第68話 今日バイトある日だっけ?
「紗夜、一緒に映画見よ」
外はざーざーと雨の音がうるさい。
今日はバイトがなくて良かったと思う。
こんな雨の強い日に外に出たらびしょ濡れだ。
もちろん何もすることはない。
ただ、なにもないからと言って谷口さんと一緒に映画を見る理由もない。
私は谷口さんの言葉を無視して、朝ご飯で使用した食器洗いを続けた。私の行動に納得いかなかったのか、谷口さんが台所まで歩いてきて、隣に並んでくる。
「聞こえてた?」
「聞こえてます」
「なんで無視するの?」
そんなことで頬を膨らます谷口さんは、再会した時とだいぶ印象が変わったと思う。
それが少し面白くて、口角が上がったまま洗い物を続けていると、谷口さんの頬は膨らむ一方だった。
「なんで一緒に見ないといけないんですか?」
「今日なんか予定あるの?」
「ありませんけど」
ないけれど、部屋でゆっくり過ごそうと考えていた。
最近、谷口さんといると考え事が多くなる。だから、今は一人で居たいと思っていた。
美鈴さんに谷口さんのことを色々聞いて以降も美鈴さんはお店に来るけれど、谷口さんの話はしなくなった。
私の態度があからさま過ぎたのかもしれない。ただ、毎回来るたびに視線を感じるようになった。
何を考えているか分からなくて少し不安だ。
それでもバイトを続けると言ったのは自分なので頑張りたいと思う。
「部屋でゆっくり休みいです」
「ソファーで寝てていいからさ、リビングいなよ。ワウちゃんも寂しいってよ」
谷口さんはソファーに寝そべっていたワウちゃんを持って「さびしいよー」なんて言いながら動かしている。
「私、必要ですか?」
谷口さんはその問いには答えず、ワウちゃんがこくりと頷いた。
ワウちゃんが寂しいなら仕方ない。
谷口さんのことはどうでもいいけれど、ワウちゃんのことは大切にしたい。
私は洗い物が終わり、タオルで手を拭いて彼女の元に近づく。
谷口さんはそれに満足したのか私の手を引いてテレビの前に連れてきてくれた。
「何見るんですか?」
「紗夜って何好きとかないの?」
「特にないです」
「じゃあ、ホラー見る?」
「谷口さんがびびって見ないじゃないですか」
「そうだねぇ……」
ふふっと笑い声を漏らしている。こんなくだらない会話で楽しそうな彼女の心境がよくわからない。
谷口さんはそのままスマホから何かを見つけたのか、テレビに映し出した。聞いてみるとアクション映画らしい。
谷口さんってこんなのも見るんだ、と少し驚きではあるが、とても嬉しそうに見ていたのでそのままでいいかと思った。
街を破壊するような戦闘シーンが多く、音がガヤガヤと少しうるさい。ただ、そのうるさい音すらも少し心地よくなって眠気がやってきた。
谷口さんは隣で大人しく座っていたかと思ったが、勝手に私の手を握ってきた。今、手を握る理由もわからないし、谷口さんもなんでそんな行動に出るのかわからない。
ただ、私は今すごく眠かった。
谷口さんの少しだけ冷たい手が心地よくて余計眠くなる。
「紗夜、眠いでしょ」
別に眠そうに頭をこくこくしているわけでも、目を細めているわけでもない。普通に起きているつもりだった。なんで、彼女に眠いのがバレたのかわからない。
私のことが筒抜けなのが嫌で、私はいつものように嘘をついてしまった。
「眠くないです」
「私の肩で寝ていいよ」
「だから眠くないです」
「紗夜は部屋で休む予定だったんだから寝ていいんだからね?」
いつもよりも少し落ち着いたトーンとスピードで話すから、より眠気が増してしまう。
部屋で休もうと思っていたことを知っているのなら、こんな所に私を置かないで欲しい。
寂しいと言っていたワウちゃんは谷口さんの膝の上で大人しくテレビを見ていた。
眠くなって映画に集中できない私より優秀な子だ。
谷口さんの膝の上からワウちゃんを取ろうとすると阻止される。
「ワウちゃん、今日は私の膝の上」
「何子供みたいなこと言ってるんですか」
そのまま私はばっとワウちゃんを取り上げた。
谷口さんはふふっと笑ってそのまま手は離してくれない。そのせいで、私はワウちゃんを片腕でぎゅっとすることしか出来なかった。
ワウちゃんには谷口さんの体温と匂いが残っていて、眠気を強くしていく。
本当は一人で休みたかったのにこんなところに連れてこられるから、体と気持ちが分離しそうな思いになる。
ここに来たばかりの私だったら、彼女の手を払い、彼女の言葉を無視して、ワウちゃんもソファーに投げ捨て部屋に向かっていただろう。
全部、谷口さんのせいだ。
彼女のせいで何もできなくなる。
彼女のせいで私という人間はどんどん形を変えられる。
最初は三角形だった私は今はスライムみたいな状態になっていると思う。
だから、自分で体を支えるのが難しかっただけだ。
私は彼女の肩に頭を乗せた。
高さがちょうど良くて、彼女のふわふわとパーマのかかった栗色の髪からは、ベランダに出た時に感じるお花の香りがする。
呼吸が深くなり、そして浅くなる。
谷口さんは何も言わず、手も離さずテレビを見ていてくれた。
腕からは力が抜け、ワウちゃんがこぼれ落ちた気がしたが、私の意識はもうそこにはなかった。
※※※
前髪を撫でられている感覚がおでこをうろつき、瞼に力を入れた。
どうやら、私の頭はまだ彼女の肩の上にあるらしい。
私はめんどくさかったので、彼女の肩に頭を乗せたまま話した。
「何してるんですか」
「紗夜ってほんと美人だなって顔見てた」
「あほなんですか」
そんなことをスラスラ言える彼女は女慣れしていると思う。
本当は美人と言われて喜ぶべきなのかもしれないけれど、谷口さんは美人じゃない人にもそう言って口説いていそうだ。
目の前の時計の針を見ると私が記憶があるところから三十分以上は経っていた。
そんなに人の頭が肩に乗っかっているなんて疲れるだろうし、なんなら痺れているかもしれない。
それなのに谷口さんは文句も言わず私を肩に乗せてくれる。
谷口さんはいつでも私を甘やかしてくれる。
そのおかげで沢山救われたこともあるくせに、今はそうやって甘やかされるのが少し嫌だった。
いつまで経っても私は彼女に妹のように思われていて、年下だと甘やかされる。
彼女は何も悪くない。
むしろ、いいことをしているのだろうけれど、なんかムカついたので頭を彼女の体の方に押した。
「紗夜、わざと体重かけてるでしょ」
「はい」
何に満足したのか、谷口さんから頭を離した。そういえば、ワウちゃんがどこに行ったか急に心配になり出す。
ワウちゃんは床に転がっているかと思って視線を下に落としたけれど、ワウちゃんは大人しく私の膝の上にいたらしい。
谷口さんの手は離れていなかった。ずっと握っているせいで、私と谷口さんとの合間はぺたぺたとしていた。それでも、そのままでいいと思った私は変わっているのかもしれない。
「谷口さん、今日の分してください」
ただ思い出したからしてもらうだけだ。別にしてもらいたいわけじゃない。
約束だからする。
それが私たちの関係――。
「えー、夜に取っておきたい」
訳の分からないことを彼女が言い出す。別に夜にしたって朝にしたって今したって何も変わらない。だから、私は早く終わらせたいと思ったのだ。
いや……。
「嫌ならいいです」
「いいよ、しよう」
谷口さんが立ち上がるので、私も彼女の目の前に立った。
谷口さんが手を広げるので、私はそこに収まる。いつもはそれだけなのに今日は何故かそれでは満足出来なかった。
多分、美鈴さんと会って色々気を張っていたから疲れていたのだと思う。
彼女の背中に腕を回し、服をぎゅっと握る。
谷口さんの体に少し力が入った気がした。
少しして顔を上げると、少し目線が上の方に谷口さんの綺麗な顔があった。
谷口さんの目は切れ長で少し怖い雰囲気があるが、笑うと目じりにくしゃっとシワが寄ってあどけなさが出る。
谷口さんは私のことを美人だと言うけれど谷口さんの方が美人だと思う。私は彼女の顔に無意識に手が伸びていた。
目尻を撫でると、そこのシワは無くなり、目を見開くせいで今度は皮膚が伸びていた。
そんな彼女を無視して、そのまま、手を顎の近くに置く。
背伸びをして私は彼女の唇に自分のを重ねていた。
触れたい――。
そんな感情が溢れ出した。
谷口さんはこういうことを私としても気持ち悪いと思わないと言った。
だから、谷口さんが悪い。
本当に気持ち悪がられないか確かめたくなった。
全て言い訳なんてわかっている。
ただ、自分にそう言い聞かせるしかなかった。
「今日バイトある日だっけ?」
そんなの聞かないで欲しい。
意味のないこういう行為は悪いことのように感じてしまう。
いや、意味のないこういう行為は悪いことに決まっている。そんなの分かっていた。分かっていたのに体を制御出来ずにはいられなかった。
「明日の分です……」
私は苦し紛れの言い訳をした。じゃないと私が約束を破る人間になってしまう。
「勝手に前倒ししないで」
目の前の女性は不機嫌そうに話し出す。そんな今日したって、明日したって変わらないと思う。ただ、そういうことを谷口さんは酷く嫌う。
「紗夜、目つぶって」
「なんでですか」
「勝手にキスしてきたから紗夜にも言うこと聞いてもらう」
「意味わかんないです……」
私は逃げ出そうとしたけれど、腕を掴まれて逃げれなかった。そして、いつも優しい谷口さんが珍しく腕を強く掴んでいる。
私は自分の行動を酷く後悔した。
谷口さんは目もそらさず真剣に私を見ている。
そのせいで、私の心臓はとくとくと音を立てて、気持ち悪さが増していく。
私はゆっくりとまぶたを下に落とした。
視界が暗くなるとすぐに唇に柔らかく熱い感触を感じる。そうなることなんて分かっていたはずなのに、心臓は驚いた時みたいな動きをしていて体が熱くなっていく。
「ばか……」
「ばかでもなんでもいいけど、これ明日の分とかじゃないから」
そう言うと谷口さんは腕を離してくれた。
私はそこに居たくなくて部屋にこもった。
彼女が触れた唇と掴んでいた腕がじんじんと熱くて、その熱がなんなのか考えても出ない答えを探していた。
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