それぞれの雲の下で 2

見返お吉

第1話  霹 靂 1  (まきこまれて)  

       

           💘 そばかす



 傾いた午後の日差しの中で、赤い琺瑯(ホウロウ)のカップに入れたキリマンジャロのコーヒーをとろけるような眼差しで見つめて、口にはこぶ優雅さをたのしんでいたとき、この優雅さのバランスを崩すようにアパートの電話が鳴った。

「これからデートなんだけど一人じゃ間が持たないからさ、お好み焼き一緒に食べに行かないか」

唐突にすごく自分勝手な誘いがあった。 高城からの電話だ、腹が立つが女の子と聞いただけで、反発なんかどこかへ行ってしまった。

 新宿で五時に待ち合わせをした。 アパートを出て路地を曲がって表通りに出る。 アンティークでシックな造りの美容院の前を通り過ぎると、駅前のビルが近くに見えてくる。  その時、時々呑むヤングの店の前で、アパートの住人の神林君が女性と歩いている後ろ姿に出くわした。 とっさに邪魔をしてはいけないと思い、喫茶店付近の交差点を反対側の歩道に渡った。

 彼女は、背の高い目鼻立ちのはっきりした美しい女性だ。 薄手のベージュのコートに包まれた、鶯色のワンピースがとてもさわやかで、都会の女性を感じさせた。 全身から、ほんのりとした優しい香りを漂わせていた。

 二人の間柄はよく分からないけれど、似合いのカップルに見えた。 二人はヤングの近くのサーファーが集まる、しゃれた二階の喫茶店に消えた。 ヒロには、今まで「恋」とかとかいうものにあこがれはあるが、自分では現実的には最も遠いところにいると思っている。

 新宿に着くと待ち合わせた場所に急いだ。 東口の改札を出たところでごった返す人ごみの一角ですでに高城が待っていた。

「よー、待ったか‥」と声をかけて、いつもと違う違和感を感じた。 妙にまとわりつく視線を感じたからだ。

「あー、この人、今日子ちゃん。」

 女の子は目がくりくりっとしたショートカットのかわいい子だった。

「はぁーん‥よろしく」

「同郷でよー、今日ついて来たいっていうからさー」

「高城と同じ高校なの?」

「違うわよ、同じ街にある高校だけどね‥今から来るかおるちゃんが高城君と同じな高校なの‥」

「だから今日子ちゃんはかおるの友達で‥つまりは友達の友達なの」

「ほうー」

 よく分からない‥ごった返す改札は、声がよく聞こえない。 これから来るかおるちゃんへの期待が膨らみ、どこかと無意識のうちに人並みを探していた。 すると向こうから連絡通路を歩いてくる若林を発見した。

「若ちゃんじゃないか‥えっ・あっ・誰、あの子?‥かおるさん?‥一緒に来る娘(こ)、誰?」

 ほとんどショック状態でまじまじと見たヒロは開いた口がふさがらない。 いつも会えば「彼女が欲しい」をオームのように繰り返し叫んでいる若林に彼女がいるとは、思いもよらなかったからだ、ショックで急に目の前が暗くなってしまったような衝撃を受けた。

「よー」

 改札を抜けた若ちゃんは、いつもの自信無げな姿とは違い、ちょっと胸張って誇らしげに言い放った。

「あーめんご‥、ヒロはじめてだったよね。この人シュクちゃん」

 シュクちゃんは、小柄で髪の長い色白のおとなしいそうな子だった。

「よろしくお願いしまーす」

 小さくうなずいた。 (こいついつのまに)ヒロはなんだ二人とも‥非常に居心地が悪い。 どうなってんの‥それでも心の片隅では未知なるかおるちゃんに心が膨らんでいった。

 高城が今日子ちゃんを見ながら、

「かおるおそいねぇー」

 互いに相づちを打って、すると、改札とは全く違う方から、

「遅くなって、ごめ~ん」

 背の高ーい、薄くそばかすをたたえた、ポニーテールのどこか男ぽい女の子が上から声をかけてきた。 かおるちゃんだ‥期待でふくれ上がった風船が一気にしぼんでいくような心境になった。

「これでそろったね‥さぁ、お好み焼きのおいしい店にいってみましょう」

(高城よー電話でお好み焼き屋に行くとは言っていたけど、まさかこんな関係の女ずれとは言ってねぇよなぁー、もしかして俺とかおるちゃんて、お前らの当て馬ですか)

 付録のヒロなんぞには有無を言わせず、お好み焼きツアーは出発した。

 ヒロはポニーテールをどこかで見たことがある‥思い出した。高校時代にいた隣の席のS子に似ている。 S子も百七十三センチはあった、手足が長くポパイに出てくるオリーブみたいだった。 いつも長い腕をハンマーのように振り回してヒロの背中を打つ、そのたびに息ができないほど咳き込んでますます小さくなる。 S子の好きな男がたまたまヒロの友達だからってヒロを都合よく使い走りに使った。 その時の、恋するでかい女の執念と異常な圧力は忘れることができない。

 そんな嫌なことを思い出しながら歩いているとお好み焼き屋に着いていた。

 店に入ると、高城と若林のカップルは、いちゃいちゃしながら並んで座った。

 ポニーテールとヒロは、何か将棋の対局のような雰囲気で向かい合って座った。

 みんなで改めて紹介し合ってみたが、どうもヒロとポニーテールは、当て馬で人数合わせと話題拡張のためにいるようで、どうもしっくりこなかった。

 鉄板に広がったお好み焼きを、高城と若林は楽しそうに、ぼそぼそカップルだけの会話をしながら、目元に優しい笑みを刻んで焼きはじめた。

 こちらは、目の前でポニーテールが長い腕を伸ばしてきておれのフライ返しを素早く奪っていった、完全に鉄板上での主導権をめぐって、フライ返しで奮闘しはじめた。

 焼き上がって、若ちゃんとシュクちゃんは仲良くビールを飲みながら食べ始めた。 上唇につけた青のりをハンカチで拭いてもらいながら、笑って食べていた。 やがて高城カップルもうまそうに食べはじめた。

 ポニーテールも食べようとして、フライ返しで切れ目を入れようとしたとき、ヒロは思わず隣の若ちゃんのフライ返しを取り上げてその行動を阻止した。フライ返しがぶつかって、カチンと冷たい音がした。

「まだ、焼けてないよ」

 ポニーテールがにらんでいる、ヒロは彼女の目を見ながら。

「僕たちのは遅く焼きはじめたから、まだね‥」

 ヒロの話が終わるか終わらないで、ポニーテールは、ビールグラスをくいっとつかむと、コーラでも飲むようにさわやかに、ぐびぐびーって一気に呑みきった。

(おーこわ)ヒロたちのささくれだった雰囲気を察した今日子ちゃんが、二人の間に割って入ってきた、

「かおるちゃんね、ずーとスポーツやってんのよ、だから引き締まってるナイスボディーをしてるでしょう、彼女スポーツが得意なのよ、だから何事にも結構シビアーなところがあるのよ。 ううーん‥ヒロ君は何かスポーツやってたの?」

 今日子ちゃんが急にヒロに話を振ってきた、聞きたくもないし知られたくもない話題だ、まさかこんなでかい女の前で「僕バスケットボールやってました」なんて言えない。絶対言えない‥ヒロはさりげぬ話題をはずした。

「まあ、いろいろなぁ‥ところで、かおるさんは本当は何やっていたの?」

「聞きたい? ‥かおる言っていい。」

「いいよ‥」投げやりな返事だ。

「合気道」

 一瞬目がくらんだ、ヒロにとっては「道」のつくスポーツはどれであれすべて危険なスポーツで、とっさに「やべー」と思ってしまった。 そしてあの背の高さから脳天から竹割りが飛んでくるかと思ったら、ただ今から従順でいようと小さく誓った。

 その後、ヒロは二つのカップルと一人の格闘家の宴を、濃厚なスープのように引き立てて七時頃、無事宴は終了した。


 若ちゃんがもっとシュクちゃんといたいのがみえみえで、少し時間も早いし、もう一軒行こうと息巻いた。そこで高城が。

「おれがいつも行ってる西荻窪の店に行こうよ‥」

 そんなことで、みんなで中央線に乗った。着いたところは、近所の常連さんが多く集まっている安い居酒屋だった。

 ホッピーを飲んで、焼き鳥やネギいっぱいのホルモンの煮込みをつついた。

 高城は普段は温厚で、とっても優しいタイプだ。でも反面かたくなで頑固なところがある。

 カウンターの常連さんが、愛想のいい今日子ちゃんにちょっかいを出してきた。

 はじめは冗談混じりで、軽くあしらっていたが、そのうち常連の方を今日子ちゃんが向かないので常連さんが怒り出した‥酔っている。

 ヒロはポニーテールの摂待で忙しくて、そんなこと知らなかった。高城がホッピーを一口飲むといきなり。

「やめてくださいよ‥いやがってるんだから」

「なんだ、おめぇーめぇーの彼女か‥×○□‥」

 高城がやばい、顔が真っ赤になってきた、まして彼女の前だ。

「学生の分際でこんなところに‥ろれろれ×○□‥飲みに来るんじゃねーよ×○□」

 完全にできあがってる常連さんが、ゆらゆらと立ち上がると今日子ちゃんの側に寄ってきて隣にどかっと座った。

 その瞬間ポニーテールの目が、ピカッと光って、風よりもすばやく立ち上がると、今日子ちゃんと常連の間に滑り込んだ。ヒロもつられて風にのって、立ち上がると、常連をポニーテールと挟み込むように滑り込んだ。

「まあ、嫌なこともあるよね‥今日は楽しく一緒に飲みましょうよ」

 ポニーテールには似つかわしくない言葉をかけてなだめた。 ヒロも自分のホッピーを渡しながら「ほれ、かわいい女の子もそう言っているし‥一緒に飲もう」常連は一連の早業に何が起きたのか分からずいたが、ホッピーを渡されると一気に飲んだ。

 ポニーテールが、常連客の後ろからウィンクしてきた。 高城が、さらにその向こう側から親指をたてていた。

 若ちゃん達は、高城のさらに向こう側で、そんな問題とはなんの関わり合いも無く、こんがり揚がった春巻きを「あちち、あちち‥」言いながら互いに食べさせ合っていた。

 常連はホッピーのグラスを音を立てて置くと、ヒロとポニーテールを交互に見てお代わりを催促した。つり上がっていた眉がへの字に折れ曲がって、盛り合わせた漬け物の中から、たくわんをつかんでほおばると、ガリガリと音をたてて切れ端をぴんぴん飛ばしながら食べ始めた。立て続けに三枚を口に入れた。

また、ホッピーのお代わりをして、グビグビって喉を鳴らすと、ぷはーって思いっきり胃にたまったくさい空気を吐き出すと、口の周りを袖口でぬぐった。 また。たくわんをガリッと鳴らした。 そして、突然、片手で顔をおおうと肩を揺らしはじめた。

「ううう‥三十九歳、高校出てから、東京に出て一人暮らし」

 すれたジャージに袖口のほつれたトレナー、おでこに三本の深いしわをよせて、ヒロとポニーテールを交互に見て話し始めた。 また、たくわんのカスがつばきとともに飛び散る。ポニーテールがさりげなく自分のグラスをずらした。

「もてねぇーしよー‥で三回も職変わっちまって‥うう‥」

 詰まる言葉にホッピーを、また半分ほど流し込んだ。

「なかなか職場になじめなくてなー、友達、欲しくてー‥」

 堰が切れたようにぼやきはじめた、大粒の涙がホルモンに落ちた。

「みんなどこか寂しいんだよー‥わたしも人混みの中にいて急に孤独になっちゃうときがあるんだー」

「あるある‥おれもあるよ、ものすごく寂しくて世界でおれだけが、はずれのくじをひいたような気持ちかなぁ‥」

「そうそう、ヒロポンもそんな時あるんだ‥」

 常連の酔いに感染したようだ。

「おい‥いつからヒロポンになったの。おれやばい奴みたいじゃん‥」

「ヒロポンって、嫌なことを忘れる薬かもよ‥」

 おじさん挟んで話しが盛り上がり始めた。 おじさんはたくさん涙流して、ホルモンをもっとしょっぱくして何回もおしぼりで汗と涙とよだれをふいて、また泣いた。誰かに聞いてほしかったんだ。 それから、おじさんは僕たちの仲間のように飲み始めた。

 ヒロはおじさんの向こう側にいるポニーテールが、ほつれた髪をかき上げる姿を見るたびに、胸が奥にぴりっと小さな痛みを感じる。

 酔いが回ってしまったのか。 仲間になったおじさんがろれつのまわらなくなった口で。

「おれがおごる‥おれにおごらせろ‥」

と叫びだして、それからはみんなでさらに楽しく大騒ぎしながら、夜が更けるまで飲み続けた。

 目が覚めて気がつくと西荻の高城のアパートで雑魚寝していた。

 息が白く見える朝、西荻の駅で別れるとき、ポニーテールのそばかすがなぜかチャーミングで、ぐっときた。 けど、ポニーテールをきりりと結い直すと、S子のトラウマが首をもたげてきた。 女の子はもの静かでかわいい方がいい、だが、ヒロにはちょっとスリリングで個性派の方が合っているような気がした。 ヒロはやっぱり歌の世界ような恋がしたいと思った。飲んべーの向こう側でウィンクされ場面よりもと思った。




            追われて


 春の休み開け、その日ヒロは久保と小正(こしょう)と学校帰りに喫茶店へ足を運んだ。テーブルについてコーヒーをかき混ぜながら小正がため息をついた。

「彼女のおる奴らはいいよな‥俺ら一人もんはこうして顔つき合わせても何もならねぇーし」

「しかたないじゃん。これが運命なんだよ」

「それにしても、高城なんか、今日は彼女と原宿だぜ、いいよな‥」

「高城の彼女って同郷だって言ってたぞ、家が東京に近いと、人口密度が高いからそんなチャンスもあるんだなぁ」

「今の理屈、何か変だけど‥まあ、俺らもいつかできるんじゃねー」

 ぐだぐだいいながら店を出ると、駅までの坂道をのぼって中央線に乗り込んだ。

 久保はと言えば、小正に夕べ居酒屋で食べた魚についいて、持論を展開しだした。赤身がうまいか白身がうまいかについて、誰かの受け売りなのか、勢い込んで話し始めた、光りものに赤身が多くて、魚の臭いが強くてその臭いが魚特有のうまみを出してくれるから赤身の方が‥なんて話を展開していた‥すると小正が。

「赤身だろうが白身だろうがどっちだって酒さえあればいいのよ」

 あきれ顔でからかった。すると久保がむきになって。

「それはちがうよ‥肴がうまいから酒がうまいんだよ」

 と久保がすかさず反論した。また小正が。

「酒だけでも十分だよ。肴なんか漬け物だって魚だって味噌だって、みんな酒と溶け合ってうまくなるものさ‥」

「だってさ‥赤身の方がアルコール分解が」

 この永久に続きそうなくだらない会話を切るように、「新宿‥新宿‥」のアナウンスとともに電車のドアが開いた。

「おい、降りるぞ・・」

 ひょいとごった返す新宿のホームに立った三人に大きな荷物を引きずってふらふら歩く老婆が目に飛び込んできた。三人は誰がというわけでもないのに老婆の重そうな荷物を抱えるとホームの長い階段を下りはじめた。下まで着くと、老婆から礼を言われて三人はその場を離れた。すると今降りてきた階段を飛ぶように降りてくるジーパンに白のポロシャツの男が目に入った。男がヒロ達の側を通りすぎようとした時、男の後ろから。

「どろぼー、どろぼー」

 という声が聞こえて、紺のスーツを着た男が乗降客を押しのけて追いかけてきた。 三人は声のする方を見ると、とっさに小正が鞄をもって逃げる若者に足をひっかけた。 男はもんどり打って転がった、その際に持っていた鞄が手から離れて数メートル先に飛んだ。 中から書類や封筒が飛び出して散らばった。 ポロシャツの男は立ち上がると、鞄はそのままにしていち早く逃げてしまった。 追いついたスーツの男が息せき切りながら、鞄に散らかった書類や封筒をもどすと、一瞬ヒロ達に目を止め、さらに集まった人に小さく礼を言うと足早に立ち去った。 男の顔には右あごの下に親指くらいの黒子(ほくろ)があった。 こんなことは東京ではよくあること、ヒロは一件落着と思いきや、足下に青い封筒が無造作に落ちていることに気がついて。 ヒロは急いで封筒を拾い上げるとさっきのスーツの男を探して駆け出した。 人ごみをかき分け必死に探したが男の姿はどこにもなかった。 口の開いている大きめの青い封筒を確かめると、中にはナンバリングのついたカギとパスポートが出てきた。困惑しているヒロに久保が中身をいろいろ見ていて首をひねってから。

「ヒロ、まずは警察に届けた方がいいな」

「あっ、そうか、そんじゃこれから届けに行こう」

 それから三人は何事もなかったように、ふらふら歩くおばあちゃんからお礼の言葉をいただいて、そこで小正とヒロは乗り換えのある久保と別れた。

 小正とヒロは改札を出ると交番に向かって歩き出した。 定期をポケットに押し込むと突然後ろから体ごと突き飛ばされて前のめりに床に手をついた。 小正も並んで倒れていた。起き上がろうとすると手が伸びてきてヒロと小正の間に落ちた青い封筒を取ろうとした。 ヒロは体をひねり封筒をかばうと仰向けになりながら奴の顔を見た。 さっきのポロシャツの泥棒だった、しつこい男だ。男は封筒がとれないと分かると風のような勢いでどこかへ消えた。 小正は立ち上がるといったい何が起きたのか分からず惚けたような顔をしている。両手の平をあわせながら。

「なんだ、ひでぇー奴がいるな、ちょっとすりむいちゃったよ」

「さっきの白のポロシャツの泥棒だよ」

「なに・・俺たちの後をつけてきたってわけ」

「どうしてもこれが欲しいらしいよ」

 ヒロも起き上がると、小正に青い封筒を示した、少なからず二人は拾ったもののもつ重さにショックを受けた。 駅近くにある喫茶店にはいると、これからどうするか考えることにした。

「まず、俺たちは顔を見られているよな、と同時に俺たちは奴の顔も見ているぞ」

「それに、奴は単なる泥棒じゃないな、この封筒が目的だったんだ」

「この封筒の中身を詳しく見よう」

 テーブルの上に並べてみた、鍵、パスポート、どうも鍵にはE25と記されたホルダーが着いていて駅のロッカーのもののようだ。 パスポートをめくるとシノズカ ユウキとあり、パスポートの写真を見るとあのスーツの男とは違う眼鏡をかけた三十代の男のものだった。住所を見ると杉並区とあった。透明のパスポートケースの間から○○プラザホテルの印刷があるカードが出てきた、そこには、M81215Nというメモが記されていた。どれをとっても謎のものだらけだ。

 小正とヒロは謎の多い拾得物が怖くなってきた。やはり速く警察に届けようと二人で決めた。 喫茶店を出ると東口の交番を目指した。 交番が目の前になったとき二人の前にあのポロシャツの男が現れた。 手を前に出して封筒をよこせと指示している。 二人はとっさに振り向くと歌舞伎町方面に向かって走り出した。 走りながら振り向くと男が追いかけてくる。 二人はこのままでは追いつかれると思い、咄嗟に。

「別れるぞ、歌舞伎町交番で会おう」

二人は声をかけあった。 ヒロは地下道に潜り込んだ。 小正は点滅信号に変わった交差点を走り抜け、ごみごみした雑踏に紛れ込んだ。 男は一瞬立ち止まりどちらを追うか迷ったらしいが。 まだ後ろ姿の見える小正を追うことにしたらしい。

 二十分後、ヒロはどこをどう走りどこで曲がったか分からなかったが、コマ劇場裏の歌舞伎町交番の前の路上にいた。 きょろきょろと小正を探したが、まだ付けられていることを思うとビルの影に隠れた。 すると後ろから肩をこづかれて心臓が飛び出してくるような衝撃を受けた。

「大丈夫だったか‥」

 小正の少しなまった低い声が聞こえた、と同時にヒロの緊張の糸が切れて一機に疲れがしみだしてきてへなへなとそこにしゃがみ込んだ。

「じゃ、交番に行くか‥」

「うん‥そうするか」


 二人は交番に着くと、若い警官に向かって話そうとした。

「あのー」

 次の言葉を言い終わらないうちに「こらっ」と大きな声がしたと思ったら、交番の前に中年の男に首根っこをつかまれてだらしないロン毛の男が引きずられてきた。 中年は警官に事情を話しはじめた。ロン毛は中年の腕を振りほどこうと必死だ。警官はヒロと小正に「後で」‥と短く言うと、その若い警官はロン毛を押さえつけようとした、同時にロン毛は腕をふりほどいて逃げだした。警官と中年が追う、もう一人の警官も飛び出してきた。ロン毛がつかまり暴れだした。ヒロと小正は足が止まった。暴れるロン毛はますます狂暴になった。ヒロと小正はしばらく眺めていたが、本来の目的をあきらめ、新大久保の小正のアパートへ向かった。



              地下道の声


 数日後、先日のこともあり久保と小正と待ち合わせをしていた。ヒロは思ったよりかなりはやく着いた。時間調整のつもりもあって、西口の雑踏を通り、わざわざ地下道を通って東口に抜ける道を歩くことを考えた。地下道の入り口にさしかかると今日も路上生活者が座り込んでいつもの暮らしをしていた。

 何人かの路上生活者の前を通り過ぎた。髭を蓄え、服は若干汚れているが、意外と威厳のある顔つきの男が突然ヒロの前に立ちふさがった、人ごみの流れがヒロと彼を起点に左右に分かれ、後ろから来た人たちが、避けるように足早に通り過ぎていく。

「君、君‥」

 意外に若く高い声だった。驚いているヒロに続けて。

「君ね‥あのさー、時々ここを通るよね‥そして、君はいつも蔑んだ目で俺たちを見ていくよな‥俺たちも精一杯ここで生きているんだよ。 人間としては僕らも君も何ら変わりはないよ、君は僕らより何が偉いんだ?」

「いいえ‥そんなつもりはありまん‥」

 信じられない状況に困惑しているヒロの顔を、さらにのぞき込みながら繰り返した。

「‥おにいさん、あなたは悪い人ではない。 今までの僕たちへの蔑みは許してあげますよ‥そのかわりやってほしいことがあるんです」

 ヒロはこの展開にどう対応していいのかわからなかったが、口をついて乱暴な言葉が出た。

「なんですか‥あんたらのために‥僕が何かやるんですか‥いやですよ‥僕は君たちのためなんかに何かやる義理はないんですよ」

 髭の男は哀れな者でも見るような眼差しになって、彼らの仲間の老女の一人を指さした。「‥あそこにいるのは一緒に暮らしている仲間です‥あのばあさんが、熱出して吐いちまって困っているんです‥僕たちは薬が欲しいだけなんです‥」

しずかに、ねばりつくような動きで、ヒロと他の仲間の距離が縮んだ。 無言の圧力がかかる、そろりとヒロは後ずさる。 足の悪い仲間が杖をつきながら下からのぞき込んできた、歯の抜け落ちた口を開くと。

「おにひぃちゃん‥、君は慈ひゃ深い心をもっている、死後極楽に導かれる‥」

「僕にはあなた方に何の義理も‥」

 一瞬、なんだか自分がものすごく悪いことを言っているようで、ものすごくいやな奴に見えるようで、言葉につまり息が絶え絶えになってしまった。

 あの髭の男が、すみにいるぼろぼろの老婆を指さして。

「おにいちゃん‥おれ達は、婆さんを救いたいだけなんだ‥何とか君の力を貸してください‥」ヒロはしばらく考えた‥。

「うーん‥分かったよ」

 ヒロはポケットから千円だすと、男の手に押しつけた。その瞬間、髭の男はヒロの手をもう一方の手で握り返してきて、きつく握りしめた。彼の強い目がヒロを見つめて。

「お兄ちゃん、ついでで悪いんだけど、薬買ってきてくだい‥おれらじゃ薬屋には入れないのさ‥たのむ」

 彼は、さっきの千円札と、持っていた小銭を出して、生ぬるい手でヒロに押しつけてきた。

 ヒロは手垢で汚れた小銭を握りしめたその時から、彼らが路上生活者じゃなく、ただ困っている人に変わった。 急いで薬屋に走った。そして胃腸薬と解熱剤を買った。持っていった金額よりは高かった、走ってもどると、路上生活者達がみんなヒロの方を見た。

「ほらっ‥」

 ヒロは持ってきた薬を無造作に髭の男に押しつけた。 彼は「ありがとう」と小さく言って微笑んだ。 まわりの奴らも小さく頭を下げていた。 ヒロはその場から逃げるように離れた。



            あの男が殺されて


 ヒロが待ち合わせの喫茶店に着いた頃には、久保は昨日の出来事を小正からすでに聞いていた。 久保が口をとがらせてヒロに迫った。

「ヒロ何やってんだよ遅いよ‥ヒロ‥びっくりするなよ‥大変なことが起きているぞ」

 久保がいきなり新聞を振りかざしながら言い出した。隣で小正も心配そうな目をしている。

「どうしたのよ‥そんなにあわてて」

 久保が新聞を広げて指さした。ヒロはその新聞の小さな記事を食い入るように読んだ、そこには夕べ追われた男の顔写真があった。


『新宿で暴力団同士の抗争か 〇月▽日 20時ごろ新宿歌舞伎町×××で暴力団同士の抗争と思われる事件があり、△△系の暴力団員 三原ジロウ(韓国籍 金 △□ )が刃物で刺され倒れているのが発見された。 近くの病院に運ばれたが意識不明の重体である。 現在抗争との因果関係を捜査中』


 写真の男はまさしくヒロと小正を追っていた男だった。

「あーっ、この事件は俺たちが逃げ回っているころの時間だ」

「ヒロ、俺も久保からこの新聞見せられて、腰が抜けたよ‥それにしてもあの封筒どうする? ‥今更警察にも持って行けないような気がするし‥」

 小正が心配そうに聞いてきた。 久保も渋い顔をしている。

「そうだよな‥今更持って行っても、疑われたり、こんな事件になったんだから、ものすごくやっかいなことを聞かれたり、疑いをかけられたり‥‥何だかんだ巻きこまれたりするよな」

「そうだ、今、警察は封筒のこと知らないんだ、封筒も、それを拾ったことも、一切無かったことにして、すべて捨てることが一番いいような気がするけどな」

「でも、刺された三原とかいう男の傷が治ったら、また追われることになるんだぞ‥お前、これから俺たちはいつでもどこでも、気を張って生きなきゃならなくなるんだぞ」

「そうかー‥でもさ、あの男が死んだら、封筒のことを知っているのは落としたスーツの男だけになるじゃん」

「スーツは落とした方だし被害者だから、あのパスポートの住所に郵送したら喜んで終わりじゃないか」

「でもよ、スーツの男はパスポートのシノズカの写真とは違う男だよ」

「ちょっと複雑になってきたけど、まずは一つずつだ、三原の様態を確認しようぜ」

 久保が、指を折るようにして何かを確かめていたが真剣な口調で言い始めた。

「お前らやめた方がいいよ、いずれスーツの男が現れるんだから、警察に預けた方がいいんじゃないか」

「じゃ、まず三原の様態を確認する。それから警察に行くってのはどう」

「まあ、警察に行くことには代わりがないからな‥じゃどこの病院か分かっているのか」

「たぶん一番近い病院だろう」

 三人はとりあえず大久保病院に向かうことにした。

 病院に着くと、病院の正面は特に変わった様子も無く、通常通りのがらんとしたもので拍子抜けした。

 三人の中でじゃんけんで負けた小正が、三原がこの病院に運ばれたかということ、そして、そうであればその様態はどうなのかを聞くこととした。 三人で一階のフロントに入ると、いやいやながら小正が受付に近づいた、小正が切り出すと、受付の年配のナースは眉根に皺を寄せて、厳しい顔で話している。 小正は首を振ると後ろの二人の方を振り向いた。 小正は近づきながら。

「三原さんは、夕べ遅く亡くなったそうだよ」

 三人は不謹慎にも少し安堵の色を見せたが、あらためて死人がでるような大きな事件の暗闇につま先の一部が入っていることに気づき衝撃を受けた。 そしてすぐにでも封筒を警察に届けることにした。 そうすることで暗闇から逃れることができるような衝動に駆られた。

 病院の受付前から離れ、外に向かおうとしたとき、三人の前に目つきの鋭い比較的若いダークスーツの男がどこからともなく現れた。

「君たち、ちょっと待ってくれ話があるんだ」

 男は有無を言わせないようなすごみがあった。 三人は三原の死で心にショックを受けたばかりだから、指示されるままに病院内の小部屋に入った。 長テーブルと折りたたみ椅子のある部屋に連れ込まれると男が小正が持っていた経済原論の本にちらりと目を止めて。

「まあ座れよ、もっとすごいのが来ると思っていたんだけど、君たちのような学生が引っかかるとはね」

 冷たい目、冷たい声の男は、つまらなそうな顔をした。

「それで‥君たちは三原とはどういう関係なんだ」

 ヒロはこの男の態度が気にくわなかった。

「あなたは誰ですか」

「聞かない方がいい」

「藪から棒に何を言っているんですか、尋ねることがあるなら、まず自分から名乗るべきではないですか」

「ほう‥君はちょっとは骨があるのかな‥僕はね政府の機関の人間だよ」

「警察の関係ですか‥証明できるものを見せてください」

「見たいですか、見ないほうがいいと思いますよ」

「見せてください」

 久保がヒロの、なお逆らおうとする態度を遮って、焦ったように。

「いりません‥それよりすぐにここから出してください」

「ほー、こちらの僕は賢い‥いいですよ‥この部屋には鍵も掛かっていませんからどうぞ勝手に出て行ってください‥しかし、君たちと三原の関係を話してからね」

 ヒロはこの男が信用できなかった。

「三原さんは死んだと聞きましたが、死んだ人の何が知りたいんですか」

「だから僕は政府の人間だと言っているじゃないか。この件は複雑でね。そのこととちょっと関係があるもんでね‥それに君たちは三原を知っている、いや「金□△」を知っているから、その証拠に君たちは三原の様態を聞きに来た。 君たちはなぜ三原を気にするんだ」

 ヒロがまた何か言おうとしたとき、小正がヒロの袖を強くひっぱて、前のめりになって。

「実は僕たちは、昨夜この三原という男に追われたんです」

 男の目が光った

「なぜ‥」

「新宿駅のホームで、三原さんが別の男から鞄を盗んで逃げようとしていたんです。 だから三原さんに足をかけて転ばすと、鞄が飛んで中身が散らばりました。 すると元の持ち主が鞄に散らばったものを急いで詰め込んでいなくなったんです」

 息が上がった小正は、一度深呼吸すると。

「だけどその時、その青い封筒が落ちいて、その男は気づかずに立ち去りました。 その男を捜したんですけど、もういなくなっていて。 だから、その封筒を警察に届けようとしてたら、三原が現れて僕たちから封筒を奪おうとしたんです。 だから僕たちは必死で逃げて‥その夜に三原さんが刺されたって新聞で知り、びっくりして三原さんがどうなったか知りたくて‥」  

 男は神妙な顔をして小正の話を聞いていた。

「その封筒はどこにあるんだね‥」

「持ってます」

 といいながら小正はヒロの鞄を指さした。男はヒロに要求するように手のひらを広げた。「見せてください」

 ヒロは小正を見ながら、鞄の中をまさぐり、青い封筒を取り出そうとした。 そして一旦手を止めると。

「この封筒をお渡しするので、もう私たちを帰してください。 私たちはこの封筒をどうしようか困っていたんです。 あなたに渡したら私たちの心配も解消されます。 いいですか」

 取り出そうとしているヒロに対し、男は佐藤という名字と電話番号だけが印刷された妙な名刺を渡すと。

「分かった。 その封筒はこっちで預かろう。 そしてこの件は忘れなさい‥危険が及ぶことはないと思うけど、もし何かあったらこの電話番号に電話しなさい。 いつでもかまわないから‥あっ、それから三原は死んじゃいません、我々が丁重に預かっていますから。安心しなさい」

 三人は、顔を見合わせて、あらためて「死んだ」と新聞に公然と嘘をつける組織に怖じ気づいた。

 ヒロはじっとその名刺を見てから、封筒を渡した。

「分かりました。 それじゃ私たちは失礼します」

 三人は急いでその部屋を出ると、一度も振り向くことをしないで、新宿駅まで歩き続けた、無言だった。 さっきのことは現実なのか本当に起こったことなのか半信半疑で歩き続けた。 三人はこの事件について今後話題にしないことを決めた。 なんだか触れただけで暗闇に引きづり込まれそうな気になったからだ。

 その夜、三人のところの電話が鳴った。 佐藤からだ『今日は、大変参考になるものをありがとう』と一言だった。 三人はどこでどうやって自分たちのアパートの電話番号が知られたのか。 ますますこの件から意識的に離れようと思った。この夜以降三人はこの件について一切話さなかった。




💘 木漏れ日の中に  春

(三六五日暇だよ)


 青い封筒のことを記憶の外に置きざりにし始めた頃、今朝も高い青空から神々しい天使の光がさす。その光の粒に焼かれそうになりながら、ベッドの上を逃げ回ってまどろんでいると、アパートの電話が鳴った。・・・・高城からだ。

「お前、今日、暇・・」

「あー・・三語ではなすな・・三六五日暇だよー悪いかーよー」

 電話の向こうで

「正解でした。ほら奴はいつでも暇だって言ってるだろう」

「おい、誰かいんのか・・」

「わりぃわりぃ・・今日子がさドライブに行かないかって・・ほらこの間居酒屋でお前に助けられたじゃん。・・その御礼だって、今からそっちまわるから、目白通りのスーパーの所で待ってろや・・あー三〇分ぐらいかな・・じゃそこで」

 すでに切れた電話を持って(おれ、いつ参加することになったの?)そう思ったときにはすでに、顔洗って、バナナ食って、歯磨いて・・考えるより迷うより速く身体が反応している、変な感じだった。

 スーパーの前で待っていると、白いカローラが短くクラクションをならして滑り込んできた。

「よー早かったじゃん・・」

 と声をかけながら、助手席の今日子ちゃんを確認した。 その後ろを見ると、ニンニコニンと不適な笑いを讃えてポニーテールがいました。

「おはようございます・・みなさん」

 心にも無い挨拶をして乗り込んだ。 後ろのシートは狭い、だからポニーテールは斜めに乗って長い足を隣の席、つまりヒロの方に進入させている。 奴の足が否が応でもヒロの足とぶつかる。 その度に、瞬間的に反応して三センチ離す、すぐにカーブを曲がるからすぐにくっついてしまう。

 あきらめたヒロは、新たに力均衡策に打って出た、今度はポニーテールの靴をお互いに押して合って均衡を保つ策だ。 (なかなかいい・・)ポニーテールを見ると、こっちを見て、お前なにやってんだよ的な顔でにらんできた、ヒロはその場を取り繕うように。

「びっくりしたよ・・ドライブなんていうから・・」

「一番上の兄貴の車。兄貴が今日仕事だから、昨夜千葉まで取りに行ってきたんだよ」

「ところで、お前、都内運転できんの?」

「どうにかなんじゃねぇーの・・」

「ヒロ免許もってんの?」

「もちろん・・バイクの免許はもってるよー、おなじにタイヤついてっから」

 環状六号線は、日曜日だということもあって空いていた、建築中の高層ビルを見ながら新宿を通過した。

「・・ところでどこ行くん?」 

「横浜通って、鎌倉だよ」

「あー、海の見える丘公園、外人墓地、湘南、中華街か・・いいねぇ」

「わたし、ユーミンの歌にぴったりな外人墓地がいいなぁ・・」

 今日子ちゃんが、うっとりするような話し方で、つるりんちょって感じで両手を合わせた。この雰囲気で盛り上げようとポニーテールに話をふった。

「かおるちゃんはどこいきたいの?」

「大仏」

 即答だった。無言の車内。 それでも車は快調で、渋谷を過ぎて目黒の先で国道一号線にのった。結構順調に進んでいた。車内でも、この間の常連さんの話題で盛り上がっていた。川崎っていう表示が道路のいたる所で見られるようになってきた。

 多摩川を渡って神奈川に入った。ポニーテールも徐々に乗ってきて、結構自分のこととか話し出していろいろなことが分かった。チャーハンと天ぷら日本蕎麦が好きで、国立に住んでいて、スティーブ・マックイーンの出たタワーリング・インフェルノが好きで、犬が好きで、梅が好きで、大学は秘密らしい・・。未だに長い足は進入しているけど、その頃には足がぶつかってもなんてこと無くなっていた。




    獣道 (けものみち) からジャンプ


塩っぽい空気をいっぱい吸い込んで山下丘公園に立った。 頬に風を受けて杭にもたれて遠くをゆっくりはしる巨大な船をじーっと見ていた。

 それから、高城は今日子ちゃんと並んで何かロマンチックに話していた。

 ポニーテールは、すぐ下のキラキラ光る波打ち際に寄ってくる小魚の動きを追っていた。小石を投げてやったら、ケツに回し蹴りが飛んできた。

 中華街で点心と、いくつかのセットをたのんで、みんなで分け合いながら食べ比べた。 チャイナタウンを歩いていると、豚の首が皿にのっていたり、首の無い裸の鳥が逆さにぶらさがっていたりで、今日子ちゃんは悲鳴をあげて、高城の背中にしがみついていた。

 ポニーテールは豚も鶏もにやにやしていただけだった。けれど、蛇の焼酎漬けを見たときは、眉間にしわ寄せて、すごく嫌そうな顔していた。まあーなんだかんだ言っても食後で良かったと思った。

 洋風と和風の建物が癒合したような、元町の坂を登ると外人墓地の側にある喫茶店が目にとまった。

 店に入ると今日子ちゃんは窓からの眺めに感動したのか、甘いケーキを食べた後のようにうっとりとした表情をうかべて、眩しそうに目を細めた。

 みんなアイスコーヒーやコーラをたのむと、眺めが創り出す、それぞれの映像を味わいながらゆったりとした時間を過ごした。

 ドライなポニーテールも、その美しい風景に魅了されたように動かなかった。確かにその風景はうっとりするほど美しかった。

 喫茶店の太い窓枠をキャンバス代わりのに、輝くライトブルーからコバルトブルーへのグラデーションを背景に、小高い丘がくっきりと切り取られ、茶と緑の糸が織りなす綾織りのような墓標がその光景に溶け込むようにたたずんでいる。

 遠くに太陽光線を一杯に受けて外国船がゆったりと動き、地中海かカリフォルニアの小高い丘にいるような錯覚に陥る。

 ここに眠る人々は、かつて来日した多くの軍人や商人などの外国人である。 そして、その人々は多種多様な目的を持ち、期待する結果や思いとは別に、いみじくも異国の土地で命を落としここに埋葬された。 彼らの墓標は異境の土地から、海の彼方の母国を見つめている。 その郷愁は、醸し出される空気に溶け込んで、たたずむ者をオーロラのように包み込む。 なんだか身も心も神聖な空間で清められ、妙に何でも許せるような心境が広がる。

 車は磯子を回って鎌倉に向かっている。気落ちよく海風を受けて海岸通りを走っている。海岸線から内陸へ向かった頃、渋滞に巻き込まれた。二〇メートルぐらい走っては停止するという連続的な動作が続いた。 太陽は一番高いあたりだろうか。おれたちは特にヒロとポニーテールは喉の渇きと尿意に悩まされていた。

「高城、トイレ行きたいんだけど・・この辺、駅ないの・・適当なところどこかないの?・・あったら止めてくれよ。 もれそー・・あーーどっか野っぱらでもいいから・・」

「だめ・・だめだめ・・駅にして 」

 ポニーテールがすぐに否定した。

「この近くの駅ってどこよ・・誰か知ってる」

「誰かに聞こうぜ・・ほら歩いてるおばさんとか」

「見てみい、周り山と畑で誰もどこにもいねーよ」

 脂汗が噴き出てきた。 ヒロはどこか物陰さえあればいいんだけど・・ポニーテールがだめだよなぁー二〇メート行って停止するインターバルはとても精神的にもよくない・・限界は刻々と迫っている感じで、自分だけでもと思う気持ちが強くなってきた。 窓から見える景色に意識を集中する。 できそうな場所、できそうな場所と物色していると、山の崖が張り出して、その脇から小さな沢が流れ出ていて、さらに奥に細い獣道のような所を発見した。

「おーおー・・止めろ止めろ・・脇に寄れぇ・・」

 止まった。

「おれ、行ってくるから・・」

 直ぐさま降りると、一心不乱に脇道に飛び込んだ。

「ヒロポンわたしもついてくぅー」

 後ろからかおるちゃんが走ってきて、おれを追い抜いて走っていく。(速い、追いぬくなんて)獣道を四・五〇メートル入ると、何本か木が道沿いに茂っている。 木の奥に丈の高い草が生えている所を指さして、かおるちゃんの後ろ姿に叫んだ。

「その次の木から右に飛び込めー・・」

 かおるちゃんは、獣道から軽々とジャンプすると、そのまま茂みに隠れてしまった。 ヒロは木の陰に辿り着くと、かおるちゃんに背を向けて、放尿した。 ・・生きた心地がして、でもまだ出てきて・・木漏れ日がまぶしいくらいに顔にかかる・・メインタンクはみるみるしぼんでいく・・絶望から生還したごとく放心状態でいると・・後ろから声がした。

「まだー・・?」

「終わったぁかー・・?」

「セーフだったわよぉー」

「よかったよかった・・終わりー・・」

 ふり向くと、木漏れ日を受けて顔が戦闘服のようにまだらになったかおるがちゃんがすぐ後ろにいた。 目と目が合うとかおるちゃんが恥ずかしそうな仕草で目を伏せた。

 おれたちは、いけないことをした二人が、物陰から出てきたみたいなよそよそしさで車にもどった。 車では高城と今日子ちゃんがにたにたしながら待っていた。 何を言ったらいいか困って、

「ご苦労さん・・」

 ヒロが代表で

「まにあったよー・・」

 それからは、かおるちゃんともお互い一皮むけた様な気持ちになって、とても話しやすくなって、そばかすがチャーミングに見えてきて気持ちがとても楽くになった。

 鎌倉で鶴岡八幡宮を参拝して、小町通りの居並ぶ小さな店をのぞき見しながら歩いた、浅草とは違うこじんまりした明るい入り組んだ街だった。

 日も傾いてきたので早めに帰路についた。ヒロとかおるちゃんは都内の電車の駅近くで下ろしてもらって帰ることにした。


 二人になるとお互いに急にお腹が減っていることに今更ながら気がついた。 二人にとって都合のいい新宿でご飯を食べることにした。 カツ定食を食べながら、今日の事件を思い出した。

 かおるちゃんは飛び込んだときのことを。

「おしり出したら、草が当たっておしりがちくちくしたわよ・・」

 と言って腰のあたりをさすっていた。

「俺を追い越して・・速いんだもんびっくりしたよ・・」

「この時しか無いって思ったもの・・」

 ソースをかけたカツを箸でつまみながら。

「よくあんな所に飛び込んだよな」

 ご飯を口に含みながら顔を上げて、箸を僕にむけて。

「あなたの指示じゃん・・」

「えっそうだったっけー・・」

 ご飯とキャベツを飲み込むと。

「おしりみえたー」

 カツにからしを付けて口にほうばる。

「なんにも・・」(草の隙間からちらちら白く・・らしきものが)

 また、カツを一口食べて。

「ちょっと・・でも見たでしょう」

 顔が赤くなった。

「そんな・・僕もそれどころじゃ無かったしー」

 キャベツを口に含みながら。

「それより、すぐ後ろから声かけてくるんでびっくりしたよ・・」

 キャベツを味噌汁で流し込みながら。

「男の人って楽くよねぇー・・うらやましくなっちゃたー」

 カツをうまそうに食べるかおるちゃんを見ていて、ヒロはかおるちゃんの男っぽさというか、無謀さというかに変な魅力を感じてきた。二人はこの大事と思えるようになった時間をどちらともなく、なごり惜しくも、大切に過ごそうとした。


 その晩、ヒロはベッドの中で、今日の事を思い出しながら眠りについた。そして、その日からこの事は二人だけの秘密みたいなものになった。何かを共有できるって、他には無い繋がりができるものだ、それが誰にも言えない恥ずかしいことほど固く結ばれるものだ。



          💘 悪 戯 (花びら)


 夕方になっても街にはさわやかな季節の落とし物があちらこちらに見える。 今日はP介とよっちゃんと渋谷のハチ公前で四時に待ち合わせだ。 しばらくぶりで会う、何かが起きるような気がして楽しみだ。もうすぐ初夏、それまで縮まっていた体が徐々に伸びて開放に向かう。 四時に十分くらい前にハチ公に向かうとよっちゃんがブルースリーのような顔をつくって、相変わらずジーンズを引き上げて、一部を強調して煙草を吸っていた、交差点を渡った人の流れはセンター街に向っていく。

「よーっ・・はやいなー」

「バイト、ちょっとはやくあげてもらってきたよ・・」

「今バイト何やってるの?」

 隣で待つ女の子が、待ち人の男が来たらしく、いそいで彼氏に駈け寄っていく、そして、離れまいと深く腕を組むと人混みに飲まれていった。

「チェーン店の××喫茶店、南池袋店」

「時給は?」

 左の男がため息をついた、足下には吸い殻が六本。

「四百円で昼飯付き」

「いいじゃん、きついか?」

「そんなことないよ」

「よーっ」

 デニムの上着を着たP介が、右手で人を掻き分けるように近づいてきた。 三人はとりあえず近くの喫茶店に入った、窓際の席に着くと、咲き終わって少し疲れたようなバラが花瓶からたれて生けてあった。珈琲を注文した。 P介がおもむろに話し出した、最近サークルの合コンに出たら好みの娘に出会って、今まで三回ほどデートして付き合い始めたとか。

「どんな子よ」

「○○薬科大の子で、優しい子なんだよ・・」

 今にも、よだれが出てきそうな顔して、ハイライトの煙を吐いた流れる煙の後を追った。

「その子、今から来るとか」

 よっちゃんが太極拳の手刀のように手を伸ばして、珈琲カップを持ち上げた。そのときP介の肩に、花瓶から赤いバラの花びらがひらひらと舞い散りぴたりと止まった。

「違うのよ。今日彼女の部屋に行くのよ・・」

「なになになに・・女の子の部屋に行く・・行く・・行く」

 衝撃が走った。今まであり得ない事実だ(こんなことは前例がありませんので、要検討いたしまして、今回はできないと言うことにいたします)というのが普通の見解だろう。 今から「行く」とは何という暴挙。

「本当に・・大丈夫なの・・」

「それがさ・・やっかいなことがあるのよ」

ヒロとよっちゃんはやっかみ半分、次の言葉に期待した。

「何よ、お姉さんがいるとか・・ものすごい用心棒がついているとか」

 奴は二本目のハイライトを深く吸い込むと、煙を薄く吐きながら言った。

「そー用心棒がいるのよ・・犬・・犬がいるのよ」

「そんなのどうってこと無いじゃん、かわいいかわいいって餌でもやってあやしちゃえば」

 珈琲をがぶりと一口含むと、ごくりと飲みこんで口を開いた、中から青い煙が押し出されるようにヒロの顔の前を浮遊した。

「犬・・でかいのよ・・番犬よ」

「うへぇ・・」

 臆病者のヒロは、ドーベルマンに八つ裂きされる姿を思い浮かべて鳥肌が立った。よく戦争映画で敵の占領地に進入して、凶暴なドーベルマンに見つかって腕や足や首筋を噛まれて引きずられる姿が浮かんできたのだ。

「やめた方がいいよ、いくら誘いでも・・ちゃんと連絡とった方がいいんじゃない」

「そこのアパートって、女性だけのアパートで男性の出入り禁止なんだよ。彼女それ破ってこの俺を招待してくれる訳よ・・だから是非とも行きたいのよ」

 聞いているうちに、どんどん彼女が悪魔に思えてきた。

 まるでギリシャ神話か、中世ヨーロッパのお話しのようで。

「私に会いたいなら、この試練を乗り超えなさい」

 って言っているようで、悪魔の悪戯のような気がしてきた。

 そして、ドーベルマンが悪魔の手足のように動く凶暴な手下で・・。

「P介・・もし捕まったら、怪我して、大家に通報されて・・大変だぞ・・・・それに無事たどり着いても帰りもあるし、どうすんのよ」

「バカ野郎、好きな女に逢いに行くのに、少々の怪我を心配してどうすんのよ」

 P介は、もう何事も恐れない戦士になっていた。煙草をぶかぶかすって、珈琲も水もがぶがぶ飲んで・・ヒロとよっちゃんに強がりの姿を示すと・・次の瞬間・・・盛大に咳き込んでいた。

 三人はとりあえず小田急線に乗って、彼女の住む駅に降り立った。戦士三人はP介の案内を頼りに状況把握に乗り出した。取り巻く塀は、一辺の長さ六十メートル以上の敷地面積でとてつもなくでかい家で、塀の高さは百八十センチのコンクリート性。

 人通りが切れたのを見計らってジャンプして塀に取り付いて目指す女子専用アパートを偵察すると、塀から三本の大きな木があり、十五メートルほど離れた位置にその建物はあった。

 各部屋のドアのいくつかから明かりが漏れている。 そして目指す花園は二階の一番奥に一段と明るく位置していた。

 塀から離れて道路を引き返すと、作戦を立て直した。 肝心の犬を見ていない。

不審者に思われないためにも、もう少し暗くなるのを待つことにした。 完全に不審者なんだけどね。

 まず、よっちゃんが肩を貸して、その肩を踏みつけて見える範囲で犬を確かめてから、一気に中に飛び降りて進入する。 入ったら目もくれずに彼女の部屋まで駆け抜ける。帰りは彼女に助けてもらって脱出。 ・・一連の筋書きができて、犬を見てないこともあり、成功しそうな予感が高まった。

 あれから四十分、暗がりが徐々に広がって、ガードレールにもたれかかっている三人の影を消し去って、変わって淡い街頭の黄色い光が、戦士の影を薄く短く浮き上がらせはじめた。P介の顔が異様に勇ましくなったかと思うと、次の瞬間、最高に情けない顔で怖じ気づいている。 奴が自分に言い聞かせるように。

「よし、行こう・・おう・・」

 と威勢のいいかけ声で動き出したが、声とは裏腹にほんの小さな一歩だった。ヒロは煙草を取り出して火をつけて一服吸うと、P介に手渡しした、奴は煙を吸い込むと大きく吐いた。

「うまくいくよ・・」

 ヒロは無責任な励ましを、真剣そうな顔をつくって言った。決行の時間だ。三人は決めていた塀にたどり着くと、まず、ジャンプして取り付いて中の様子を確かめた。 異常なし。 予定通りよっちゃんが塀に両手をついて中腰になった、準備よし。 P介はよっちゃんの肩に足を乗せると、よっちゃんの腰が起き上がった。 同時にP介は一気に飛び越えると庭に落ちる音がした。

 ヒロとよっちゃんは顔あ見合わせるとガッツポーズで親指を立てて、握手した。

「うまくいった」

 二人が握手の手を離したとき、中で(ドトッ・・コッスタスタ・・トコツカ・・ガサッガサッ・・ウーォーウォー)て音がして(ドタドタバタバタ・・・・ガンガンガン、ドンドンドン)って音がして、思わず塀に飛びついて頭を半分だした。アパートの奥の部屋のドアから明かりが漏れて・・その明かりが狭くなっていった。見ると塀の真下で、おれたちにむかって牙を剥いてドーベルマンがうなっていた。

 「恋」って、命がけで思いを遂げなきゃならないときがある。 男はいつも試されて、女はいつも待っている。 恋する花はきれいで、かわいい、でもその裏では、やっぱり悪魔が意地悪な微笑みをたたえて潜んでいる。 成し遂げることができた者達だけが甘いワインを味わえる。 二人を引きつけ合うプロセスこそが、特別の時間で最高にスリリングな瞬間だ。 P介は無事に思いを遂げた、彼らも二人だけの秘密を持って仲良くなる。 秘密はいつでもルールぎりぎりのところで起こるものだ。

 苦いコーヒーに、甘い生クリームがのったばかりのウィンナーコーヒーのように、おれ達の恋の予感は始まったばかりだ。 混じり合う色のように、その味が変化し、微妙なコクが産まれ、すてきな味になる。

 数日後、P介から電話があって、あの日はすべてにわたり無事に成し遂げた、という報告があった。 とにかくヒロとよっちゃんの努力は無駄にならなくてよかったということだ。


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