第66話 これからもそばに居させてください――


「私は……」

 

 私が言葉に詰まっていると、谷口さんがばたばたとトイレに行ってしまった。


「それで――?」

 

 心春さんは谷口さんなんておかまいなしに質問を続けてくる。この人はよく分からない人だ。ただ、悪い人ではないと思う。


「谷口さんには申し訳ないですけど、ずっとあの家に帰りたい。最近、そんな欲張りな考えが生まれるようになりました……」

「うんうん。それはどうして?」


 心春さんは優しく微笑んで話を聞いてくれる。


 彼女から滲み出る優しさに、誰にも話せない悩みを打ち解けでもいいだろうか……。


 そんな誘惑が辺りに漂う。


「谷口さんに言わないでいてくれますか?」

「もちろん」


 信じられるかわからない人だけれども、なぜかいろいろ話すことを止められない人だった。


「私、今まで帰る家がほとんど無かったんです。いや、家はあるんですけど、安心して帰れる家がなくて……」

「うんうん」

「帰っても母が帰ってこない家に独りか、知り合いの家に預けられてる時は常に気が休まらない状態でした。それで、母のことを恨んでいるとかそういうことではないんですけど、自分にとって“家”は落ち着かない場所のイメージだったんです……」

「うんうん」

 

 心春さんは上手く伝えられているかも分からない私の言葉をいつまでも優しく聞いてくれていた。


「谷口さんのいる家は私が初めて毎日帰りたいと思う家になりました。帰ったら谷口さんが出迎えてくれる。私の方が早く帰った時は谷口さんが帰ってくるのを待つ。谷口さんはどんなに遅くても帰ってこない日はありませんでした。そのことが私にとっては幸せなんです」


 言い終わってからかなり恥ずかしいことを口にしていたと思い、心春さんを見ると、酔っているのか目はとろんとしていて、私を包み込むように見てくれていた。


「ほんと、和奏って温かい人だよね――」


 私はその言葉にコクリと頷いた。

 

 谷口さんはあまりにも温かすぎる。

 

 まるでお日様のような人だと思う。

 

 そんな人がいなくなってしまったら、私はこれから先ずっと氷河期を迎えてしまうのではないかと思うほど素敵な人だと思う。


「紗夜ちゃんは和奏のこと好き?」

「……はい」

「それはさ人として?」

「……」


 もちろん、人として谷口さんのことは好きだ。

 ただ、この気持ちはもっと違う気がする。



「ごめんごめん。ただね、和奏の親友の私から一つだけ言えること伝えておくね」

「はい……?」

「和奏、今まで私が見てきた中で今が一番幸せそうだよ。だから、ありがとう――」

 

 私はその言葉に驚きを隠せなかった。心春さんにお礼を言われることなんて一つもしていない。


 心春さんは頬を赤らめて微笑んでいた。


 それはお酒のせいなのかなんなのかわからないけれど、心春さんと話して思ったことは、改めて、この人は谷口さんの親友なのだと感じた。


 谷口さんのように温かく素敵な人だ。


 

 心春さんは小指を私に差し出してきた。


 私が不思議そうに小指を見つめていると、また嬉しそうに彼女は微笑んでいた。


「私の今言ったこと恥ずかしいから和奏に言わないでね? 紗夜ちゃんが言ってたことも秘密にする。その指切りだよ」

 

 年齢なんか気にしていないけれど、私より何個も上の人が小指を出して指切りをしようとしているその様子が微笑ましく思えた。そして心がじわじわと温かくなっていく。


 私は小指を彼女の小指に絡めた。


 こんなこと絶対にできなかったはずなのに、今はできるようになった。

 

 こんな素直に話すことも、今日初めてちゃんと話す人とこんな深い話ができるようになったのも信じられない。


 全て、谷口さんのおかげだ。


 彼女は真っ暗でどこにいるかもわからなかった私のことを引っ張り出してくれた。


 光のある世界に出ることが怖いと嘆き、自分の恐怖を誤魔化すために、散々ひどいことをしてもすべてを受け止めてくれた。


 感謝しても足りない。


 どうしたらこの感謝を伝えられるだろう。


 どうしたらこの気持ちの恩返しをできるだろう。


 常に彼女のことで悩み、迷ってしまうくらい私は彼女に感謝している。


 そして、私にとって必要で大切な存在になってしまっている。



 今日、心春さんと話せてよかった。

 自分のモヤモヤとした気持ちが少しずつ晴れている気がした。


 やはり、私はまだまだ子供で大人に助けてもらって生きているのだと痛感してしまう。


 一人では立ち上がれなかった私は多くの人に支えられてここにいる。


 次は私が支えたい。


 

 一番支えたい人が帰ってきた。

 

 何やら不満そうな顔をして私と心春さんの小指を離してくる。何が不満なのか「もう帰る」とも言い出した。そんなよく分からないけれど不機嫌そうな彼女もいいなと思ったりする。



「これからもそばに居させてください――」


 彼女には聞こえないくらいの小さな声で伝えて、私は氷の溶けて味の薄くなった烏龍茶を口に流し込んだ。 

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