第63話 紗夜が大切だから他に何もいらない
話はゴールデンウィークに遡る――。
「それで話って何?」
「そんな怖い顔しないでよ」
目の前のアッシュグレーの綺麗な髪を
「和奏は元気だった?」
「それは嫌味?」
「そんなトゲトゲしないでよ。久々に会えて嬉しいんだから」
カフェで話をする約束をしていて、向かいに座っている大人っぽい女性はその細く白い手を私の手に重ねてきた。
「もうやめなよ。そういう関係じゃないんだから」
「つれないの」
目の前の女性は諦めたようで、手を離してくれた。大した用事もないのに呼び出したのかと思うと、少しばかり怒りの感情が芽生えてしまう。早く話を終わらせて帰ろうと思った。
「それで、なんの話があるの?」
「んーとね……」
美鈴が話そうとすると、タイミングよく頼んだデザートとコーヒーが到着する。私の前に出されたフルーツタルトからはいつも感じる鮮やかさを感じられなかった。
「和奏、昔からブラックコーヒーとフルーツタルトの組み合わせ好きだよね」
「そんな人は変わりません」
「そういうことらしい」
「は?」
彼女が何を言っているのか全然理解できない。美鈴がどうしてもと言うから会うことにしたが、どうやら私の考えは甘かったようだ。
「だから、あなたとよりを戻したいってこと」
「は……?」
今更何を言っているのだろう。
そもそも、なぜ私が振られたかもしっかり教えてもらってないのだから、彼女のその自由奔放な行動は理解できなかった。
「今更無理だよ」
理由は単純だ。
もう私が彼女に対して恋愛感情を抱いていないからだ。
今日会ってよくわかった。
前に感じていた胸のときめきはどこに行ったのだろうかと思うくらい何も感じない。
なにより、今は誰よりも紗夜のことを大切にしたいと思う。なぜここまでこの気持ちが大きくなったかは自分でもよくわかっていない。
ただ、紗夜が安心して帰れる場所を作りたい。そして、私が家に帰ったら紗夜に家にいて欲しいと思う。
「もう一回やり直せない?」
「もう恋愛感情はない」
私は甘くて美味しいフルーツタルトを口に運びながら淡々と告げる。
紗夜はもう他の誰にも埋められない相手になってしまった。自分の中でも怖いくらい、今は彼女の存在が大きい。
美鈴に対してかなり冷たい態度を取っているはずなのに、彼女の話は鳴り止まなかった。
「じゃあ、恋愛感情なくていいから、あの家でルームシェアしようよ。前は生活費とか全部出してもらってたけど、和奏と別れてから色々考えて本気で働くようになったの」
「無理だよ。なにより、恋人できたって言ってたじゃん」
「それは……」
美鈴はすごく難しい顔をしている。彼女の辛そうな顔を見ても何も思わなくなってしまったなんて、私はだいぶ変わったのかもしれない。
美鈴は少し考えた後に大きく深呼吸をして話を続けていた。
「和奏が仕事ばっかりで寂しかった。だから、私が居なくなって私の大切さに気がついて欲しかった」
「はぁ……」
確かに私は仕事ばかりしていたかもしれないけれど、それは彼女と暮らすために全て頑張っていたことだ。
それ以上なにか彼女にできたかと言われると、あの時の私にできることは全てやっていたと思う。
「もう、和奏一人に負担をかけることはしないから……お願い」
「一緒に暮らしてる人がいるの」
「えっ……」
「だから、美鈴とはもう暮らせない」
そう告げると目の前の女性は急に暗い顔になっていく。しかし、切れ長な唇の間から出る声はどこか怒りを感じるような声だった。
「それって誰?」
「従姉妹預かってるの」
「いつまで」
「わかんない」
「それが終わっても無理なの?」
「そうだね。その子が居なくなっても美鈴とはもう暮らす気持ちはないかな」
私はフルーツタルトの最後の一口を口の中に入れてブラックコーヒーを流し込んだ。
せっかく甘くて幸せだった口の中に、苦味が広がっていく。
ただ、この苦さが癖になったりもする。
まるで今の紗夜との生活みたいだ。
甘かったり苦かったり楽しかったり悲しかったり――。
そんな毎日が今は幸せだ。
だから、この生活を離したくない。
「そっか……」
目の前の女性の酷く悲しい顔を見て胸が少しばかり痛んだ。
しかし、これは私が決めた道だ。
美鈴と別れる時は美鈴が全て決めて出て行った。あの時、私に彼女を止める選択権も何も無かった。
今は違う。
私は紗夜と暮らしたい。
あの子を幸せにしたい。
今はちゃんと自分のしたいことを選べる。
「あと、話したいことはない?」
「うん……」
「幸せになってね――」
私はそのまま二人分のお金を置いてカフェを出た。
※※※
さっきから紗夜はずっと黙ったままワウちゃんを離さないでいる。たまにワウちゃんに顔をうずめては、ひょこっと顔の半分を現す。
そんなかわいい少女が濡れないように、傘を彼女の方に寄せた。
「谷口さんって面食いなんですね」
知らない間に隣で静かに歩いていた少女はむっとした表情でこちらを見ていたらしい。
「んーそうかもだけど、ちゃんと性格で好きになるよ?」
ちょっと痛いところを突かれたけれど、嘘は言っていない。相変わらずむっとしたままの彼女が少し愛おしくて、私の顔は確実に緩んでいただろう。
「どんな性格が好きなんですか?」
「私のこと一途に愛してくれて隣に居てくれる人かな」
「それ、前も言ってましたよね。好きなら当たり前じゃないですか」
「若いね」
これは嫌味でもなんでもない。私も若い時はそう思ってた。しかし、周りの状況や色々なしがらみがあって、好きだけでは上手くいかないこともあるのだ。
いつも、私が答えてばかりで紗夜のことは何も教えてくれない。そんなのはずるいと思った。
「じゃあ、紗夜が好きになる人はどんな人なの? 前付き合ってた人のこと、教えてくれたことないじゃん」
少し強い口調で聞くと紗夜は黙ってしまった。
そのまま沈黙の時間が流れ、雨がざーざーと降るなか、私たちの家に着く。
それ以降は特に何も会話は無かった。
私たちはいつもの生活をする。いつもどおりのはずなのに、紗夜はどこか様子がおかしかった。
お風呂から上がるとソファーの上でワウちゃんを抱きしめている。私は紗夜が逃げないようにそっとゆっくりと彼女の横に腰を下ろした。
「気に入ってもらえてよかったよ。私にも貸して?」
「だめです」
「独り占めするの?」
私が彼女を笑顔にするために取ったぬいぐるみだけれど、紗夜を独占されるとは思っていなかったので口にむっと力が入る。
「じゃあ、今日の分しようよ」
なんとかワウちゃんから紗夜を離す方法を考えると、この方法は上手くいったらしい。
紗夜はソファーに大人しくワウちゃんを置いた。
いつもなら、お互い立ち上がりぎゅっと彼女を抱きしめて終わりなのだが、今日は違うらしい。
紗夜が急に私の太ももの上に乗っかってくる。
「さ、よ……?」
急な出来事に私の心臓はおかしな動きを始めた。
「早く今日の分してくださいよ」
このまま……?
こんな良くない状態、私がおかしくなりそうだった。
しかし、そんな動揺を悟られないようにしなければいけない。
私はそのまま彼女を抱きしめると、同じくらいの強さで抱きしめられた。
心臓はどくどくと音を立てて、音は大きくなる一方だ。その音が聞かれるのではないかと心配になり、紗夜を離そうとするけど離れてくれなかった。
耳元に紗夜の生暖かい吐息が当たり、弱々しい声が鼓膜に響く。
「私、中学生の頃に女の子と付き合ってました――」
「えっ……?」
初めて知る事実だ――。
そして、それが本当ならば、女の人が苦手になってしまったのは、その子が原因なのではないかと勝手に決めつけてしまった。
淡々と話していた紗夜の体は小刻みに震えていたので、彼女が落ち着くように優しく背中を摩る。
その子とどうだったのか。
なんで別れたのか。
何があったのか。
聞きたいことが山ほどある。
しかし、これ以上探れば、彼女を苦しめると思ったので聞くのは辞めた。
今ではない気がしたのだ。
「話してくれてありがとう――」
私はそっと紗夜の頭を撫でると、紗夜は顔を上げて私を真っ直ぐに見つめてくる。
「谷口さん……」
「どうしたの?」
「私、この家に居ちゃダメですか?」
「どうして?」
急に変なことを言い出すので、いつもの私らしくないあまりにも真面目なトーンで話していたと思う。
「前、映画見てる時、美鈴さんから会いたいって連絡来てましたよね……? その時はまさかバイト先の美鈴さんだとは思ってなかったですけど……」
よくそんなことを覚えているなと思う。
そして、紗夜は私が美鈴とよりを戻して、紗夜をこの家から追い出すんじゃないかと思っているらしい。
ちゃんと自分のことを話してくれた紗夜には、美鈴と会った時のことを話すべきだと思った。
「あのね、前に美鈴とは会ったよ」
「えっ……」
「その時、伝えた。よりを戻す気もないし、一緒にも暮らさないって」
「いいんですか……? 谷口さん別れた時めっちゃショック受けてたじゃないですか」
あんな仲の悪い時でも伝わるくらい、私はショックを受けているように見えたらしい。そんな自分を少し情けなく思った。
「あの時はショックだったけど、自分の気持ちに蹴りを付けたよ。なにより……」
「なにより……?」
この先の言葉は言っていいのか分からない。
それは紗夜にも私にも呪いのような言葉になってしまいそうだったからだ。
私たちはただ一緒の家に暮らす従姉妹だ。
それ以上もそれ以下でもない。
そんな私たちに今のこの気持ちを伝えていいのか分からなかった。
ただ、紗夜に少しでも私のことを知って欲しいと思う。
「紗夜が大切だから他に何もいらない」
「それはなんっ……」
もうそれ以上は聞かれたくなかった。
だから、悪い口を塞いだだけだ。
紗夜はいつもみたいに反撃はしてこないで大人しくしている。
こんな自分が最低で嫌いになる。
ただそれでも、紗夜を離したくはなかった。
紗夜は少し頬を赤らめ、私の肩をぐっと押してくる。少し眉間に力が入っているように見えた。
「谷口さんは私とこういうことして気持ち悪いって思わないんですか?」
「思ってたら、あんなにたくさん拒否られてるのにしないよ」
あんなに嫌がられていたのに、無理やりこういうことをしてきたのは私だ。どんな理由があっても、良くないことであったのは確かだ。
私の中の何の欲望がそんなに自分を駆り立てるのか分からない。このことについて、あまり考えたくない。
今はそんな自分の感情よりも新たな不安要素ができてしまった。
「紗夜……今のバイト先やめなよ」
私は彼女の肩におでこを乗せた。
バイト先に美鈴が来ることも不安だし、なにより、紗夜が知らないところで何をしているのか不安だった。
「バイトはやめません」
「なんで? 美鈴になんかされるかもよ」
「美鈴さんは谷口さんの元カノなんですよね? だったらそんなことする人じゃないと思います」
そんなことない。
人間は何をするかなんて分からない。
紗夜の人を信じる性格は素敵なところではあるけれど、きっと彼女を苦しめる原因にもなるだろう。
また、彼女が傷つきそうで怖かった。
それこそ、彼女に一生治らないような傷が付いてしまったら、私は自分のことをどんなに戒めても気がすまなくなりそうだ。
「じゃあ、せめてバイト先教えて」
「いやです」
「なんでよ……」
なんで私には教えてくれないのだろう。
それを知るだけでも私はだいぶ安心感が違う。
「私ってそんな信頼できない……?」
「……」
私は無意識に彼女を強く抱き締めていたらしい。
私の頭に温かい手がぽんと乗っかるので、紗夜の顔を見上げると、珍しく優しい顔で微笑んでいる気がした。
「松林屋という居酒屋で働いてます。絶対にバイト先に来ないでくださいね」
「なんで私に来て欲しくないの?」
「バイト姿見られるの嫌なのと……」
「と……?」
「教えません」
紗夜はそのままびーっと頬を左右に引っ張ってくる。本気で引っ張るのでかなり痛い。痛くて少し涙目に彼女を睨みつけていた。
「ふふっ。谷口さん変な顔」
変な顔にしたのは紗夜なのに楽しそうに笑っていた。でも、彼女が笑顔ならそれでいいかと思った。
やっと増えてきたこの笑顔をもっと増やしたい……。
「もう寝ますね」
紗夜は私の太ももから降りてしまう。心地よかった体温がなくなり、酷く寂しさを伴う。
その寂しさを紛らわすように、ソファーの上のワウちゃんと名付けたカワウソを取ろうとすると、先に紗夜に取られてしまった。
「今日は私がワウちゃんと寝ます」
「それ、ソファーの主だからここに置いて?」
私なんて紗夜と一緒に寝ることをほとんど許してもらえないのに、今日来たばかりのワウちゃんは許してもらえるのはおかしいと思う。
「独りは寂しいと思うので、ワウちゃんは私の部屋連れていきます」
「じゃあ、私と三人で寝ようよ」
「なんでですか?」
私も寂しいから……。
なんて言える訳もなく紗夜の手を離してしまった。紗夜は首を傾げたまま部屋に向かってしまう。
そんな彼女の背中を見送り、私はソファーに腰かけて、無意識にアンクレットに触れていた。
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