烏
獣の咆哮を聞いた。
唸るような、ねだるような哀れで蒼い響き。それは月に向けられたもので、鏡面にせめて跡を残さんとした悲痛な叫びだった。
指紋が有るならばよかったろう。けれども頑強な爪は鏡面を破壊した。残ったものは真深い傷だけであり、それは星影を散らばらせた。
まるで白い星が弧を描くこともなく堕ちたようだった。
傷跡に遠吠えが木霊する。
次の使いがやって来た。まるで大いなる羽音と共に現れたのは三本足の巨大な烏だった。
私の知っている烏とは、一回り二回り、いいや倍ほども巨大なそれに私は背筋が細くなる思いを抱かされた。私は彼の表情を窺った。けれども烏は意志を黒の中に隠して、その心は皆目見えやしない。
ならばと鷲鼻をひくつかせて、けれども血の臭いはしなかった。烏からは森の苔の匂いと、鮮やかな果汁の綺麗で甘い香りがした。
嗚呼きッとこの烏は麗らかな自然の中で育った者なのだろう。
紅い木の実をついばんで、澄んだ湧き水で喉を潤し、それを台無しにするくらいにしわがれた声を上げて仲間と黒羽を磨き合う。そして昇る太陽と共に飛び立つのだ──私はそいつが羨ましくてしょうがなくなった。
頭の中ばかりは獣心と異なって自由であったから、私は背を向けて故郷の幻想を見た。かつて輩と共に駆け回ったあおい野山と、熱に傷んだ足を冷やした浅い小川。涼しい風は肌の上を滑って、何処までも行けるような気がしていた。草の匂いをいっぱいに詰め込んで私達はまだ見ぬものを目指して走り続けたのだ。
そうして何か、価値のあるようなものを見つけた気になると丁度暮れ頃、のんきな欠伸で微睡んだ。
遊び疲れて日に焼けて、けれども走って家に帰ると母がいた。氷水を流し込んで笑う私を見て、母もまた、ひだまりのような微笑を浮かべた。
思い出の景色は何物にも代えられないほどに美しく、翡翠の色を重ねていた。うっとりと目を細めて、夢の世界へとさァ落ちてしまおうとした瞬間、烏が口を利いた。
しわがれた声はまるで老人のようで、しかし叱責する風は微塵たりとも含んでいない。頭を撫で付けるような重く深い音。
私は夢想を邪魔されたことに著しく腹を立てた。烏風情が私のかけがえのない世界に黒雲を掛けてしまうのは許されがたいことだった。異常なほどに怒りは膨れて、牙は喝、喝と叫んだ。
烏は対して動揺を見せなかった。泰然自若と佇んで、我が母の意向を照らす。心配している、元気にしていますか、ちゃんと食べているのですか、ほどほどに幸せでありますか。
貴方さえよければ是非ともお返事を──
私は燃えた。
逃げるような後ろ向きのベクトルが腹の中で煉獄となって崩れた。
私に何を語れと言う。私に何を見せろと言う。
最早化生に堕ちた私が──貴方に何をあげればいい。
肉ならばいくらでもやろう。猛き力もいくらでも貸そう。井戸を掘ろう、畑を作ろう。私はきっと、あなたが望むならなんだってくれてやる。
けれども母が私に望むのは、ただ私に幸せで在れと。
幸せとは何者だろう。幸福とはどんな姿で掴むものだろう。
嗚呼それだけは、俺はあなたに欠片ほども渡せないのだ。
烏の肉は不味かった。
灰色の風味が古い布を噛んでいるみたいに滲み出てきて剥がれない。赤と黒。その両方は、美しき私の故郷の世界とは真逆の方向へと埋葬されてゆく。
私は火のことを考えた。決して消え得ぬ火のことである。
奴はもしかして、とんでもなく熱くって仕方がないのではなかろうか。煉獄の身は煉獄の渦中と言って相違ない。人もまた人の中にあり、獣は獣の中に宿るのだ。そして誰もがその容器の持つ咎からは逃げられず、永遠の道を歩む。
私は人の身の六道から転落し、畜生道に背中から落ちた。嗚呼その時、呼吸は止まったのだ。
容器を破壊したのは己の中身が膨れたからではなく、ただ──どうしようもなく烏の毒に侵されただけであったのだ。
畜生道に打ち付けた背中から翼が生えた。黒い飛膜を伴った、骨組みのような翼である。しかし羽毛はなく、微かに青白い毛が苔のように生えているのみだった。
私は鎌のような爪で、疎ッと翼に触れた。
血の通わない冷たさ、包む布団のような暖かさもない。死体の瞼のように闇に夜を下す、欠片ほども意味を持たぬ帳。
私は翼で自分を抱いた。この無益で何処へも行けぬ翼でも、母の手だと信じ込んで身を包めば、いくらかマシに目を開くことができるのではなかろうか。そんな夢想をした。
けれども翼は、まるでビニルのように薄く体温を含まない。
氷雨に濡れる幻想が
黒き天より堕ちてくる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます