第67話 これでも我慢してるんだよ――
綺麗な女性がちょいちょいと手招きしている。私はオーダーだと思ってその人の元に向かった。
「紗夜ちゃん、この間ぶりだね」
「この間はどうも……」
別にこの人が谷口さんの元カノだったとしても、何かあるわけじゃない。
そんなことは頭で分かっているし、谷口さんがあんなに心配していたのにバイトを続ける選択をしたのは私だ。
だから、私は仕事をそつなくこなさなければいけない。
ただ、谷口さんの元カノがあまりにも完璧すぎるので、心臓になにか巻き付いている気分になっていた。
こんな素敵な人と生活をしていた谷口さんは、今、私と生活していて嫌だと思ったりしないのだろうか……。
そんなことが気になって仕方ない。
「まさか紗夜ちゃんが和奏の従姉妹だったなんてね! 世の中狭いよね。和奏に変なことされてない?」
美鈴さんはいつも通りだ。
いつも通りなのだけれど、私がいつも通りじゃないのだと思う。
「変なことされてないですよ」
私は苦手な笑顔を作って頑張った。
「え!? 意外だなぁ。和奏がすぐに手を出しそうなくらい紗夜ちゃん可愛いんだけどね」
「谷口さんってすぐ手を出す人なんですか?」
聞いてはいけない。
そんなの分かっている。
ただ、頭でわかっていても聞かずにはいられなかった。
「和奏の周りの人はそう話す人が多かったかな」
相変わらず美鈴さんは笑顔だ。
そんな事実は知りたくなかった。
聞きたくなかった。
自分で知りたいと質問したくせに、その事実を受け止められるだけの余裕はなかった。
そして、そこまで話しを聞いて、やっと、私の理解が追いついた。
この人は谷口さんの元カノなのだ。
だから、谷口さんと恋人らしいことは全てしている。
その事に胸がズキズキと痛み、ここにはもういたくないと頭に自分の声が響いていた。
谷口さんはかわいければ、好きでもない人でも手を出すのだろうか。
そもそも、谷口さんになにもメリットがないのに、なぜ、私とあんなことをしてくれるのだろう。
わからない。
谷口さんと長く一緒にいたつもりだったが、それは一緒にいた時間が長いだけで、彼女を知る努力を何もしてこなかったから、今になってこんなにも大きな悩みになっている。
「まあ、手を出されてなくてよかったよ。そんな学生相手に変な気起こす方もおかしいしね。なにより和奏年上の好きだからね」
先程から悪気のない言葉が私にグサグサと刺さっていた。
谷口さんがキス以上のことをしてこないのはきっと私に魅力がないからなのだろう。
きっと、彼女からみたら私はまだまだ子供で眼中にないのだろう。
谷口さんは美鈴さんのような明るくて優しくて綺麗で大人っぽい人が好きなのだと痛感させられる。
別にそれがどうした。
私には関係ない――。
関係ないはずなのにこの息苦しさはなんなのだろう……。
「紗夜ちゃん、ビール貰っていい?」
「はい……」
私はその場を離れビールを柴崎先輩にお願いした。彼が作ってくれたビールの泡がぶくぶくと消える前に美鈴さんの元に運ぶ。
「紗夜ちゃん、和奏のことで困ったことがあったら相談してね? 三年も一緒だったから割と何でも分かってるつもりだから」
美鈴さんはニッコリと優しく話しかけてくれた。
美鈴さんは悪くない。
ちゃんと私に気を使って優しくしてくれているだけだ。だから、私はちゃんと笑顔でお礼を言わなければいけない。
三年……。
私もそのくらい谷口さんと一緒にいたら、少しは彼女のことを理解できるようになるだろうか……。
ちゃんと顔に力を入れて、力を抜くところは抜いて、笑顔を作るなければいけない。
呼吸の仕方がよく分からなくなっていく。
目の前の美鈴さんはニコニコと私を見てくれていた。
笑顔。
笑顔。
笑顔。
私はバイトが終わるとすぐに店を出て駆け足で家へ向かった。
谷口さんは起きているだろうか。
もしかしたら寝ているかもしれない。
ただ、聞きたいことが沢山あった。
扉を開けてドタバタとリビングに向かうと、ソファーの上でワウちゃんに抱きついている谷口さんがいる。
さっきの美鈴さんの言葉を思い出して、少しだけ怒りの感情が湧き始める。
「紗夜、おかえり」
少し眠そうな顔をしている谷口さんに、こんなことをしてはいけないのかもしれないけど、自分の気持ちを抑えることはできなかった。
私は立ち上がった谷口さんをぎゅっと抱きしめてしまう。
「さ……さよ?!」
何がそんなにびっくりなのか分からないけれど、声が裏返っている谷口さんが少しおかしくて、でも、落ち着いて、さっきのイライラは少しだけ、どこかに溶けていく。
谷口さんを見上げると、そこには予想もしない谷口さんが居た。
いつも余裕そうにニコニコしているくせに、今は頬を赤らめ目を逸らしてこちらを見てくれない。
なんでそんな顔をするのかよく分からない。
でも、もっとよく分からないのは私の気持ちだろう。
「谷口さんが私のこと抱いてくれないのって私がかわいくないからですか?」
「は、はい!?」
今の質問の仕方は間違えていた。しかし、美鈴さんに煽られた私の感情を止めることが出来なかった。
珍しく谷口さんが私から離れようとするので私はぎゅっと彼女に回している腕に力を入れて逃げないようにする。
「どうなんですか? やっぱり私って子供ぽいですか?」
今更、自分の質問を振り返って少しだけ恥ずかしくなる。
谷口さんがかわいい人にすぐ手を出す人なのか聞きたかったはずなのに、今の聞き方ではまるで私が彼女とそういうことがしたいみたいに捉えられてもおかしくない。
私は恥ずかしくなって彼女に顔をうずめた。
「どうなんですか……」
「紗夜って無意識に煽るよね」
「へ……?」
私は顎をぐいっと持ち上げられて抵抗する暇もなく谷口さんにキスを落とされる。
しかも、いつものような優しい谷口さんじゃなかった。谷口さんの熱がすぐに私の口の中を満たし、私たちの熱がじわじわと交わっていく。
呼吸が苦しいのに谷口さんはやめてくれない。
体に力が入らないくらい彼女に乱されると、今度は谷口さんがぎゅっと強く私を抱きしめてきた。
「今のは今日のバイトの日の分だから……。美鈴になんか言われた?」
やはり、彼女は私の変化に鋭いと思う。
私の発言ですぐに誰に釘を刺されたか分かってしまうなんて、谷口さんには敵わない。
「美鈴さんに手を出されてないかって言われました。出されてないって言ったら、谷口さんすぐにかわいい人に手出すのになって言ってたから、私って可愛くないのかなって……」
なんだそれ……。
私は谷口さんにかわいいって思われたいってことなのだろうか……。
いや違う。
谷口さんが私によく「かわいい」と言ってくれるから、その言葉を信じれるか確認しただけだ。それが嘘だったんじゃないか心配になっただけだ。
「それ以外になんか言ってた?」
「年上の女性が好きだって言ってました」
「はぁ……」
谷口さんはそのままソファーに腰かける。私も腕を引かれて腰をかけることになった。
「まずね、私が面食いなのは認めるよ。ただ、かわいいだけじゃ手を出しません。好きな人にしか手は出さない」
「ふーん」
私は少しむくれて彼女を見てしまう。
「美鈴さんと別れてから好きな人居たんですか?」
「いないよ」
「そうですか」
そのことにどこか安堵している自分がいた。
しかし、彼女は少なくとも私よりは経験豊富だ。
谷口さんの私に対する扱いが余裕そうなのは、そういう経験が豊富だからなのかもしれない。
キスもハグも全部いっぱいしてきた人がいて、私はそのうちの一人だと思うと急に胸が苦しくなった。
「あと、年上が好きは完全な嘘だね。ただ、付き合う人は年上が多かっただけだよ」
「ふーん」
「興味無さそうじゃん」
「無いです」
「あーあと……」
「ん……?」
谷口さんが急に私の方に近づいてきて、私は体を抱き寄せられる。今日の分は終わったので、これ以上、谷口さんが私に触れていい理由はないはずだ。
「今日の分、終わりましたよ?」
「散々煽っておいてよく言うよね」
「どういうことですか……?」
彼女の言っていることがよく分からなかった。
谷口さんは私の耳元でなにかしていると思ったら急に右耳にじくりと痛みが広がる。
そのまま、谷口さんの熱い舌が私の耳を這う。
背中にぎゅっと力が入って彼女を離そうとしたけれど、離れてくれない。彼女の吐息としっとりとした声が鼓膜を揺らす。
「これでも我慢してるんだよ――」
それはどういう意味……?
そう聞きたかったけれど、聞けなかった。
谷口さんの熱が離れたはずの耳は今もじんじんと熱かった。その耳を抑えて彼女を睨む。
「谷口さんの変態」
「変態でもなんでもいいけど、今日は私がワウちゃんと寝るから」
谷口さんはそう言ってワウちゃんを持っていこうとするので私はそれを阻止した。
「ワウちゃんと寝るのは私が担当です」
「それ、当番制にしよう?」
「いやです」
「じゃあ、紗夜も私の部屋で一緒寝ればいいじゃん」
「谷口さん何するか分からないから嫌だ」
「随分疑われてるなぁ、私……」
疑っているわけじゃない。
美鈴さんから話を聞いても、谷口さんから話を聞いても私の谷口さんに対するイメージは変わらなかった。
きっと、谷口さんは優しいし真面目な人だ。
ちゃんと愛した人を大切にするということもわかっている。
そんな人現れないで欲しい――。
「今日だけは譲ります」
「ありがとう」
そう言うと谷口さんは満足そうな顔をして部屋に行ってしまった。
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