第69話 本気にしないでよね
今日も美鈴さんはバイト先に来ていた。
今日は珍しくカウンターではなく、店の端の方でこぢんまりと過ごしている。
私がお酒を運びに行くと、いつも通り話しかけてくれた。しかし、話の内容はいつものようなものではなかった。
「紗夜ちゃん、今大丈夫?」
私は辺りを見渡す。今日は平日ということもあって人も少なく、話せないような状態ではない。
「はい、大丈夫です。何かありましたか?」
「紗夜ちゃんに相談があるんだ」
美鈴さんからはいつもの笑顔が消え、やたら真面目な顔をしている。
これ以上この話を聞いてはいけない。
私の勘がそう働いていた。
「どうしたんですか……」
私はこんなに人に気を使える人間じゃなかったはずだ。完全に谷口さんのお人好しが移っている。
しかし、この日ほど相手の気持ちを優先したことを後悔することはないだろうと思わされるような言葉が飛んできた。
「私、和奏と寄り戻したいんだ――。だから、紗夜ちゃんにも手伝って欲しい」
私の心臓の音がしっかりと頭に響いている。
うるさい。
うるさい。
うるさい。
もう、何も聞きたくない。
わかっている。
私には美鈴さんが谷口さんとまた付き合いたいと思うことを否定する権利もないし、二人の関係に口出しする権利もない。
じゃあ、なんで私に相談なんかするのだろう。
どう考えても、「谷口さんの家から出て行け」と言われているようにしか感じなかった。
谷口さんの家から出ていく……?
いやだ……。
そんなのいやだ……。
私は彼女の相談に乗ったことを酷く後悔した。
相談に乗ったということは、ちゃんと相手の意見を尊重しなければいけない。
それくらい私にもわかる。
だからこそ、ここは彼女の期待通りの回答をするべきなのだろう。
何を手伝えばいいんですか?
次になんて聞けばいいかわかっているのに、その言葉すらも今は発することが出来なかった。
私はきっと魔女に声を奪われたのだろう。
それでいい。
今は何も言葉を発したくない。
今は美鈴さんを肯定することは出来なかった。
しかし、このままずっと無視することもできないので、何かいい案がないか私は足りない頭をフル回転させ解決案を考えていた。
何も思いつかない……。
谷口さん……。
谷口さんは前に美鈴さんとはよりを戻さないと言っていた。実際に私の知らないところで会って、けりを付けたらしい。
しかし、目の前の美鈴さんを見る限り、全然諦めきれていないことが分かる。
『紗夜が大切だから他に何もいらない』
彼女の言葉を信じたい。
ただ、私が自惚れているだけだったらどうしよう。そんな考えが浮かんで辛くなる。
私は美鈴さんを応援できない。
私はせっかく見つけた居場所を手放したくはなかった。
「紗夜ちゃん……?」
美鈴さんは綺麗な瞳で上目遣いをして見てくる。
そうやって谷口さんにもいろいろお願いをしてきたのだろうか。谷口さんなら美人が好きだから、すぐに言うことを聞いていそうだ。
そんな谷口さん知りたくない。
どうしてこんなにも嫌な感情ばかり浮かんでくるのだろう。
私は最低だ。
頭が割れそうなくらい考えていたと思う。しかし、何度考えても良い答えは見つからず、私は信じられないくらい長い時間立ち尽くしていた。そして、考えれば考えるほど呼吸が浅くなり、脳に酸素が回らなくなる。
苦しい――。
だれか助けて――。
チャリン
私が呼吸も笑顔も忘れている時に信じられない人物が現れる。
「あれ! 紗夜ちゃん、偶然だね。ここ紗夜ちゃんのバイト先だったの?」
「心春さん……?」
心春さんの顔を見て、ほっとして涙がこぼれそうになる。それをグッと抑えて私はいつもの接客の笑顔を思い出した。
「すみません。接客があるので」
かなり冷たい返しになってしまったかもしれないが、その場を離れて心春さんの下に駆けつけた。
「たまたまここに来たんですか?」
「うん。私、結構一人で飲み歩くんだ。あっちの席座ってもいい?」
心春さんが指さしていたのは美鈴さんの席の近くだった。
心春さんは美鈴さんのことを知っているのだろうか。
「いいですけど……」
「どうかした?」
心春さんはいつものように優しく頭を撫でてくれた。
「紗夜ちゃん、バイト頑張っててえらいね。和奏に伝えておくよ」
「谷口さんには何も言わないでください」
「わかったわかった」
私があまりに怖い顔をしていたからか、心春さんは少し驚いた表情をして、店の奥の方に歩いていた。
心春さんはそのまま美鈴さんの近くに座り、しばらくすると何やら二人は話しているようだった。
その後すぐに美鈴さんは少しだけ不機嫌そうな顔をして出ていってしまう。
私はすぐに心春さんの方へ駆けつけて、聞かずにはいられなかった。
「心春さん……あの方となにか話してたんですか?」
「ちょっと世間話をね」
心春さんは珍しく真面目な顔をしていたが、すぐに笑顔に戻り、いつもの調子で接してくれる。
心春さんがタイミングよく来てくれたおかげで、私は美鈴さんの問に答えずに済んだ。
しかし、それは問題を先送りにしただけに過ぎない。
次、美鈴さんが来た時どうしようかと頭を悩ませている。
「ほんと紗夜ちゃんはいい子過ぎるから気をつけなね?」
「……はい」
よく分からないけれど、心配してくれていることは伝わるので返事だけはしておいた。
今日のバイトも無事終わり、私はとぼとぼといつもの帰り道を帰る。
今はなぜか谷口さんに早く会いたいと感じていた。
バイトが終わる時間はすごい遅い時間というわけではないが、平日の暗い時間は人が少ない。
そんな帰り道を急ぎ足で歩いていると、信じられない人が目に入る。
「……やっほー」
なんで急にそんな変な挨拶をしてくるのかもわからないし、そもそもなんでここにいるのかわからない。
「なにしてるんですか?」
「紗夜に今日の分早くしてほしくて来ちゃった」
外なのにそんなのお構いなしに顔を近づけてくる彼女の顔を押し返した。
「なにばかなこと言ってるんですか」
「本気にしないでよね」
谷口さんは何を思ったのか少しむっとした後に私の手を引いてきた。
「帰ろ」
いつもより口数の少ない谷口さんに戸惑うものの、早く会えて嬉しい自分がいた。
そして、私は今日もあの家に帰っていいらしい。
いつまで谷口さんのこの手を握っていられるのだろう。
今日までかもしれないし、明日までかもしれないし、一ヶ月後かもしれない。
そうであるなら、私は今のこの時間すらも大切にしなければいけないと彼女を掴む手に力が入っていた。
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