第2話 霹 靂 2  (紫陽花の咲くころ)


         紫陽花の咲く頃


          💎 ボルジュ


 目白の豪邸の玄関先に色とりどりの花をつけはじめたころ、P介からバイトの誘いがあった。 そして、ついでみたいに、先日の彼女との出会いはうまくいったと照れながらも言っていた。

 二人は目白のヒロのアパートでごろごろしながらアルバイトニュースに目を走らせた。 時給、四二〇円~四五〇円の間をうろうろして新宿の喫茶ボルジュに決めた。

 P介は、彼女がアメリカに短期の留学をすることに刺激を受けて、自分もアメリカに行く旅費をつくると言いだした、それが第一の目標らしい。

 ヒロの目的はとりあえず冬のスキー場を旅する資金をつくることだ。

 P介とヒロは、新宿のハイカラな喫茶店ボルジュに電話した。 担当の原さんが是非来てくれと言うことで、行ってみて、その自由な雰囲気に飲まれて、直ぐに二人は即決した。体の小さいヒロはカウンターで、P介はホールの担当と決まった。

 このハイカラな三階建て喫茶店は、正社員のホール主任兼人事担当の原さんとカウンター兼仕入れ主任の野田さんと、レジ会計担当のおばちゃんの三人で切り盛りしていて、時々部長と名のつく四〇代の偉い方が来店すると言うことだった、そして他はみんなバイトの学生で十五人くらいが忙しく動き回っていた。

 次の日から、ヒロ達のバイトは始まった、ヒロはカウンター主任の野田さんから、珈琲まめの挽き方、落とし方、サラダのキャベツの切り方、サンドイッチの作り方、各種ドリンクの作り方を矢継ぎ早に仕込まれた。基本的に四人いるカウンター担当は、二人ずつ入ることになっている。ヒロは健ちゃんと一緒に入ることになった。

 その間、P介は楽なもんで、覚えることと言ったら客から注文をとってきてカウンターに伝えて、出来上がったら客の席まで持って行くことだから、それはそれは楽なもんだった。

 カウンターは、各ホールからアイスツー(アイス珈琲)、ホットスリー(ホット珈琲)、バナジューワン(バナナジュース)とミルクセーキワン、焼きハムサンドワンとミックスサンドツーなどのオーダーをすべて聞いて二人のカウンターがドリンクとパン類に分かれて作る。

 オーダーを聞くだけでも慣れるのに時間が少しかかった。オーダーを上げると、洗い物に追われながら、次の準備にキャベツを切ったり、珈琲を落としたりしなければならず、全くと言っていいほど暇がない。

 それにホールの連中とは違って、足はサンダル履きで、しょっちゅう足下のキャベツの切れ端や汚れを洗い流すために水を撒く、だから数日で足はふやけてしまう。

 だんだん慣れてくると、三十くらいのオーダーはその順序と種類を暗記できるし、キャベツもものの数分で一個丸ごと千切りにできるようになる。そしてそのうち業者への注文もするようになった。

 ヒロは、はじめは楽そうなホールの仕事がうらやましく思えて、カウンターの仕事に身が入らなかったが、徐々に包丁を使ったり、豆をひいたりすることがおもしろくなってきた。二斤のパンを指示された枚数に等分に切れるようになっていた。この頃になるとカウンターに座ったお客さんとも笑顔で会話しながら作業できるようになった。カウンターには一人で来店したお客さんがボックス席を嫌って座ることが多く。至って静かな環境だ。



          カーディガンの女


 もうすぐ梅雨の季節がくるが、その日は一足早く梅雨が訪れたようで、朝から小雨がしっとりと薄汚れた新宿駅南口のビル街をしめらせていた。

 カウンターに近いボックス席は、最近よく来るようになった、近くの専門学校に通う若い女子達三人が陣取っている。 彼女らはバイトの実ちゃん(みのる)とリーゼント山田君が、ディスコに踊りに行って声をかけたのがきっかけで、店に出入りするようになったらしい。 彼女らは化粧が濃くて服装が派手で、これじゃ声をかけてちょうだいって言っているような子達だ。 ヒロは特に親しいわけでもないし、アイスティー一杯で二時間も居座っていられるとうんざりしてくる。

「アイスティー、ワン」

 ヒロ達より二日遅れてボルジュに入った柳井がオーダーを入れた。 柳井は経験者なためか、その物腰や動作がずいぶん慣れている。

 アイスティーを作りながら女達の会話に耳をそばだてていると、時々朝帰りをしているようで、昨晩はどこどこに泊まったとか、朝まで踊っていたとか、けっこう乱れた生活をしているようだ。

 そして極めつけは、将来の夢だ。卒業したら有名な会社で働いて、その後は金持ちのいい男と結婚をして、幸せな生活をおくることらしい。 彼女達の話が一段落したころ、目の前のカウンター席に、紺のジャンパーを着た地味ななりの男が座った

 男は着ていた紺のジャンパーを脱ぐと白いポロシャツになった、ぶ厚い黒縁の眼鏡の縁を持ち上げて、「珈琲お願いします」と注文してきた。サラリーマンではなさそうだ。彼は座った椅子の隣の席に書類入りの大きめの封筒を置くとジャンパーを丁寧に重ねて置いた。

 立て続けに店のドアのカウベルが鳴り、サングラスをかけた背広姿の男が入ってきて壁際のうるさい女の子の隣のボックスにカウンターを眺めるように座った。 次に水色のブラウスの女性客が入ってきた。女は窓際のボックス席に座り、雨模様の外を見ていた。

 カウンターの黒縁眼鏡の男は、頭を下げながら目はカウンターの男を追っている。黒縁眼鏡の男はヒロが出した珈琲をうまそうに飲んだ。

 また客の来店を知らせるカウベルが鳴り、別の女性客が入ってきた、ピンクのブラウスの上に紺色のカーディガンを着ている彼女は、躊躇せずにまっすぐにカウンターに近づいてくる。 彼女は緩い肩までの髪をさわやかに揺らしながらカンターの彼の荷物のある隣の席に腰掛けた。

 カウンター男は二本目の煙草に火をつけてうまそうに吸った。

 ヒロは、彼女にお冷やを出すと注文を取った、彼女はアイスティーを希望した。彼女に透き通るグラスのアイスティーを出しならヒロは妙な視線を感じた。さりげなく周りを見ると、さっきは入ってきたサングラスの男がじーっと黒縁眼鏡の男の背中を見ている。さらには窓際に座った水色のブラウスの女も黒縁眼鏡の男を見ていた。

 しばらくすると黒縁眼鏡の男は、珈琲を飲み終え、お冷やをグラスの半分ほど飲み込むと目の前の伝票をもって席を立った。 隣に置いてあった紺のジャンパーを持ち上げると抱えてカーディガンの女の席の後ろを通った。 その瞬間に誰にも聞こえないような小さな声でさりげなく「よろしく」と挨拶した。そのまま会計に向かい、済ませると店を出て行った。 声をかけられたカーディガンの女は聞こえないふりをし、挨拶を返そうともせず、何事も無かったようにアイスティーを飲み続けた。 カウンター内にいたヒロは妙に思ったが、人違いか何かの間違いだろうと思いこむことにした。

 眼鏡男が出て行くと、ボックス席の男と女は急いで黒縁眼鏡の後を追って店を出て行った。 カウンターの女は、ゆっくりとアイスティーを味わうと、隣の席に残された男の置いていった大きめの封筒を抱え、伝票を持って会計を済ませて店を出た。彼女を追って外を見ると、店の大きなウィンドー越しに、雨の中で傘をさしてスーツの男が待っていた。その男の奥で作業着姿の顔に黒子のある男がこちらを見ていた。 ヒロの体に一瞬鳥肌が立った、そんなヒロに柳井が声をかけてきた。

「今夜、実さんと山田さんと飯に行くんですけど、ヒロさんもどうですか」

「わりぃー・・おれ今夜用事あるから、またでお願いするよ」

「そうですかぁ・・わたしとはじめてなんだから、どうですそこを曲げて行きましょうよ」

「わりるいねぇ・・今夜ちょっと外せないんだよ・・申し訳ない」

「そうですか・・そこを何とかなりませんか・・」

 意外としつこい押しだった。何度かやりとりがあってやっと諦めたようだった。

 次の日山田君が妙な顔をして聞いてきた。

「お前柳井と何かあんのか」

「どうしたんですか」

「いや。柳井の奴、お前の住んでるところや大学なんか聞いてきて、なんだかお前に興味があるみたいだから」

「いやですねー、奴とは何もありませんよ・・」

 ヒロはそのことがあってから柳井の誘いをすべてスルーすることにした。



             垣間見て


 そんな事があった三日後、今日も来店している女の子達がカウンター席の隅を埋めていた。そして、今日も黒縁眼鏡の男は紺のジャンパーを着て来店すると、中央のボックス席に座った。

 数分後、先日のサングラスの男が入ってきてカウンター席に座った。男は先日来た男だ。今日は上下グレーのスーツを着こなしていた。 彼は座ってスポーツ新聞を広げた。

 男の注文はモカだった。ストレートの珈琲を注文する客は少ない。 豆を挽きサイホンで珈琲をおとすと、温まっているカップに注いだ。 相変わらず三人娘の話はうるさい。

 正面の窓際では、髪の長い三〇代の落ち着いた感じの女性が一人アイスミルクティーを飲んでいる。その隣のボックス席では、グレーのTシャツを着た若いちゃらちゃらした男が競馬新聞を食い入るように見ている。 そして、壁際の席では学生らしいカップルがサンドイッチをつまみながら何かひそひそと話している。 窓の外に目をやると今日も薄暗い街を足早に人々が雨の中を行き来している。

今日も、お客さんの入店を告げるカウベルが透き通る音を奏でる。 たとえそれがどんな客であろうとも。

 カウベルが鳴り若い女性が入店してきた。 女性は折りたたみの傘を持ち紺のグリーンのワンピース姿だった、先日カウンターに座った彼女だ。

 女性は、中央のボックス席に座る黒縁眼鏡の男に軽く頭を下げると向かいの席に腰を下ろした、女性はアイスティーを注文した。

 落ち着いた雰囲気のクラシックの流れる店内で、二人はひそひそと話し始めた。男はアイスコーヒーを呑みながら、時折誰かを気にしているのかまわりに目を配る。顔を寄せて話す二人の会話は聞こえてこない。 それよりも相変わらず端っこのボックス席に座る三人娘の声が大きくてうるさい。

 また、カウベルが鳴りドアが開いた、ブルーのワンピースの美しい女性の白い手がドアから伸びてきた。すかさずP介がにこにこしながらカウンターの端の席に案内した。 P介がカウンター内に首を伸ばしてきてささやいた。

「俺の彼女・・よろしく」

 席に座った女の子は黒目がちでつやのある口元をきゅっと結んで、ヒロの顔を覗いて頭を下げた。

「はじめまして・・P介の友達のヒロです、よろしく、いつぞやは犬にはお世話になりました・・」

 冗談を口ずさみながらアイスティーを出すとカウンターを滑らせた。 P介が受け取ると二人だけが分かる何かを話し始めた

 正面のボックス席に視線を移すと、黒縁眼鏡と女性の二人はさらにささやくように話し込んでいる。男は週刊誌をテーブルの上に置いた。 女はバックから小さな封筒と二・三枚の資料のようなものを取り出すと、それを手渡し、またさらに男に何かしら話しはじめた。

 カウンターの男はスポーツ新聞を見ながらも、半身になって耳は二人の会話に集中しているようだった。 男は、時折大声のあがる女の子達をにらむようにしながら聞き耳を立てる。

 男は資料を折りたたむと女が置いた小さな封筒を内ポケットに入れて、伝票を持って立ち上がろうしたが女が男にもう一度座るように促した。 男は内ポケットの封筒をテーブルにもどして、また女の話に聞きいった。途中何回か男は口を挟んだ。

 今度は、男は納得の表情を浮かべると、その資料を鞄に入れ、女性に別れの言葉と礼を言って、伝票を引き寄せて立ち上がろうとした。 その時、女の白い手がすーっと伸びて男の手の甲のを優しく押さえた。

「ここはわたしが出しますわ‥」

 と、はじめて聞こえるような声を出した‥男は素直に伝票から手をどけて。

「じゃ‥ごちそうになるよ」

 うなずくと鞄と週刊誌を手に、立ち上がって店を出て行った。

続けて、あの窓際の髪の長い落ち着いた感じの女性が、この時を待っていたかのように伝票を掴んで立ち上がった。

 それから残された女は、何か考え事をしながらアイスティーを味わっていたが、おもむろに伝票を持ち上げると、手の裏に伝票と重なっていた小さなピンクのメモ用紙をポケットに入れながら、ごく自然な姿で何事もなかったように立ち上がった。そして会計を済ませると店を出て行った。この時、カウンターのヒロからは、ポケットに入れたピンクのメモが一瞬だけ見えた。

 カウンターに座る三人娘が、健ちゃんとの会話で盛り上がったのか、一瞬話し声が大きくなった。

 女性が出て行くと、カウンターでスポーツ新聞を見ていた男が、サングラスを外しながらヒロに話しかけてきた。

「君‥さっきまでそこに座っていた男は時々来るのかね‥」

「いいえ、今日で二回目だと思います」

「ありがとう、変なことを聞いて、すまんね‥」

 するとスーツの男も伝票を掴んで、店を出て行った。

 一挙に客が減ってP介と彼女の声が聞こえてきた。二人の方を見ると、彼女が出て行った黒縁眼鏡の座っていた席を見ていた。

「あの人うちの大学で講義しているわよ」

「へー、大学の先生か」

「別の大学の先生なんだけど、うちでも食品衛生関係の講義を一駒持っているようね」



            誘  惑


 それから少しして、ヒロは早めの昼休憩で店を出た。 この辺は駅の南口の近くで、いつも人通り多く混雑している。 ヒロは、向かいの定食屋を目指した。 小雨の降る意地悪そうな空を仰ぐと、雨を避けようと小走りで向かいの店のひさしの 下に向かった。 するとどこからともなく先ほどカウンターにいたスーツの男が隣に立っていた。

「お兄さんちょっと話があるんだけど、昼飯食べながらでもいいから話、聞いてくれる」

 有無を言わせぬ押しのようなものを感じて、一緒に二階の席に上がった。

「カレーでいいかな?」

「あー・・はい・・」

 すると店の奥に向かって注文すると、テーブルに着いた。

「私はある男の調査をしている者だけど、君にお願いしたいことがあるんだ・・絶対に君に迷惑はけないから、話を聞いてくれないかな・・」

「・・すみません。なんだか分かりませんが・・込み入ったことならお断りします」

 ヒロは、変なことに巻き込まれそうな予感がした。唐突にこんなことを頼んでくるなんてありえない・・ヒロの返事なんか気にせずに背広の男は話しを続けた。

「そんなこと言わずに、簡単なことだからまず聞いてよ・・実は、ボルジュをさっき出て行った男のことなんだけど、僕たちは彼を追っているんだ・・彼がまたボルジュに来るようなことがあったら、そっとここに電話して知らせて欲しいんだ。 それだけなんだけど・・」

 このなれなれしさに電話ぐらいならと一瞬心が揺らぎそうになったが、顔には出さずに次の言葉を待った。

 スーツの男は名刺を出した『○○調査会社、調査員、後藤聡×、電話番号』と書いてあった。ヒロが名刺をまじまじと見ていると、内諾したと誤解したらしく。

「ただでお願いするとは言っているんじゃないんだよ・・一回の電話連絡で三千円支払うから。どうかな・・」

 ヒロは、この『三千円』という言葉にその仕事の邪悪さを感じて一気に断る方向に向かった。簡単なことで金を稼げるいい話があるわけがない。以前、執行部との関わりで簡単な仕事には裏があることを思い出していた、だから心のどこかで簡単に手に入る現金収入が邪悪の入り口であると、警戒信号を点滅させている。 この邪悪が断るヒロの背中を押している。そして即座に名刺を押し返すと。

「お断りします・・」

「・・最近、ボルジュでバイト、はじめたばかりなので、あなたの言うようなことまでする余裕がありません」

 カレーが運ばれてきた。ヒロは背広の男を無視してカレーを食べ始めた。

 ・・・・そして急に顔を上げると再度。

「申し訳ありませんが、・・お断りします」

 今度は、さっきよりもきっぱりと断った。

 スーツの男はがっかりしている。あきらめたのか、ゆっくりと自分のカレーを食べ始めた。 ヒロが席を立とうとしたとき、背広の男が独り言のように言った。

「あの一緒に働いている楊(よう)には気を付けなよ。なんでもする奴だからな」

 ヒロは楊という人間に聞き覚えがない。しかし(まさか柳井か)その響きに胸騒ぎがし出した。

 ヒロは、ボルジュに戻ると、お騒がせな三人娘は、まだカウンターにいる。 健ちゃんにからかい半分の冗談をとばしている。

「健ちゃん、飯どうぞ・・」

 と交代の声をかけたら、三人娘は健ちゃんと一緒に店を出て行った。 しばらくして、昼食を終えた健ちゃんが帰ってきて、ヒロの耳元でつぶやいた。

「たかが電話するだけじゃん・・それで三千円なんてぼろもうけじゃん。 俺、引き受けたよ」

 スーツの男は、健ちゃんにターゲットを変えたようだ。 この時二階に上がる階段のところで、柳井がひそひそ話すヒロと健ちゃんをじっと見ていた。 ヒロが健ちゃんにつづけた。

「それでも、なんかやばくないか・・なんか変な人じゃん・・知らせる人がいるってことは、知られる人がいるってことだよ・・引き受けた時点でどちらかの側に着いてしまったってことになると思うよ・・それに言いづらいけどボルジュ以外の仕事じゃないか」

「自分が直接何かしている分けじゃないし、お客さんから頼まれたことと思えばいいんじゃないか、それに自分が何か被害に遭うことは無いと思うけどね・・」

 至って健ちゃんは打算的で楽観的に受け止めていた。



             サポーター


 その晩ヒロはあの佐藤に電話した。ボルジュの周りを駅での泥棒騒ぎの時に会った黒子(ほくろ)のあるスーツの男がうろついていることを話した。佐藤は落ち着いて聞いていた。 そして意外な言葉が返ってきた。

「黒子の男は君のサポーターのようなもんだよ」

「柳井は本名を楊といって外国人だ、三原の仲間で、三原が落として君が拾った封筒の中身を聞き出そうとしているのかもしれないな」

「あの封筒は、三原のものだったんですか」

「たまたま、三原が落として君らが拾ったことで、私たちに貴重な情報が入ってきた」

「楊達に、どうして僕のことが分かったんですか」

「それはそうだろう、奴らも私たち同じように情報網を張り巡らしているからな‥まあ、何だかんだと近づいてくるから気をつけなよ‥黒子がいつも側にいるはずだから、そん時は助けを求めな」

「あれで終わりだと思っていたのに・・まだ苦しまなきゃならないんですか・・」

「そうだねぇ・・拾ったものが悪かった・・交通事故みたいなものじゃないか」

 それでつれない電話が切れた。


 そのことがあってから、柳井(楊)がヒロに健ちゃんとひそひそ話しているけど何かいいことがあったのかと聞いてきた以外は、何事もなく二・三日が過ぎた。

 しかし昼過ぎに、カウベルが鳴り、例の黒縁眼鏡の紺のジャンパーの男が入ってきた。 健ちゃんがヒロと目があった、健ちゃんは二回・三回確かめると、カウンターから出でレジのところに行こうとした。 柳井が健ちゃんを追い階段の影に隠れた。

 その時、レジの近くのピンクの電話が鳴った、レジ係のおばちゃんが対応して、電話を保留にすると、上階のインターホーンを呼び出し名前を告げた。 今度は一階ホールに響くように声を張り上げた。

「石井さんは、いらっしゃいますか?、石井さん・・」

 今、入ってきたばかりの例の男が軽く手を挙げて、おばちゃんにうなずくと、直ぐに電話に出た。

石井という男は、電話口で二言三言話して直ぐに電話を切った。 そして、ヒロの目の前のカウンターの席に着いた。

 健ちゃんは男を確認すると、カウンターから出た。 カウンター席の近くで健ちゃんと石井という男は、入れ替わるようにすれ違った。 そして、けんちゃんは電話を手にすると、例の名刺を取り出して、番号をまわしはじめた。 カウンターからけんちゃんの姿は飾られた植物で見えない。 しかし柳井のいる階段の影から健ちゃんの姿は丸見えだ。

 男は、窓の外をちらりと見て、いらいらした様子を見せながら、出されたお冷やに一口、口をつけると思案気味に数度頭を振り、やがてヒロに顔を寄せてきた、そしてぼそぼそとやっと聞こえるような声でつぶやいた。

「君にお願いがあるんだけど・・事情があって僕はもうここを出なければならない。 そこで、この封筒を後から来る若い女性に渡して欲しいんだ・・頼めるかな」

 なんだか、石井さんの顔を見ていると、あのスーツの邪悪な奴らや、取り込まれた健ちゃんの姿が重なって、彼が追い詰められているようでかわいそうな気がしてきた。

「お渡しするだけですね・・いいですよ・・それでどちら様にお渡しすればよいのですか」

「若い女性で、加藤さんと言います。 たぶん紺のカーディガンを着てくると思います。 必ず加藤さんにお願いします・・お願いします。」

 何度も念を押されたようで、ちょっと違和感があった。

「また、後で来ます。もし加藤さんが現れなかったら、その時まで預かっていてください・・じゃよろしくお願いします・・」

 渡せなかったら後で来るという言葉にヒロの迷いが切れた。 ヒロは電話で呼び出しがあって石井さんとは分かっていたが、もう一度確認した。

「すみません・・どちら様ですか?」

「あー、石井といいます、よろしくお願いします・・」

 ヒロは、預かった小振りな茶封筒を後ろのポケットにねじ込むと、そのままいつものようにカップや皿を洗い出した。

 石井さんは安心したのか、一度ふらふらっとしたが、しっかりした足取りで店を出て行った。

 電話を終わった、健ちゃんが戻ってきた。ちょっと興奮した顔をして。

「例の背広の男が、誰と一緒かとか、何か持ってないかななどと聞いていたけど・・今、例の男が出て行ったって言ったら・・焦っていたようだったよ。 まあ俺はやることやったから三千円が手にはいるから」

 健ちゃんは満足そうな顔をしていた。 ヒロと石井さんのやり取りは、全く知らない様子で、今から手にはいるだろうお金に心をふくらませている。 ヒロは自分のシフトの終わりに、預かった茶封筒をポケットから取り出すと、あまり使わない皿が置かれている棚の端っこに見えないように置いた。

 その日も次の日も、紺のカーディガンの加藤さんは現れ無かった。 ただ、次の日のA新聞の朝刊の片隅に大変な記事を見つけた。



             片隅の記事


 ○○新聞   五月×日 二十三時ごろ、目黒区中目黒□丁目△番地の交差点付近を、▲△□大学の研究員、石井××さん(42歳)が帰宅途中、何者かによって暴行され鞄が奪われた。 石井さんは頭部に打撲を負い、近くの□×▲病院に運ばれた。意識はあり比較的軽傷であったが検査のため入院した。

 続く記事では、金銭目当ての犯行で、最近都内でよく見られる事件で、後方から近づいて棒のようなもので投打し、倒れた隙に金品を奪う犯行の手口であると結論づけ。 そして深夜の一人歩きは避け、できるだけ明るいところや人通りのあるところを‥と注意喚起をしていた。


 ヒロはこの記事を見て、事故にあったのが例の石井さんかどうかは、写真が載っていないので確認できない。 ヒロは別の新聞にも掲載されていないか確かめた。 S新聞の片隅にやはりが同じような内容の記事で載っていた。 しかしS新聞には付記があり「石井さんは現在バイオテクノロジーの最先端の研究者で、多くの企業から注目を浴びており、関係者から様々な心配の声が寄せられている」と載っていた、やはり、石井さんはP介の彼女の言っていた大学の先生だ。 ヒロはここ数日彼を取り巻く不穏な動きに背中がぞーっと寒くなるのを感じた、そしてさらに自分に近づくヨウの存在にも心をかき乱されるのだった。



         🍷 透き通る唇とワイン 🍷


 その日、バイトが終わるとかおるちゃんと待ち合わせをしていた。今夜はバイト代が入ったので一緒に食事をする約束していた。 紀伊国屋の前でポニーテイルの髪を揺らして手を振るかおるちゃんと会った。 かおるちゃんの重そうな鞄を持つと、ヒロはあらかじめ選んでおいた店に向かった。

「ねえ・・何ごちそうしてくれるの」

「今夜は、ステーキでーす・・」

「へぇ・・ヒロポン、ステーキなんて食べるの」

「聞いたことはあるし、見たこともあるけど、大きな声では言えないが珍しく食べたことはない・・僕のお得意は豚肉ショウガ焼きステーキです・・」

「あらっ・・わたしもトンカツだったら、けっこう食べるけど、ステーキはなじみがないもんね・・まあ食べてみようよ・・何せ今日の君の懐は特別、温かいんだからね・・楽しみー・・」

「こんな時じゃないと入れないから、行ってみよーよ・・たぶん大丈夫だよお店の先輩の原さんから紹介されたお店(ところ)だから・・」

 二人には、あまり馴染みのない食事に興味津々、期待と不安を持ちながら歌舞伎町からちょっと外れた店を目指した。夕暮れの中、二人は煉瓦仕立ての半地下の店のドアの前に立った。

「ヒロポーン、なかなかしゃれた店だね・・」

「ちょっとね、原さんの話だと、店に入って何も分からなかったら、お店の人に聞いて教えてもらえばいいって・・」

 二人の気持ちに、それまでの不安が取り除かれ、顔に安堵の色が浮かんだ。

「そっか・・よーし・・」

 二人は期待に胸を弾ませてしゃれた店に吸い込まれた。窓際の席に案内されて座ると、二人でメニューを見てどれにしようか迷った。メニューにあるものは肉であることは分かるがどのようなものなのか皆目見当がつかない。二人で困っていると、親切な店の方が来てくれた。

「今日のおすすめは、ほどよくサシの入ったロースステーキと六種類のサラダですよ」

 と教えてくれた。そして。

「ワインはどうしますか?」

 と尋ねられた。ヒロはちょっと考えてから。

「すみません、分からないのでおすすめがありましたらお願いします」

 ボーイさんが優しく笑うと。かおるちゃんの優しい目がヒロを見ていた。

「それでは、ふさわしいものがございますのでそちらをお持ちします・・」

 それから二人は、運ばれてきた濃いピンク色の透明感のあるワインをもち上げた。ワイングラスは気品のある光沢を乱反射させて存在感を示し、乾いた音を響かせて二つのグラスが響き合った。

 ゆっくりと味わいながら、熱い鉄板の上にのったステーキを小ぶりの固まりにして口に運びながら、舌の上でとろけるような味に酔いしれた。ステーキを堪能した二人は、余韻を楽しむようにさらにワインを口に運んだ。

 そして、ヒロはボルジュで起こった一連の事件と今日の新聞のことを話題にした。

「何で石井さんのような農業関係の大学研究者の人がねらわれるんだろうね」

 新聞を読んだ素朴な疑問を話した。かおるちゃんはじーっと考え込んでいた。

「・・・・」

 とろけるようなワインの濃いピンクに引けを取らない鮮やかな唇にグラスをあてて、じっと目を閉じて俯いたまつげが魅力的だ。 ふっとワインを一口流し込むと。

「聞いたことある・・なんか今、農業関係の企業って、大きくて甘いトマトとかメロンとか大きな種なしのブドウとか新種の開発にしのぎを削ってるって話よ・・」

「そりゃ開発したら全国だからすごいお金になるよな・・」

「そうらしいの・・いやいや全国どこじゃなくて・・わたしの友達が家が農家だからって農学部に進んだのよ。 そしたら・・やっぱり大学ね、その友達が言うには、基本的な理論の他に、作物の品種改良やお酒や発酵や食品の酵母の研究とか、インスタント食品の乾燥技術だとか・・肥料や農薬の研究までしのぎを削っていて、すべてが人類規模でものを考えなければならないらしいの・・そして、それには時間とお金がかかる研究だって言ってたわ」

 かおるちゃんの話は、ヒロの脳が突然、未知の分野に触れることになった時だった。 そして、時代がすさまじい勢いで進歩する音をすぐ側で聞いたような気がした。

「今の農業って、畑や田んぼで作物を作っているだけの時代じゃないんだ・・人口が増え、人の口に入るものだから必ず儲けが産まれるんだよね・・」

「だから、情報や研究データが必要だし、ライバル会社がいたらその研究成果も欲しいんだね・・研究者の石井さんが襲われた真相は、警察の言うような小銭目当ての通り魔的な犯行じゃなくて、もっと意味のある計画的な犯行だったんじゃないか」

「企業ってすさまじいよね・・」

 なんか三千円を餌に釣られた健ちゃんが、塵やほこりのように思えてきて、もしその価値を知っていたら、三千円どころではなく三万円以上の請求しても決して高くない情報なのかもしれないと思えてきた。

「ヒロポンが石井さんから預かった封筒って、もしかしたらデータや化学式なんかがメモしてあるものだったりして・・ヒロポンが預かってるって誰も知らないのよね・・」

「そうだよ」

 なんか、何も起こってはいないんだけど、急にやばいものが側にあるような焦りを感じてきた。そんな気持ちを察したかおるちゃんが。

「ヒロポン・・よかったね・・はじめのスーツ男の誘いを断って、懸命よ。 そして、その封筒のこと誰も知らないんだったら、今は静閑すべきよ・・そして、加藤さんが現れるのをじっと待つべきよ・・」

 話を聞いていて、じたばたしちゃだめだ、じたばたしたら足下が崩れ始める・・そんな気持ちになってきた。

「新聞のように、石井さんが襲われたのだったら、相手は石井さんがその資料を持っていたと思いこんでいたんだから・・。 でも、彼は持っていなかった、すると次に持っていそうな人にターゲットを絞るよね・・」

「それは、加藤さんかも知れないね・・」

 今度は、あの華奢な紺のカーディガンの加藤さんが、椅子に後ろ手に縛られて拷問を受けてる姿が浮かんできた。 頭を振っているとかおるちゃんが。

「いずれ、石井さんは警察にお世話になっているんだから・・警察も動くんじゃない・・ヒロポン・・あんまり心配しないでもう少し待ったら・・」

 警察と言う言葉を聞いて、真っ暗な心の奥の方に小さな明かりがともってきたような気がしてきた。

「ヒロポンって、基本的に人間が優しいから、つっこまなくてもいいところまで首つっこんじゃうんだよね・・でも、わ、た、し、は、そんな君が好きだよ‥」

 さっきまで浮いたり沈んだりしていたのに、この言葉を聞いたとたんに、どこに向かうとも分からない気力がみなぎってきた。そして、残りのグラスの赤ワインを一気に飲み干していた。

「やっぱりかおるちゃんに話して良かったよ‥」

 ボーイさんがにこにこしながら。

「ステーキの方はいかがだったでしょうか‥これが特製のデザートです‥どうぞお召し上がり下さい‥」

 ヨーグルトにブルーベリージャムが揺れるクリームに、さらに所々にチーズがさりげなく顔を出したカップにホークを入れた。 口の中に甘く切ない複雑な味が広がる。ケーキは、ヒロの落ち着かない気持ちを反映していながらも、最後はまとまった味になり、とろけるようにどこかに消えていった。

 その夜は、お互いに幸せな気持ちになった。 企業は常に新しいものをめざし開発に明け暮れている。新商品は大企業になればこそ莫大な利益が産まれる。 そしてその世界では他者よりも早く開発することに命がけで取り組んでいる。 一分一秒が利潤追求の瞬間だ、利益を産むためであれば少々手荒なこともいとわないのも企業だろう。


            黒い帽子の女


 次の日の昼頃、店のカウンターにつばの広い黒い帽子かぶった髪の長い女が座った。 お冷やを出すと注文はアイスティーだった。 帽子のつばで顔が見えなかった、アイスティーを出すと帽子のつばをひょいと持ち上げて顔のぞかせた。 そしてヒロの目を見て、よく通る声で唐突に、しかも怒りがこもった声で。

「預かっているのはあなた?」

 何のことを言っているのか、唐突に言葉のトゲがヒロのとまどった顔をひっかいた。

「・な・な・なんのことですか・・」

 ひるんだヒロの姿を見て、言葉は乱暴だが至って冷静な行動だ。

「だから、石井から何か預かってないか聞いているんだろうよ・・」

 根性もない奴と見たのか、さらにたたみこんできた。 ヒロはさらにおろおろして下を向いて黙ってしまった。 彼女は今度は、あっさりヒロを放棄して健ちゃんの方を見た。

「すると、こっちの僕かな」

 健ちゃんをにらむとにやっと笑った・・そして健ちゃんを呼ぶと健ちゃんは蛇ににらまれた蛙のようになって。

「あのー・・あのーぼぼぼくは・・」

「君が余計なことするから・・わたたち困ったことになったじゃない・・どうしてくれる」

 健ちゃんは、電話のことが思い浮かんだようで、青くなってふるえた。

「ぼぼぼくは・・何にも分からなくて・・い・い・言われたとおりやっただけです」

「そんなことは分かっているよ・・預かっている物をだしなよ・・ほら・・早く・・あの色眼鏡のおっさんからいくらもらったの?」

 矢継ぎ早の質問に、健ちゃんは答えられず唇が震えている。 ヒロは女の顔にぴんときた。分かった。 あの時、窓際のボックスに座っていた髪の長い女だ。 あの時はずいぶん地味な服装だったから分からなかったけれど、よく見るとあの時の女だ・・しかし今日は別人のように綺麗でそれでいて凄みがある。 するとそこに柳井が二階から銀のトレーを持っていつものように降りてきた。 柳井の顔を見上げた女が勢いにのって口走った。

「なんだ楊じゃないか。 この店ではこんな奴も飼っているのか・・よほどの店だね・・」

 楊は気まずそうな顔をして急いで二回に上がっていった。

 この女は、グレーのスーツの調査員の後藤なにがしを色眼鏡の男と言った。 と言うことは後藤達とは違うグループの奴ららしい・・また、柳井のことを楊と呼んだ。 楊という響きは向かいの定食屋で後藤からも聞いた呼び名だ。

 女の話しぶりから、複雑に絡んで暗躍するいくつかのグループがいることが分かってきた。 こりゃさらに複雑だ・・前の晩にかおるちゃんと確認したように、『静閑・静閑』と決め込んだ。 女はまだ健ちゃんに詰め寄っている。

 ヒロが石井さんから預かった封筒はよほど大事なものらしい。 健ちゃんはさらに問い詰められている。

「あなた、ちょっと顔貸しなさいよ・・」

 健ちゃんは、さらに青くなってふるえている。 女は健ちゃんが話すまで、ここを動きそうにない。 このままでは仕事もできないし、常に刃物を突きつけられているような気持ちになる。 ヒロはカウンターの端についている、インターホーンで三階のホールにいる原さんにヘルプを出した。

「原さん、ビーケー(馬鹿の頭文字を取ってB・K)を三階から卸して下さい」

 B・Kこれは、SOS(変な奴が居るという)暗号だ。すると、どやどやと原さんを先頭に三階からバイトのみんなが降りてきた。 ヒロを見ている原さんに、ヒロは女と健ちゃんを見て目配せをした。 すると原さんが健ちゃんに指示を出した。

「健ちゃんちょっと仕入れのことで話があるから、二階に上がってくれる・・」

 健ちゃんは、この一言で女の呪縛から解放されて、二階に上がっていった。 女は悔しそうに二階に上がる健ちゃんを目で追う。 それから健ちゃんは下に降りてくることはなかった。 しばらく女はカウンターに居座っていたが、健ちゃんが下りてこないのでヒロに。

「彼どうしたの・・彼、名前なんて言うの・・」

「健ちゃんっていいます」

「それだけじゃ分からんだろうがー・・フルネームは」

「僕は、最近入ったばかりなのでよく分かりません・・」

 と、ごまかした、さけないヒロの返事に。

「お前・・つかえねぇなぁー」

 彼女は残ったアイスティーを勢いよく飲み干すと無造作に置いた、中から残っていたアイスティーが飛び散った。

「彼に言っておきなさいよ、何か隠しているんなら早くだしなってね・・今回の代償は大きいってね」

 そして席を立ちながら。

「逃げても無駄だって・・ね」

 彼女は、捨て台詞を残すと店を出て行った。

 彼女が帰ると、それまで氷のようだったカウンターが温もりをとりもどした。 いつもの様に注文する山田君やP介の声が響きはじめた。 そうしているうちに野田さんが出勤してきて、ヒロが昼食休憩をとる時間が来た。 今日もボルジュの前の定食屋に入ると、何か見られているような視線を感じ、きょろきょろと狭い店内に目を走らせると、例の色眼鏡の後藤という男がこっちを見ていた。 目が合うと薄笑いを浮かべて、ヒロが座ろうとしたテーブルに近づいてきてどっかりと座った。

「やぁーしばらくだね・・」

「先日会ったばかりですよ」

 トゲのある言い方で返すと、そんなこと鼻にもかけずに。

「君は、健ちゃんが僕に電話をよこした日、店に来た石井という人から何か頼まれなかったかい・・」

 さっきの派手な女といい、この後藤とかいう男といい、あの封筒はよほど大事な物のようだ、さっきの女との会話で脅しに対する免疫ができていた。 あっけらかんと顔色も変えずに。

「いえ・・何も・・」

「本当かい?」

「何を頼まれるんですか・・僕はお冷やを出しただけですが・なにか・」

「ふーん・水を出しただけね」

「座りもしないで、あのお客さんは電話の後、直ぐに帰りましたよ」

「奴はあの時、他に誰かと話さなかったかな」

「分かりませんよ」

 色眼鏡の後藤は、ヒロの素っ気ない返答と座らずに直ぐに帰ったと言うことで納得したのか、急に話題を変えた。

「ところで、さっき威勢のいい女が行ったろう・・あの女狐は何を話してたかね?」

「僕にではなく、健ちゃんに話していましたから、何を話していたか分かりませんよ。」

「隣にいたから聞こえるだろうよ・・何を言っていた」

目がきつくなり、本性がちらりと見えた。

「・・あまり覚えていませんが・・たしか・・『逃げても無駄だって』って言っていたように聞きましたが」

「うへー・・奴さんもきついなぁー・・奴らもやるところか」

 そうしていると、店のおばちゃんが注文を取りに来た。

「親子丼下さい」

 後藤は、ヒロは何も知らないと踏んだのか、追求をあきらめたようだった。

「健ちゃんには『まあ・・せいぜい注意しなよって』言っておいてくれ、じゃなぁ・・あっ忘れてた、楊は何を探っているんだ・・狙われているのは誰かさんかわかんないけれど奴には気を付けなよ」

 男は、これ以上いても無駄だというような顔をして店を出て行った。

 ヒロは、奴らのしつこさに辟易しながらも、この事件の大きさや、その重さに今更ながらに怖くなっていた。

 その日の夕方、紺のカーディガンを着た加藤さんが現れて、カウンターに座った。まさしく石井さんと以前にボックスに一緒に座った地味な女性だ。

「あのー加藤と言います。 石井様から預かっている物を頂きに来ました」

 ヒロは、店を見渡し、通りの向こうまで確認して問いただした。

「あー、あーすっかり忘れていました・・加藤様ですね」

「はい・・加藤と申します」

 カウンターの後ろの棚から隠してあった封筒を取り出すと、さりげなく皿の上にのせ、さらにパンを一枚重ねた。

「これです・・どうぞ」

 素早く彼女の前に置いた。 誰に見られても不自然じゃなく、カウンターを滑らせた皿から彼女はパンと一緒に封筒をつかむと、ごく普通に。


 パンと一緒にその封筒を素早くバックに入れた。出されたお冷やを一口飲むと、封筒を入れた黒いバックの口を強く押さえて出口に向かった。 そして、バックを胸に押し抱いて深々と頭を下げると店を出て行った。

 外では、彼女をサングラスをかけ、濃い背広に身を包んだ男が待っていた。 ヒロはその様子を異様に思いながらも仕事を続けた。 さらに見えないどこかに黒子の男もいるはずだと思った。



            街に漂う臭い


 その日の夜、あの髪の長い女が捨て台詞に言った『逃げても無駄』が実行された。健ちゃんのアパートが、留守の間にめちゃくちゃにされたのだ。誰がやったか分からない状態だった。金目の物は無くならず、何が目的か分からない事件だった。

 そのことが店で噂になったころ、楊がヒロに話しかけてきた。

「怖いよね‥ほんとに怖いよね。何かを隠していると知らない奴が部屋に入って家捜しするんだ、ヒロさんにはそんな心配はないの?」

「僕には一切やましいことないよ」

「そうですか、何かに巻きこまれたりしてませんか」

「それより、柳井君には何かあるの‥」

 柳井はちょっとうつむいて。

「僕にもありませんよ」

「ヒロさんも気をつけてくださいよ。まかり間違って刺されたりしないように」

 軽い様子で話す柳井(楊)が不気味だった。

 ヒロには佐藤の顔が浮かんできた。 楊のねらいが自分のような気がしてきた。

 翌日、刑事らしき人が店にやってきた、健ちゃんが主任の原さんに呼ばれて話を聞かれた。ヒロもカウンターにいたことから事情を聞かれた。 ヒロは警察に楊のことが後藤という男と髪の長い女から出たことだけを告げた。 その日から楊は出勤してこなくなった。

 警察と健ちゃんからの話だと、ある事件に巻き込まれたようで、敵対する数社の企業が新商品に関わる、互いの業務の秘密に絡んだ事件のようで、内容は高額のお金が絡むもので、                                                                                                                                                                 すでに怪我人が出ているとのことだった。 (たぶん石井さんが暴行された事件だ)

 健ちゃんのアパートが荒らされたのは、その事件に関わってのことらしい。 そして、そこには多額の金銭が絡んでいることもあって、反社会的な人たちも絡んでいるらしい、そして、さらに健ちゃんも店の方も異常や異変に注意するようにとのアドバイスを受けた。

 ちなみに名刺の後藤という男は実在しない男で、すべてが嘘だったと言う。 従って健ちゃんへの三千円も入ってこなかった。

 そしてそれからは、健ちゃんは店を出るときはかなり気をつけていたが、こんな日々が続くと、健ちゃんは憔悴しきって、時々原さんに励まされてちょっと元気になったが、ヒロの顔を見ると、そのたびに反省しっぱなしだった。

 次の日の朝、原さんが店に来てみると、店の外に出している店の名前入りの小さな移動式看板が見事に破壊されていた。 酔っぱらいがつまずいたにしては、その壊し方が粉々で尋常でなかった。 嫌がらせのひとつなのかもしれないと考えた方がいいようだ。

 この事件は原さんの上司である部長に報告されて、また別の展開をすることになった。

 部長は、新宿でこの喫茶店をはじめ、焼き肉店、居酒屋など多角的に経営する会社の数店舗を統括している。 従って、時折経営状態チェックのために、店をくるくると回り管理兼指導をしている。

 この出来事に対応する部長の行動は速かった。

 我が社は本当は○○産業という名前で、バイトにはよく分からなかったが、その筋の方々の経営で、もとをたどれば怖い人たちの会社だった。

 新宿の街の成り立ちと、そこに巣くう人たちの歴史から考えると、新宿に何件も店を持っていると言うだけで、当然のことなんだけど、今は怖い印象を与えるような素振りもかけらも無く、全くと言っていいほど表舞台には出てこない。

 そして、会社のずーっと上の方で何かが起きたって感じで、その後、会社の偉い人が来て部長と話していた。 ちろっと原さんから聞こえてきたところでは「歌舞伎町の××おやっさんに話つけて・・□□組に間に入ってもらって・・△万くらいで手を打つか・・」なんて物騒な映画で見るような会話が現実になされたようだった。

 しばらくして、健ちゃんは原さんに呼ばれて、軽率な行動をかなり絞られていたようだ。そしてもう何もないから安心していいと言われて、やっといつもの明るさが戻ってきた。

 健ちゃんはアパートを変わり、身も心もやり直しているようだ。 警察でも解決できないことがある。 特に新宿でのトラブルは、それは新宿の成り立ちにある。 裏の変遷の中で産まれてきた秩序は表で解決できない。 しかし、裏ではあっさりと何事も無かったように日常に戻す魔力がある。

 新宿の繁栄は戦後の廃墟から始まった。飲み屋の多い街の利益に群がり暗躍する組織があって当たり前だ。 そして新宿は時間の経過と共に異常な規模に発展したのだから。 裏の世界から見る新宿は常につばぜり合いがなされていて、血なまぐさい世界でもあるのだろう。

 表の世界しか見ていないヒロたちからすると、常にエキゾチックで、次の瞬間何がおきるか分からないエキサイティングなところがある。 そんな中で必死で生きる人々の姿は非常にエネルギシュな魅力を内包している。

 この姿は、暗躍する裏の世界の人たちが醸し出す風が、人も物もかつての姿とは違う今風に変えても、本質的には変わらない人の生き様を表しているからなのだろう。

 『君子危うきに近づかず』常に一般の空気に混じって、悪の風が吹いている。いつでも誰でも毒される瞬間がある。街に漂う臭いを敏感に感じ取って、生きることがこの街で生きぬくということなのだろうか。

 反社会的な方々の争いは一応終止符を打ったようだが、企業同士の競争は未だに続いているのかも知れない。 石井さんも加藤さんも隠れて情報をやり取りしなければならないくらいに激烈な競争が展開されているのだろうか。

 石井さんも純粋に研究者として研究を積み重ねていたのだろうが、研究という純粋無垢な分野が市場競争という生き馬の目を抜くような激烈な世界に巻きこまれた瞬間に、亡者達の業に翻弄され目的を見失い、苦しむことになったのだろうか。

 最後にふらふらと店を出て行った石井さんの姿と、石井さんの魂を押し抱くように大切に大切に受け取った加藤さんの姿が目に浮かんでは消えた。 しかし違う世界に生きる楊はどこかでヒロをみているような気がした。




 

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2024年10月9日 08:00

それぞれの雲の下で 2 見返お吉 @h-hiroaki

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