第77話 谷口さんにしかしないので大丈夫です

「今日でお別れだね」

「なんで……?」

「もう、迷惑なの。好きな人いるから」


 そう言って綺麗な女性は私に背を向けて歩き出す。


 嫌だ。置いていかないで――。


 私は知らない間に息が上がるほど全力で走って、彼女の背中を追いかけていた。


 もう、わがままは言わないから。

 何でもするから。

 なんでも言うことを聞くから。

 

 谷口さんに好きな人がいてもいいから、私のそばにいて欲しい――。


 いや、好きな人なんて作らないで私のそばにいて欲しい――。



 ※※※

 


「はぁはぁはぁ……」


 視界には真っ白な天井が広がっている。

 顔には水分が滲み、背中は冷たい汗をかいていて、気持ち悪い。


 気持ち悪いはずの体の一部分だけ、温かく私を包み込む体温を感じた。


 私の右手は優しい手に包まれている。

 谷口さんはベッドに伏せるように寝ていた。


 谷口さんが隣に居てくれる――。


 そのことに安堵し、先程まであんなに苦しかった胸も呼吸も安定していた。


 しかし、少し落ち着くと先程のことを思い出し、また心臓が速く動く。

 ただ、さっきみたいに意識を失うほどではなかった。きっと、谷口さんが手を握ってくれているから、気持ちが落ち着いているのだろう。


 寝ている女性の顔色があまり良くない。


 谷口さんにはかなり心配をかけてしまった。



「さよ……?」


 もぞもぞと動き出して谷口さんは目を擦るとハッとして私を強い力で抱きしめてきた。心臓の音がどくどくと響き、体の芯からじわじわと温まる。


「大丈夫……?」

「大丈夫です」


 珍しく、谷口さんの体と声は震えていて、本当に心配していることが伝わる。

 ここまで心配をかけることは今までなかったから、自分に起きた出来事を少し恨めしく思う。しかし、これだけ心配してくれる谷口さんの行動を嬉しくも思っていた。


 私は谷口さんに「大丈夫」とは言ったものの、体は正直で大丈夫ではないようだ。体は先程のことを思い出して、今も震えているから谷口さんは余計心配なのだろう。

 

「今日、入院していく?」

「……帰りたい」


 今はあの家に帰って、いつものベッドで寝たいと思った。


「じゃあ、帰ろっか」


 谷口さんは病院でいろいろ手続きをしてくれて、私たちは家に向かうことになった。

 帰る時もタクシーに乗っている時も家に着いてからもずっと手を離してくれない。夏だからベタベタと汗をかいて嫌なはずなのに、私はその手を離したくないし、離して欲しくないと思った。


  

「一緒にお風呂入る? 洗ってあげようか?」


 谷口さんは真顔でそんなことを言っている。心配してくれるのは嬉しいが、私はそこまで子供じゃない。


「大丈夫です」

「のぼせるからシャワーだけにしなね」

「浴衣脱ぐので谷口さん先入っててください」

「自分で脱げる?」


 あまりにも過保護すぎる。心配されすぎて逆に申し訳なくなった。


「大丈夫です」

「わかった」


 谷口さんは急ぐ必要もないのにバタバタとお風呂に向かってしまう。

 彼女の後に私もお風呂に入り、お風呂から上がるとソファーには足を抱え込んで待っている谷口さんがいた。


「髪乾かしてあげるからおいで」

「自分でできます」

「いいから」

 

 彼女にグッと手を引かれてソファーに寄りかかかるように床に座った。


 谷口さんはぽかぽかと温かい手で私の頭を優しく撫でてくれる。耳にはボーッと風の音が響いてうるさいはずなのに、この時間がもっと長く続けばいいと思った。


「はい、完成」


 私の髪はそこそこ長いのでもう少し時間がかかると思ったけれど、彼女の乾かし方が上手いのか、気持ちいい時間はあっという間に終わってしまう。


 私はそのまま床に座っていると、腕を引かれて谷口さんの部屋に連れ込まれた。


「谷口さん――?」

「今日は一緒に寝よ」

「なんでですか?」

「一緒に寝てたら具合悪くなった時、すぐ気がつけるから」

「もう具合悪くなったりしないから大丈夫です」

「心配だからだめ」


 

 今はこの家に帰ってこれたおかげもあり、だいぶ落ち着いていた。しかし、谷口さんは全然納得してくれないようで、私の体を抱きしめていた。

 しっかりと私を抱擁しているのに、声は弱々しく、私はいつの間にか彼女のベッドに乗せられている。


 そのまま、薄手の毛布をかけながら、谷口さんは私の横に並んできた。


 ベッドの上でも抱き寄せられ、頭を撫でながら彼女は話しかけてくる。


「無理に話せとは言わないけど、何があったのか教えて欲しい」


 その言葉に先程まで落ち着いていた心臓がまた変な動きを始めてしまう。


 言葉にしようとすると、喉に何かが詰まったみたいに音を出せなくなる。

 呼吸が苦しくなる。


 しかし、苦しそうに私が呼吸を繰り返す度に谷口さんは背中を優しく撫でてくれた。


 谷口さんになら全て話しても……。

 谷口さんには全てを知って欲しい……。


 全てを知った時、谷口さんも離れてしまうかもしれないけれど、ずっと隠しておいたっていつかは言わなければいけないことなのだから、今でもいいのかもしれない。


「前話してた……」

「うん」

「付き合ってた人と会いました」

「うん――」


 それ以降の言葉は出なくて、何回も深呼吸を繰り返した。どんなに時間がかかっても谷口さんは待っていてくれる。


 その優しさに後押しされて、話す覚悟ができたのだと思う。


「その人のことが本当に大好きでした。ただ、それは私の一方的な思いで、相手にとっては気持ち悪いと思われていたらしいです」

「うん」

「その人と恋人らしいことは全てしました。それで気持ち悪いと言われて、何が原因だったのかなって深く考えるようになったら、いつの間にか女性に触れられるのも、話すのも怖くなっていました」


 私の言葉と行動の何がいけなかったのだろうと毎日のように考え、悩み、何回も心を串刺しにされた。

 答えは未だに出ていない。

 何が悪かったのか、今も分からないままだ。



「教えてくれてありがとう」

 

 谷口さんは優しく微笑んで私を抱きしめてくれるから、そのことが嬉しくて、この中にずっといたいと思ってしまった。


「今も怖い?」


 今も怖いかと言われるとそうではなくなってきている。


 私がどんな態度を取っても谷口さんはそばにいてくれた。

 女性恐怖症なんて関係ないくらいに私は谷口さんに酷いことをしたはずなのに、それでも彼女は隣にいてくれた。


 そのことがなによりも私の気持ちを軽くしてくれたのだ。


 彼女がいなければ、私は今も暗く狭い世界で独りで暮らしていただろう。


「谷口さんのおかげでだいぶ良くなりました」

「そっか。良かった」


 彼女は嬉しそうに笑っている。

 そうに決まっている。

 私の症状を治そうと一番力を尽くしてきたのだから。


 しかし、この時の私は素直に喜ぶことができなかった。


 私の症状が治っているということは、谷口さんとのこの生活が終わるということを意味している。


 私の症状が完治したら、今日一緒にいた男性と付き合うようになるのか?

 あの人でなくても、だれか別の人がこの家に来て、谷口さんと暮らすようになるのか?

 その好きな人と肌を重ねるようになるのか?



 ………………



 いやだ……。


 私はいつからこんな欲張りになってしまったのだろう。


 彼女に症状を治してもらうだけでは足りなくなっている。


 今日の分は終わっている。

 バイトもない。

 

 だから、私が彼女に触れていい理由なんてなにもない。


 こんなことは間違えているし、この感情も間違えているのかもしれない。


 きっと、谷口さんに拒否されたら私は真由に気持ち悪いと言われた時より塞ぎ込むだろう。



 誰でもいいから、この気持ちにブレーキをかけてほしい――。




 私は彼女の肩に手を添えて彼女の唇奪っていた。

 谷口さんは目を丸くしていたけれども、すぐに目をつぶって受け入れてくれる。


 そんな彼女甘えて、私は彼女の柔らかくて熱い唇をなぞろうとしたけれど、私がそうすることをわかっていたのか、谷口さんのもっと熱くて柔らかいものが私と交わる。


 こんなこと何回だってしたのに、今は自分でもびっくりするくらいこの行為を心地良いと感じてしまっていた。


 もっと――。


 いつの間にか谷口さんが私に覆いかぶさる形で私達は何度も何度も熱を交わした。


 お互いの吐息が漏れ出ても、熱を差交すことをやめず、私は彼女の首の後ろに手を回し、谷口さんが離れていかないようにする。


 もっと谷口さんが欲しい。


 もっと谷口さんのことを知りたい。


 谷口さんを誰にも渡したくない。


 彼女を抱き寄せる腕にはかなり力が入っていて、谷口さんは苦しいはずなのに離れようとはしなかった。


  

 なんで受け入れるのだろう。


 今日の分はもう終わったと否定してほしい。

 

 そうでないと、私は理由なくこういうことを彼女にしたくなってしまっている。


 これからも、何年先も谷口さんにこうやって触れたい。



 これって……。



 私の胸から溢れ出す感情と一緒に目から涙が溢れていた。

 その様子に気がついた谷口さんはかなり顔を青ざめていた。


「ごめん……こんなことして……」

「たに、ぐちさんは、わるくない……です」


 私はボロボロと出る涙を拭きながら彼女に伝える。


 谷口さんは何も悪くない。

 悪いのは私だ。


 彼女を求め、そのくせに泣くなんて最低だ。

 しかし、もう自分の感情に嘘を付くことはできなくなっていた。



 私は谷口さんに恋をしている――。



 いつからとかはもうよくわからない。

 私はずっと彼女に惹かれていた。彼女に触れたいという理由もすべて彼女への想いにつながる。


 過去の恋愛からもう誰にも恋をしないと決めていた。ずっと、誰かのことを好きになる感情に蓋をしていた。

 また裏切られた時が怖いから、自分は常に殻の中に潜り、自分を守るために動いていたのだ。

 しかし、怖いとか辛いとかそういう感情を無視して、谷口さんに対する想いは溢れ出してしまう。

 


 谷口さんは心配そうに私の涙を拭いてくれた。


 こんなの良くない。


「すみません。もう大丈夫です」

「うん……」


 谷口さんは優しいから自分のせいだと自分のことを責めるだろう。本当のことを伝えてもそれが伝わるくらい私はまだ信用されていない。


 だったら、行動で示していくしかないのだと思う。


 私は谷口さんに身を寄せて、ぎゅっと彼女を抱きしめた。

 こうやって抱きしめるだけで、彼女に私の想いが伝わればいいな、なんて馬鹿げた発想がでてきてしまう。



「紗夜……? あんまりそういうことすると勘違いする人もいるから気を付けたほうがいいよ?」

「谷口さんにしかしないので大丈夫です」


 谷口さんはなんとも言えない顔で黙ってしまう。


 なんでこういう恥ずかしいことを言った時に彼女は黙るのだろう。


 本当に酷い人だ。


 私はむくっと体を起こして彼女のベッドから出ることにした。


「ここで寝なよ」

「いやです」

 

 彼女に腕を掴まれるので、顔を見ると谷口さんは珍しく頬をぷくーと膨らませ、私を見ていた。

 その顔が少し面白くて笑みがこぼれてしまう。


 そのまま彼女の両頬をつまむと、きょとんという顔で私を見てくるので、そのあほそうな唇に優しく唇を重ねた。


 谷口さんに対してこんな感情を持つのは間違えているのかも知れないし、真由の時みたいにまた辛い思いをするかもしれない。


 それでも、今は自分の感情に嘘を付くことの方が嫌だと感じるくらいに私の傷は谷口さんのおかげで癒えている。



 私はこれから先、何度もいろいろな感情と向き合い、変わっていくのだろう。


 そして、そんな変わっていく自分を受け入れていきたいと思える日になった。

 

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