第61話 私の好みよくわかってるね
「ちょっと遠目のショッピングモールと家電屋に行こう?」
谷口さんは卵を溶きながら私に話しかけてくる。
私はほうれん草を包丁で切っている時だったので、あまり話しかけないでほしかった。作業する手を止めて、彼女を見つめる。
「なんでですか?」
「紗夜と買い物行きたい。エアコンの効きが最近悪くて、夏来る前に買い替えようかなって思ってるの。この家のことだから、紗夜も関係あるでしょ?」
やたらニコニコしている谷口さんは卑怯だ。そんなことを言われたら、私が嫌だと言えないことを知っているのだろう。
私も私でどうかしている。
谷口さんに“この家のことは私も関係ある”と言われて嬉しいと思っているのだから。
「今日だけですよ」
私はザクザクと茹でたほうれん草を包丁で均等に切り始める。あとは盛り付けて、かつお節と醤油をかけるだけで、おひたしの完成だ。
谷口さんは少し高めの小声で「やったぁ」と言っていた。
今日から梅雨入りする予報だった気がする。今日も湿度が高く、私のやる気を少しずつ削ってくる。
私の出来るご飯の準備が終わり、谷口さんの足の方に目線を落とすと、私の胸がとくとくと喜び始める。
谷口さんは誕生日以降、ずっと私のあげたものを着けてくれている。「いらない」と外される日が来るんじゃないかと心配だが、今日もちゃんと着いていた。
「卵焼き、お願いしてもいい?」
谷口さんは溶いた卵の入ったボールを私に差し出してくる。こうやって少しずつ作れる料理を増やしている。
谷口さんがこの家に居ていいと言うから、料理の負担くらいは減らしたいと思っているのだ。
「やります――」
私は彼女の指示通りに動いているだけなのに、なかなか上手くいかないことが多い。それでも谷口さんはため息をついたり、嫌そうな顔をしたりはしない。だから、こういうことにはだいぶ緊張しないで挑戦できるようになった。
熱の通ったフライパンに卵を流し込む。うまく形を整えて、少し固まった黄色いものを綺麗に丁寧に巻いていく。
火の入れ加減と時間はだいぶ感覚的なものに頼らなければいけないのだけれど、谷口さんはかなり半熟に近い固さを好むので、このくらいかな、というタイミングでお皿に卵焼きを乗せた。
台所に立つことすらなかった私が、一年でここまで変わってしまうなんて、隣にいる人の凄さを痛感する。
長方形に整った卵焼きに切り込みをいれるとブワッと卵が溢れ出した。
「あっ……」
火の通りが甘かった。外側はうまく形を保っているが、中心に向かってドロドロと形を保てないくらいに柔らかい状態だった。
「ごめんな……」
「うん。私の好みよくわかってるね」
谷口さんは私の謝罪を遮り、まだ食卓に出していない卵焼きを箸ですくって口に運び、おいしそうにもぐもぐと頬張っている。
私の作った歪な卵焼きは彼女の喉をゴクリという音と共に通っていった。
「ほんと上手になったね」
よしよしと頭を撫でられる。
いつも私の惨めな気持ちを救ってくれる谷口さんはずるいと思う。そして、こんな簡単なこともできなかった自分が少し嫌になった。
次はちゃんと彼女の一番好きな形に仕上げたい。
私が自分に納得していなかったのが伝わったのか、谷口さんはもう一口卵焼きを口に運ぼうとするので、彼女の悪い手を掴んだ。
「行儀悪いですよ」
私は谷口さんから遠ざけるように不格好な卵焼きを食卓に並べた。
「それなら温かいうちに食べないとね」
急ぐ必要もないのに谷口さんは魚をグリルで焼いて、玄米と味噌汁を盛り付けていた。せっかく、私の下手な卵焼きから谷口さんを遠ざけたのに、彼女はすぐに近づいてくる。
「「いただきます」」
目の前の女性はいつも「野菜から食べて」とうるさいくせに、自分は卵焼きに手を伸ばしていた。
そのことが私の胸をおかしな動きにさせる。まるで、私みたいに不格好な卵焼きが彼女の体の中に消えていく。
「おいしいね」
そんな笑顔でこちらを見ないでほしいと思った。何がそんなに彼女を笑顔にするかも分からない。
「谷口さんが作る方がおいしいです……」
「それは嬉しいなぁ」
ふふっと嬉しい時のトーンの笑い声をこぼして彼女は食事を続けていた。
私にとっては頑張って絞り出した一言なのに、谷口さんにとってはなんでもなかった一言のようにいつも返されてしまう。
「ご飯食べ終わったらすぐ出かけるよ」
そう言って彼女はそそくさと片付けを始めてしまう。しかし、その後姿はどこか幸せそうだった。
私は自分の部屋で私服を着ていると、とんとんとドアの方から音が鳴る。
「なんですか?」
谷口さんは扉を開けて話せばいいのに、私の部屋の扉を勝手に開けることはしない。私だって扉を開けて話せばいいのに、私達はそのまま会話を続けた。
「中入っていい?」
「なんでですか?」
「メイクしてあげるよ」
「自分でできます」
「えー、じゃあリップだけ塗らせて」
「なんでですか」
「この前、塗ってもらったお礼」
「はぁ……」
「そんなあからさまに嫌がらないの」
私がそんなに嫌じゃないというのがわかったのか、彼女は勝手に扉を開いた。
目の前には手にリップを握った準備万端の谷口さんがいて、私は勝手にベットの上に座らせられる。
「それくらい自分でできます」
「いいから大人しくしてて」
私の顎を勝手に持ち上げると、谷口さんの淡麗な顔が思ったよりも近くにあって、何故かドキドキした。
「目つぶって?」
「目つぶる必要なくないですか?」
「紗夜に見られてると緊張するから」
「嘘つかないでください」
「ほんとだよ。塗り終わるまで目開けないでね?」
谷口さんがあまりにも真剣な目で見つめるので、私はその瞳に吸い込まれるのが嫌で、目をつぶった。
唇に何かが当たるが、それは私がいつもリップを塗る時に感じる感覚ではなかった。
目を開けて彼女を睨むと「塗り終わるまで開けないでって言ったよ」なんて嬉しそうに言われる。
「谷口さんの変態」
「リップ塗る前だったらいいかなって思った」
「谷口さんのばか」
少し前に谷口さんにリップを塗った時、キスをしてほしくないからリップを塗って、彼女が何もできないようにした。
それを覚えていてそんな発言をしているのだろう。しかし、今日はバイトもないのでキスを勝手にしていい理由にはならない。
「今日バイトないですよ。勝手にそういうことしないでください」
「ごめんごめん。次はちゃんと塗るから」
谷口さんは反省しているのかわからないトーンで謝罪し、すぐに私の唇に優しくリップを伸ばした。それはさっき私が感じた感覚よりも固くて、ベタベタしていて、少し不快にすら感じてしまう。
谷口さんは私にリップを塗った後に鏡を見ながらそのリップを自分の唇にも塗っていた。
薄紅色だった彼女の唇は薄ピンクの桜色のようになっている。それが美しくて目が離せなくなっていた。
私は無意識に自分の唇に手を伸ばしたが、ピタリと動きを止める。
私にも彼女の唇に塗られた鮮やかな色が乗っかっているのだろうか。
そうだったらいいなと思って谷口さんの顔を見つめていた。
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