第2話 「いい予感はしないなぁ……」

 部屋の窓に掛けられたカーテン越しに射し込む薄明かりの中、無造作に置かれたスマホから放たれたアラーム音が早朝の静寂しじまに水を差すかのように一日の始まりを告げていた。


「はぁ……まだ眠いよぉ。これがアラフォーの洗礼なのかぁ……」


 睦美は寝ぼけ眼でそう呟きながら誕生日の朝を迎えていた……時刻は6時を過ぎたばかりだ。日付の変更と共に送られてきた大量のメッセージ。その対応に追われた結果、予想通りの寝不足だった。

 しかし、昔からの友達を除けば返信のやり取りはさほどなく、思っていた以上に早く終えることができた。だが、それでも寝不足なのには理由がある……【槇本俊輔】からのメッセージによるものだ。


 まだベッドの中で微睡んでいたい自分に別れを告げるかのように、睦美はその身体を勢いよくベッドの外へと連れ出していた。


「よし! 今日は洗濯することからだね」


 両手を限界まで天井に向けて上げ、全身をほぐすように伸びながら呟いたそれは、いつもと変わらない日常の開始を伝える合図のようなものだった。

 睦美の生活は、変化を避けるために一定のルーティンがある。その1つが洗濯だ。一人暮らしなのでそれほど溜まらない洗濯物は、日曜日と水曜日の週に2回と決めている。今日がその水曜日にあたる。

 キッチンと洗面所に掛けてあるタオルを回収し、素早く洗濯機に投げ入れる。そのままの流れで洗剤を入れ、スタートのボタンを押した。


「さてと、次はコーヒーだ……」


 いつもの決まったルーティンでさえ、口に出して自分で確認をしてしまう。変化を嫌い保守的になった代償なのか、ただの一人暮らしの寂しさからなのか……。おそらく睦美自身も気づいていない無意識の言動だろう。


「毎日のように聞かされてるからちゃんと分かってるわよ!」

(まぁ、無意識なのは認めるけど……)


『そこは毎朝必ずツッコミ入れてくるっすね』


「こっちはすでに返し文句がルーティンになってるわよ!」


『変わらない日常に貢献出来きてるみたいで光栄っす』


「はぁ……、もっと違う形で貢献して欲しいもんだよ……」


 溜息と共に見せる愛想笑いが決して怒っているのではなく、感謝と共にそれを許容していることを物語っていた。


(いやいや……そのポジティブ発言に呆れてるだけなんですけど?)



 洗濯物が終わるのを待ちながらトースターから取り出した焼きたての食パンを食べていた睦美は、手に持ったスマホの画面を見つめたまま止まってしまった。昨日のメッセージのことを思い出したのだ。

 結果から言えば、槇本からのメッセージにだけは返信が出来なかったのだ。どうしても思い出してしまう苦い過去……そこには、今の自分を作り上げた原因のすべてがある。容易に触れることなど決してできるはずがなかった。


「エルさん、なんで今になって連絡してきたんだろ……」


 エルという名前は、槇本が当時使っていたインターネット上でのハンドルネームだ。睦美と槇本が知り合ったのは、インターネット上のゲーム内でのことだった……かれこれ20年程前の話になる。

 その頃の睦美は、今の性格とは正反対で面倒見の良い楽天家だった。人懐っこく誰とでも肩を並べて遊ぶ姿に、周りの知人が憧れるほどだった。そんな当時の睦美が密かに想いを寄せていた相手……それが槇本俊輔、その人だった。


「やっぱり、どれだけ考えてもいい予感はしないなぁ……」

(昔の片想いの事まで思い出さされたんだもん、迷惑な話だよ!)


 その手に持ったスマホの画面をつけたり消したりしながら遠くを見つめていた。拭い切れない不安、思い出したくないことばかりが脳裏を過っていく……。


「でも、楽しかったんだよなぁ……エルさんやマリモさん達と遊ぶの……」



 ——その記憶の中で思い出した、もう一人の忘れてはいけなかった大切な名前。



「——あゆみさん、今どうしてるんだろ……」


 思い出したくないという感情から一転して、あゆみのことが気になって仕方ない。


西宮にしみやあゆみ】……当時、マリモというハンドルネームで活動していて、睦美を傍で支え続けてくれた友人にして恩師だった人だ。人見知りが激しく、特定の人としか会話をしない変わり者だが、面倒見の良さでは想像以上の優しさを見せてくれていた。そんな彼女と連絡が取れなくなってから、すでに10年以上は過ぎている。


 気が付けば睦美の中で槇本からのメッセージは、あゆみと何か関係があるのではないかと思うようになっていた。


(……そういう勘の良さは本当に心を読まれてるみたいでなんか怖いわぁ)

「よし! 今晩連絡してみよう。誕生日祝いのお礼も言っとかないとね」


 そう決意したものの、槇本にあゆみの事を聞くことが知りたいことを知るための近道なのだと解っていても複雑だった。なぜなら、当時の二人の関係は恋人同士だったからだ。もしかしたら、今も二人は変わらず恋人関係にあるかもしれない。そう考えれば考えるほど、かつて彼に想いを寄せていたからこそ聞きにくい……いや、違う!



 ——もう忘れたと思っていた槇本への想いは、まだ生きていたのだ!



「——! 違うからっ⁉ そんなこと無いからね? 想いとか絶対に無いから!」


『そんなに強く否定しなくても……。別にいいじゃないっすかー』


「否定するわよ! 無駄に話をややこしくしないでよ……」


『自分的には、かなり良い感じで繋いだつもりだったんすけどねー』


「確かに、あの頃の想い人だったことは認めるけど……。過去は過去、今は今!」


『そんなんじゃ、いつまでたっても恋人出来ないっすよ?』


「うっさい! 出来ないんじゃなくて、必要ないの! 今の生活環境を維持してたいの! この平穏で気楽な今を変えたくないの!」


『はいはい、そういう事にしておくっす』


「…………」


 何か思うところがあったのだろう。その表情からはさっきまでの余裕のある明るさは消えていた。睦美は無言のまま洗濯機の方へと歩いて行き、いつの間にか終わっていた洗濯物を取り出し、慣れた手付きで干していく。タオルや服はベランダに、肌着や下着は室内に、女性の一人暮らし故の防犯対策のようなものだ。



 その後、早々に身支度を整えた睦美は、いつもと変わらない時間に家を出て職場へと向かった。だが、その足取りがいつもよりも重いのは言うまでもなかった……。

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