第75話 目つぶってください

 高校生の頃に着ていた少し小さめの浴衣を家から掘り出してきた。


 紗夜はこの浴衣が絶対に似合うと思う。


 私の手には浅紫色に桔梗柄の入った浴衣が乗っかっている。タンスの奥に入れていたせいで、少しばかり埃の匂いが香るので、アロマを数滴垂らしておいた。



「早く脱いで――」

「目つぶってください」

「目つぶりながらできたら、プロになれるよ」

「いいからこっち見ないでください」


 目の前の少女は頑なに服を脱ごうとしない。

 別に丸裸になれと言っているわけじゃないので、これくらい許して欲しい。


「紗夜があっち向いて脱げばいいじゃん。早くしないと楓ちゃん待たせちゃうよ?」


 そう言うと諦めたのか壁側を向いて服を脱ぎ始めた。紗夜の皮膚が焼けてしまうんじゃないかと思うほど、彼女の背中を見つめていたと思う。


 紗夜の背中には薄ピンクの下着が飾られていた。


 高校生の頃にも彼女に服を着せたが、その時に着けていたものよりも大人っぽいものになっている。

 

 大学生になったから当たり前なのかもしれない。



 夏で暑いはずなのに、数歩先に見える紗夜の体には爽やかさが漂っていた。


 私はそろそろと彼女の傍に近づく。

 くびれにそっと手を置くと紗夜はぴくりと反応していた。


「変態……早くしてください」

「分かってる」


 こんなことしたら彼女に嫌われることも気持ち悪いと思われるのもわかっていたけれど、その時は自分の欲を我慢することが出来なかったらしい。


 私はそのまま彼女を後ろから抱きしめていた。


「谷口さん……?」

「今日の分だから我慢しなよ」

「こんな状態の時にしないでください」


 紗夜の言うとおりだ。

 今の私は間違えている。


 しかし、紗夜を抱きしめる力は強くなるばかりで、緩まりそうになかった。

 

 私が離さないと分かったからか、紗夜は回している腕に噛み付いてくる。


 それも手加減無しで――。


 腕にはじんじんと痛みが広がっていく。ただ、そんなのはどうでもよかった。


 そのまま彼女をもっと抱き寄せると噛む力は緩まった。


 こちらから見えるのは紗夜の真っ赤になった耳で、さっき噛まれた仕返しで、その赤く染まった耳を優しく甘噛みした。


「っ――」


 紗夜に怒られることなんてわかっているけれど、いつも噛みつかれているんだからこれくらいいいと思う。


 そのまま彼女の背中に手を添えていた。



「谷口さんっ!」


 紗夜の本気で怒った声にハッとして、自分勝手に行動していたことに気がつく。私はそのまま急いで彼女の腕に浴衣を通して、彼女に浴衣を着せて、自分の行動を誤魔化した。



「似合うね……」


 やはり、この浴衣にしてよかった。


 そして、同時に今日は紗夜に手錠をかけて、外に行かせたくないと思う気持ちも湧いてきた。


 たかが布一枚羽織っただけで、こんなにも妖艶な雰囲気を放つこの少女は危ない女だと思う。


 麗しい――。


 そんな言葉が似合うだろう。


 浴衣を着せたのは間違えだったかもしれない。しかし、彼女の浴衣姿を見るのも着せるのも私が初めてだという事実が欲しかったのだ。



「ナンパされてもついていかないんだよ?」

「ナンパなんてされないですよ」

「されるよ」


 私は紗夜の髪に手を通しながら、こんなに綺麗な紗夜のことをずるいと思っていた。そのまま彼女のきれいな髪の毛をひとまとめにして編み込んで綺麗な髪飾りをつける。


 元から素敵な絵画にさらに色を塗り重ねるなんてもったいないのかもしれないけれど、私はゴッホ並の描く力があるのか、紗夜は信じられないくらい綺麗になっていく。


 外に出したくない――。


 私が隣にいるのならまだしも、あの心もとない親友しかついていないと思うと外に出すことを躊躇ってしまう。

 


 最後にリップを塗る前に彼女の顔に手を添えて近づいた。紗夜は私のすることがわかったのか、私の口を手で塞いできた。


「余計なことしないで早くリップ塗ってください」


 そんなに嫌な顔をしながら拒否しなくてもいいと思う。私はそのまま私の口を塞ぐ紗夜の細くて綺麗な指を舌でなぞっていた。


「なにしてるんですか。谷口さんってほんと変態ですよね」


 彼女はもっと不機嫌そうな顔になって私を睨んでくる。そんな紗夜を無視して私は使命を続けることにした。


「塗ってあげるからおいで」


 強引なことはしたくないし、しないように心がけている。だから、こんなことはしたくないのに体は言うことを聞かなかった。


 紗夜はなんの疑いもなく近づく私を見上げていた。そんな純粋な気持ちの彼女に対して裏切り行為ではあるのはわかっているが、自分を止めたくはない。

 

 そのまま無理やり彼女を抱き寄せて唇を奪った。

 こんな行為は間違えている。

 そんなこと自分が一番よくわかっている。


 次の瞬間、がりっと唇を噛まれ口の中に鉄の味が広がっていく。


「谷口さんの嘘つき」


 彼女はばっと私の手からリップを取って自分の唇に重ねていた。そこはさっきまで自分の唇が重なっていたはずなのに、簡単にリップが乗っかって上書きされてしまう。


 紗夜はそのまま私から距離を取って準備を始めた。

 

 

 私も心春と職場の人達と夏祭りに行くのだから準備しなければいけない。


 今更だが断ればよかった。


 紗夜が楓ちゃんと楽しそうに歩いているのをあまり見たくない。紗夜は楓ちゃんにはかなり気を許していて、親しくしている。

 

 私には絶対にしてくれないことだ。そのことに嫉妬する自分も惨めで見ていられなくなる。



「いってきます」

「行ってらっしゃい……」


 髪飾りの良く似合う少女は少し頬を赤らめて出ていこうとした。


 紗夜を笑顔で見送ることは出来なかった。



 玄関の姿見の前に立ち止まった美少女は、何か忘れ物を思い出したのか、カタカタと音を立てて戻ってくる。


「耳貸してくください」


 耳?

 なぜなのか分からないけれど、私はそのまま屈むように彼女に左耳を傾ける。


「浴衣着せてくれてありがとうございます」

 

 私の耳に暖かいものが当たり、ドクリと体の奥から音が鳴る。


 少し口角の上がった顔をした少女はそのまま家を出てしまい、左耳がポロリと取れそうになった私のみが玄関に残された。



 ※※※

 


「あんた魂抜けすぎ」

「うん」

「うん、じゃないのよ」


 バシバシと心春に背中を叩かれる。


「痛い」

「しっかりしなさいよ全く。どんだけ紗夜ちゃんのこと好きなの」

「好きじゃない」

「それ本気で言ってる?」


 本気に決まってる。むしろ、心春の言ってることのほうが本気で言っているのか疑いたくなる。


「強引にでも夏祭り行こうって言えばよかったじゃん」

「私に言われたって嫌でしょ」

「そう? 私なら綺麗なお姉さんに誘われて嬉しいと思うけど」


 それは綺麗なお姉さんだった場合だけだ。

 紗夜から見たら私なんてただの従姉妹のお姉ちゃんくらいにしか思われていない。


「そんなになるくらいなら自分のだってしちゃえばいいのに」

「何言ってんの。これ以上、嫌われる要因作りたくないよ」

「その割には、この間の紗夜ちゃん楽しそうだったけどね」


 心春に何がわかるんだ。


 私はただただ胸の奥にあるドロドロとした感情と戦うしかなかった。

 


「谷口さん、わたあめ食べますか?」

「お気遣いありがとうございます。大丈夫です」


 小畑さんが気を使って話しかけてくれたのに、私は即座に断ってしまった。


 きっと、紗夜があげると言ったのならば腹がはち切れても食べるだろう。

 



 夏祭りは賑わい始め、人が増えてきて、私たちは七人で来ていたが、いつの間にかバラバラになっていた。私はいつの間にか小畑さんと一緒になっている。


「はぐれちゃいましたね……」

「心春たち探しましょ」

「そうですね」


 二人で別れて探せばいいのに、小畑さんは先程から私の後ろを歩いている。


「あの、谷口さん……」

「はい?」

「もう花火上がりますし、二人で見ません?」


 なぜ二人?

 それよりもみんなで見た方が楽しいと思う。

 目の前の小畑さんからはいつもと違う雰囲気が漂っている気がした。

 


 ドーンッ!


 花火が打ち上がると、街行く人達はみな足を止め、花火を見ている。


 花火は真っ暗な空に綺麗に咲き続ける。


 花火は綺麗だ。

 花と同じで見ていると心安らぐ。


 綺麗なものは紗夜と一緒に見たかった――。


 紗夜が隣にいてくれた線香花火もお花見も私にとっては忘れられないくらいの思い出になっている。


 心春の言う通り、少し強引になってもよかったのかもしれない。


 

 今、紗夜はこの花火を見ているのだろうか。

 どんな顔をしてみているのだろう――。

 どんなことを感じているのだろう――。


 来年、紗夜と花火を見れるのだろうか。

 もう彼女は私の隣にいないかもしれない。

 その時のことを考えると、胸に石を埋められた気分になった。


 少し気持ち悪い。


 私はその気持ち悪さを飲み込んで、花火が終わるのを待ち続けた。


 

「花火綺麗でしたね」

「はい……」


 隣の小畑さんは優しく話しかけてくれているのに、私はあまりにも愛想のない感じになってしまっている。

 

 何から逃げようとしたのかは分からないけれど、この場にはいたくないと思い、移動しようとすると、スマホがブーブーと揺れていることに気がついた。


 隣に居た小畑さんには申し訳ないが、彼を置いてその場を離れ、スマホに耳を当てた。


「もしもし?」

「谷口和奏さんの携帯ですか?」

「はい……」


 私は声の主の出す不穏な空気から、全身に変な汗が滲んでいた。

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