第74話 今日の分ですか?
楓ちゃんの家にお泊まりに行ってから、紗夜の様子がずっとおかしい。
見えない大きな何枚もの壁を感じるようになった。
なぜ――?
何も心当たりがない。
紗夜が楓ちゃんの家から帰ってきた日、私の方が不機嫌なはずなのに、私より不機嫌な顔をした紗夜は痛いと感じるくらい強い力で私の肩を掴み、椅子に座らせてきた。
そのまま、紗夜の左足に付いた
「そっちじゃないよ」
「こっちにしてください」
「最初、左足に付けたのは紗夜だよ」
「……」
彼女がその意味も知らないで付けていることは知っていた。だから、こんなのなんの意味もないことはわかっているが、無意識に紗夜が取った行動に彼女はもっと責任を持つべきだとも私は思っている。
紗夜はなにも言わないまま、不機嫌そうに私の左足にアンクレットを付けていた。
その日から彼女との距離を感じている。
今、紗夜はベランダに出て花たちに水やりをしている。その顔はリビングから見ても明らかに穏やかで、私には絶対に向けてくれないような顔をしていた。
花に嫉妬するなんて馬鹿馬鹿しいのかもしれないけれど、こんな壁を作られたらそう思わざるを得ない。
彼女にガーデニングを教えて、植物の育て方や花言葉の本を渡した。紗夜はそれを嬉しそうにベランダの椅子に腰掛けて見ている。
私よりも花が好きになってしまった。
彼女はどんどん変わっていく。
それもいい方向に――。
女性恐怖症だと言った彼女は、今はバイト先で女の人に話しかけられても大丈夫なくらいにはなっているらしい。
それだけじゃない。
好きなものが増えて、好きなものの知識まで増えて、そして、その得た知識を私に教えてきた。
誰がこの家に来た時の紗夜からそんな彼女を想像できただろう……。
今の私は良くない――。
そんな自分に仮面を被せて、今日も彼女との間にある壁を壊そうと必死になる。
「紗夜、ご飯食べるよ」
私はとびきりの優しい笑顔で声をかけたが、紗夜は信じられないものを見る目でこちらを見てきた。
「谷口さん、そういう顔やめてください」
「じゃあ、どういう顔すれば紗夜は前みたいに戻ってくれる?」
つい、ムキになって聞いていた。
「私はいつもどおりです」
「そう。じゃあ、今度の夏祭り私と一緒に行こう」
この間、心春に紗夜と行けばと教えてもらった。壁は壊れなくていい。ただ、綺麗なものを彼女と一緒に見たいと思った。
「楓と行く約束してます」
「……そう」
私はそれ以上なにも言えなくなってしまった。
彼女との間には大きな壁を感じ、さらに、紗夜と過ごすチャンスすら私にはないらしい。
今の私は良くない――。
良くない顔をしている。
こんな醜い顔を紗夜に晒すわけにはいかないだろう。
「紗夜って浴衣着たことある?」
「ないです」
「浴衣、着せてあげようか?」
「えっ……?」
楓ちゃんに浴衣姿の紗夜を独占されるのは嫌だ。
しかし、初めて紗夜の浴衣姿を見るのも、それを着せたのも、私であればいいと思った。
そして、自分の着ていたものを彼女に着せたいという黒い願望もあった。
「いいんですか?」
「うちの家に私のあるから、今度持ってくるね。髪とかもやってあげるよ」
「谷口さんってなんでも出来るんですね……」
ちがう。
私は何も出来ない。
すごいのは私の母で、私はそれを教えてもらっただけだ。それなのに紗夜の前ではなんでも出来るふりをする。自分の悪い感情なんて隠して、大人なふりをする。
なんて小さな人間なのだろう……。
私は紗夜の髪に手を伸ばしていた。
黒く艶の放ったその綺麗な髪に指を通す。サラサラと私の指の間を通る髪はずっと触っていたくなる。
この髪の毛をどうアレンジしよう。
私好みにしたって別に誰にも怒られないだろう。
だって、アレンジするのは私なんだから、私の好きなようにしていいと思う。
「谷口さん……?」
私は無意識に彼女の髪の毛を自分の方に引っ張っていたらしい。大人しく私の方に近づいてくれればいいのに、紗夜は首を横に傾けるだけだった。
私はそのまま彼女との距離を詰め、彼女を抱き寄せる。
少し背の低い少女の髪に鼻先を押し当てて、紗夜の匂いを感じた。少しクラクラとするその匂いは中毒性が高いと思う。
紗夜が私の腕の中でのそのそと動いて、私を見上げてきた。
「今日の分ですか?」
これは、紗夜の症状を治すためのものじゃない。
わかっている。
しかし、紗夜を抱き締めたいと思った自分を受け入れてはいけないと思った。
「うん……」
その返答に紗夜は不思議そうな顔でこちらを見つめた後に私の腕からするりと抜け出していなくなってしまう。
今日の分を朝に使ってしまったことを酷く後悔して、仕事に出た。
※※※
「ぼーっとし過ぎですよ和奏さん」
「してないよ」
「目の焦点あってなかったよ」
「そうだね」
はぁ、と心春の前で大きくため息をついてしまう。
こんな自分はらしくない。
こんな人間ではなかったはずだ。
「それで夏祭りは一緒に行くの? 二人の後着けようかな」
「残念ながら振られました」
「なんで!?」
どんと机に前のめりになった心春が聞いてくる。私も今朝の紗夜に対してそんな感じだったと思うと、自分のペースをつくづく彼女に崩れているのだと嫌になる。
「友達と行くんだって」
「先越されちゃったね」
「心春に言われたから誘っただけだし」
せっかく、親身にしてくれる心春のせいにするなんて、なんて酷いことを言うんだと思いつつも、このやり場のない感情をぶつけることが出来なかった。
「じゃあ、職場の歳近い人達で夏祭り行こうってなってたから一緒に行こうよ!」
別にその日は紗夜に着付けすれば、私のやることはない。一人でいるよりも用事がある方が考えることは少なくなっていいかもしれない。
「行こう。メンツは?」
「やったね。男性陣四人と女子は和奏含めて三人かな」
「合コンみたいだね」
「まあ、あんたは紗夜ちゃん一筋だろうけど、息抜きに来なよ」
「紗夜のことそういう意味で好きじゃないから」
「そう?」
また、心春は勝手に妄想して、勝手によからぬ事を考えている。しっかり否定しておかなければ、新たな勘違いを生みそうだと思って、しっかり否定しておいた。
そんな約束を交わして、夏祭りが訪れるのはあっという間だった。
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