩み……

 空から照り付ける日差しは想像以上に暖かく、季節が春を迎えたのだと感じさせてくれる。一方、吹き抜けていく風は体温を奪っていくほどに冷たく、季節がまだ冬なのだと錯覚してしまうくらいの余韻がある。そんな季節の変わり目だからだろう、行き交う人の服装も色とりどりだ。


 今日の睦美は、白色のゆるニットの上にカーキのテックパーカーを着てスポーツミックス的にし、こなれた雰囲気を出している。さらに黒のスリットパンツがメリハリを出し、大人っぽさも演出している。見た目だけなら、童顔とポニーテールのおかげで20代に見えなくもない。ギリギリ見えなくもないが……睦美は40歳なのだ。


(そこは20代に見えるって言い切ってよ! 噂の読者さんの想像にまかせなよ! 外じゃなかったら文句言ってやるのに……)


 ウォーターフロントに開けたこの地域は、新興住宅地として区画整理された場所なので生活に必要な施設は一式揃っている。その一角にあるマンションに睦美の住まいがある。自宅からオフィス街にある職場までは徒歩で約15分、思っているほど遠くはない。少しでも通勤のリスクを減らす為に選んだ場所だから当然だ。


「もう桜の季節なんだよねー」


 通勤路にある桜並木を横目で見ながら、ここで見る何回目の桜の花なんだろうと思案していた。いつもと変わらないはずのその景色は、風で散る花びらのせいか、不思議と儚さを感じさせる。心境の変化とは見るものをこうも変えてしまうのかと、今朝のことを思い出していた。


「はぁ……、気持ち切り替えないと……」


 視線を戻し、前を歩く人の背中を見ながら吐いたその溜息は、いつもの日常とは違うことを感じている自分の不安の現れだった。理解してもどうすることもできない、そんな気持ちと葛藤しているのだと……。

 人間なんてものは存外脆くできている。一度でも不安という名の蜘蛛の巣に絡まってしまったら、簡単に抜け出せるものではない……そう、睦美も例外ではない。むしろ、人間不信にまで陥った経験のある睦美にしてみれば、出口のないトンネルの中を明かりもなしで、一人彷徨い続けているようなものだ。



 ——今この瞬間も、歩きながらすれ違う人の視線が気になる。


 ——聞こえてくる何気ない会話さえ、自分のことを言われている気がしてくる。



 気が付いた時には視線は下を向き、歩きながら視界に入っていた桜並木さえも見られなくなっていた。


(なんでよ……。こうなるのが嫌だったから、変わらない日常を求めたのに……)


 チョットしたポジティブな好奇心。そこから思い出し見つけた穴を埋めようと連絡を取る決意までしたのに、今となっては後悔の念で一杯だった。思い立ってからまだ1時間ぐらいしか経ってないのに、睦美は震える手を見つめながら泣き出しそうになるのをこらえるのに精一杯だった……。


 通勤や通学の人の流れの中で、色々と思案しながら歩き続けていた睦美は、自分がオフィス街までたどり着いていることに気付けていなかった。考え事をしていたり何かに夢中になっていると、時間が経つのを早く感じるとよく言われるが、まさにその通りだった。

 そんな彼女の目の前では、青空を映し出したような色をしたミラーガラスで覆われた20階建てのビルが、朝日を反射しながらその存在をアピールしていた。睦美はその反射した光の眩しさで自分が今何処にいるのかを理解した。


(はぁ……何してんだろ、私……)


 ようやく思考が追いついたのか、一度立ち止まり周囲を見回して溜息を吐く……。重く小さな一歩ではあったが、意を決したかのように歩きだし、目の前にあるビルの隣に建っていたレトロな雰囲気を醸し出すクイーンアン様式が特徴的なレンガ造りの建物へと入っていく。睦美は脇目も降らず、人が行き交うエントランスを足早に通り抜け、正面奥にあるエレベーターで職場のある5階へと向かった。



 エレベーターを降りてからの睦美は、さっきまで下を向いて泣きそうだったのが噓のように、今は明るい表情ですれ違うすべての人に挨拶をしていく。


(いつも通りの自分で対応しなきゃ……)



 ——自分の心境の変化を悟られるのが怖かった。


 ——必要以上の事を聞いてこられるのが嫌だった。



 対応を一歩間違えれば、相手が自分の見方を変えるかもしれない。そうなった瞬間、いつもと違う日常になってしまうかもしれない事への恐怖心。気にしすぎだと思うかもしれないが、これが睦美の現実だ。あの日から変わることなく続いている、未だ覚めることのない悪夢なのだ。

 エレベーターホールから続く一本道の通路には、左右にいくつか部屋があり、応接室、会議室、営業部、経理部と順番に札が掛けられている。睦美はその通路の一番奥にある更衣室へと向かった。



「七瀬さん、おはようございます!」


 更衣室で着替えを済ませ、営業部の扉を開けて中に入ると、スーツ姿の若者が挨拶をしてきた……、営業部の後輩の秦だった。


秦蒼汰はたそうた】……その風貌は、160センチ位と小柄だが、二重のアーモンドアイに髪はモカブラウンのマッシュスタイル。色白で童顔の世にいうイケメンだ。気さくで話し好きな彼は、暇さえあれば誰かと話をしていることが多い。今年で入社四年目の26歳だ。


「おはようございます、秦君」


「七瀬さん、聞きました? 今年の新入社員の話!」


 秦は足早に近づきながら、睦美に食い入るように聞いてきた。知っていることを話したくて仕方ないのが、嫌という程に感じ取れる。


「いえ、まだ何も聞いていませんが……」


「——! 聞いてくださいよー」


 睦美は気圧されたのか、一歩引きながら困惑した様子で答えた……。その矢先、待ってましたと言わんばかりの勢いで、秦が嬉しそうに話し始めた。


「この営業所にも、セールスで新入社員が配属されるらしいんですよ! やっと僕にも後輩が出来るんですよー」


「そうなんですね、おめでとうございます……でも、ここ以外の営業所には、何人か後輩いましたよね?」


「確かにいますけど……。それでも、やっぱり同じ営業所内で先輩風を吹かせたいじゃないですか!」


「先輩風ですか……秦君らしいですね」


 睦美は苦笑いしながら答えた。それと同時に、秦の嬉しそうな顔を見ていると、自然と心を救われたような気になった。


(一人で思い悩んでたけど、ここはいつもと変わらないな……)


「あと、内勤にも新入社員が来るらしいですよ? 七瀬さんにも後輩ができますね」


 そう言うと秦は満足したのか、他の社員のもとに歩いて行った。


(――え? 新入社員の後輩? 内勤で? 嘘でしょ……)


 寝耳に水とは、まさにこのことだ。槇本のこと、あゆみのこと、新入社員のこと。40歳の誕生日の今日、睦美の平穏は消え去ろうとしていた……。

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