第58話 どっちの足がいいですか?
どうやら、紗夜はかなり疲れてしまったらしい。長いまつ毛を下に降り注ぎ、重力にしばらくは逆らえなさそうだ。
車にゆらゆらと揺れる少女のそういう顔も見れて嬉しいと思う。
初めて家に来た日なんてすごい顔をしていた。誰も寄せ付けないし、誰にも近寄らない。近くにいても絶対に心を開かない、関わらないといった少女が今はお腹丸出しで警戒していない状態だ。
そのことをえらく嬉しく思う。
今日は彼女にたくさんの気持ちをもらった。紗夜はそんなつもりはないのだろうけれど、勝手にプレゼントだと思うことにした。
車を止めるとすやすやと寝ていた少女の目がゆっくりと開く。
「ごめんなさい。寝てて……」
「大丈夫だよ。お昼過ぎちゃったね。もう少し我慢できるなら夜ご飯とまとめちゃうけど。どうする?」
「まとめてでお願いします。谷口さんって好きな食べ物とかありますか?」
「好きな食べ物かぁ……」
私は顎に手を当てて考えた。今まで誰かに喜んで欲しくて何かを作ってばかりだったので、自分の好きな食べ物と言われると、なかなか思いつかなくなってしまう。
車を一度停めやすい駐車場に止めたが、私はハンドルを握りっぱなしのまま考えていた。
「紗夜と食べれるものなら……」
「そういうのいいから真剣に答えて――」
私の手首がぎゅっと握られる。隣を見るとやたら真剣な顔をした少女がいた。紗夜は真剣になると敬語を忘れるという謎な行動を取る。
なにがそんなに気に食わないのかわからないけれど、彼女の質問に真剣に答えないと、今以上に不機嫌になってしまう気がしたので、私は頭を巡らせた。
なぜか、考えている間に私の腕を掴む力はどんどんと強くなる。
「今まで意識したことないから、あんまりないのかも。なんでも食べる。強いて言うなら麺類が好き」
「そうですか……」
聞いてきた割に微妙な反応だ。いつの間にか腕は熱から解放されていた。
紗夜が麺類の話を私にさせるから私は無性に焼きそばが食べたくなった。
「今日、焼きそばにしよっか」
「はい……」
私はスーパーに車を走らせ買い物に向かう。買い物の途中、紗夜は無言で荷物持ちをしてくれた。
家に着いたら急いで調理を始める。焼きそばというのはとても作るのが簡単で、フライパンに油を敷き豚肉とキャベツとピーマンともやしをざく切りにしたものと麺を蒸して最後にソースの粉を和えれば完成だ。
野菜を切るのを手伝ってくれた紗夜は隣でずっとその過程を見ていた。
「これなら作れそうでしょ? 今度作ってよ」
私は冗談で言ってみた。紗夜が作ったものはどんなに失敗しても焦げていても腐っていても私の栄養になる。多分、彼女が初めて一人で料理なんか作った日には冷凍して一生とっておく気がする。
「今度練習してみます」
「え?」
紗夜はこっちを向いてくれなくて、そそくさと夜ご飯の準備を始めてしまう。そんな少女の向いに座ってご飯を食べ始めようとすると声をかけられる。
「……あの、谷口さん……」
「どうしたの?」
ここまで挙動不審な彼女は初めて見た。その行動が少しだけおかしくてつい笑みが零れてしまう。
「今日って早く寝ますか?」
何を意図してそんなことを聞いて来るのか分からない。ただ、そんなことを言われたら一緒にいる時間が長く出来るんじゃないか、なんて変な期待をして早く寝れなくなってしまう。
「起きてるよ。どうかしたの?」
「一緒に映画かなんか見ません?」
私はあまりの出来事に口を閉じることができなかった。
なんて言った――?
紗夜が一緒に映画を見たいなんて明日は雪でも降るのだろうか。ここ近年はたしかに異常気象が続いている。雪が降ってもおかしくないのかもしれない。
こんな私の卑しい心情を悟られないようにすぐに顔を作り問いかける。
「何みたい?」
なんでそんなこと言ってくれたのかとか、そんなに私と一緒にいたいのかとか聞いたら、しばらく口を利いてもらえなくなるなるだろう。私は彼女の機嫌を損ねない言葉を選ぼうと真剣になる。
「なんでもいいです。後片付けするので座っててください」
今日の彼女はずっとおかしい。おかしすぎる。何があったのか聞きたいけれど聞けない。彼女の行動がわからなくて、胃がきゅるきゅると音を立て始める。
私は紗夜が片付けをしている間にお風呂に入ることにした。当たり前だけれど、先程、海に浸かったせいでベタベタとしていた海水は付いていない。
そんなの付いていたら気持ち悪いはずなのに、紗夜があんな表情で海の水をかけてくるから、洗い流さなければよかったと思った。
彼女はほんとうにずるい。
あんな美貌と性格の持ち主ではたくさんの人が虜になり、たくさんの人が苦しむだろう。
そんなくだらないことをお風呂でぶくぶくと考えていた。
私がお風呂から上がると、紗夜も急いでお風呂に入っていつもより早いスピードで上がってくるので、彼女の髪からはぽたぽたと水が滴り落ちていた。
「ちゃんと拭いてこないと風邪ひくよ」
私は紗夜の肩にかかっているバスタオルで彼女の頭を優しく撫でた。いつもなら抵抗する猫が今日は何も言わず大人しく拭かれている。
日中遊んだことでそんなに疲れたのだろうか。
「髪乾かそうか?」
そういうと何も言わず顔を上げて私を見つめてくる。それだけのことに心臓が変な脈を打ち始めた。
彼女はこくりと頷き、私の手にドライヤーを渡してきた。その行動に自分の胸の中に何かがくっついて取れなくなった感覚になる。
ソファーに腰を下ろさせて彼女の髪をそっと撫でた。濡れているのに綺麗だと分かるその髪は乾燥するとより艶を放つ。優しく頭を撫でるように乾かした。
こちらから紗夜の顔は見えない。
なんの顔もしていないのだろうけれど、紗夜は今どんな顔をしているのだろう。
そんなことが気になった。
「乾かし終わったよ」
「ありがとうございます……」
「この映画おすすめ」
私はスマホの映画をテレビにミラーリングする。
一時間くらいだろうか。彼女は無言で隣で大人しく映画を見ていた。あまりに大人しいので、ふと横を見るとその顔はあまりにも眠そうだった。
「もう寝よっか」
「いやです」
さっきまで下まぶたにつきそうだった上まぶたがパチリと開く。
「眠いでしょ」
「はい……でも、もう少しだけ」
紗夜はそのまま頭を私の肩に預けてくる。その事実に私の心臓は胸の肉を
なにか声をかけなければいけないのに何も思い浮かばなかった。
私の肩は少し上下に動く紗夜の動きを感じている。ただ呼吸をしているだけなのか、寝ているのかこちらからは見えない。見たいけれど動いたら寝ていた場合起こしてしまうだろう。
紗夜が文句をいう子じゃなかったら頭を撫でたい。そう思わされる行動だ。
私にかまわず映画はどんどんと進んでいく。せっかくの面白いシーンも紗夜に感想を聞きたかったのに話しかけていいかすら分からない。
「紗夜……」
彼女の名前を呼ぶことを我慢することはできなかったらしい。
返事はない。
私は安心して彼女の頭を撫でるとその手をぎゅっと掴まれる。
「変なことしないでください」
「何もしてないじゃん」
何もしていない。ただ、紗夜に触れたかっただけだ……。いや、彼女の手触りのいい髪の毛を触りたかっただけだ。
映画はもう終わる。結局、寝ていたのか起きていたのかわからないから感想も聞けない。
映画も見終わり、私もだいぶ眠くなっていた。
そろそろ寝ようかな、なんて思っていたら私に寄りかかっていた重みがなくなる。
「谷口さん……」
「ん?」
「これ……」
私は彼女から紙袋を渡された。
「なにこれ?」
「うるさいです。もう寝ます。おやすみなさい」
「まっ! まって!」
私はあまりに焦りすぎて彼女の腕を思ったよりも強く掴んでしまった。一気に上がった心拍数を下げるように呼吸を繰り返し、彼女に語り掛ける。
「開けていい?」
「お好きにどうぞ」
「ここに居てよ」
私はぎゅうっと彼女の腕を彼女がいつもするみたいに爪を立てて掴んだ。そうしないと紗夜が逃げてしまいそうだったからそうした。
「痛いです」
「ここに居てくれるって約束するなら離す」
「……」
紗夜は諦めたのかソファーに座ったので、私は彼女の腕を離した。私が爪を立てていた場所が赤く凹んでいた。
私は恐る恐る中の箱を開けると、中からはシルバーのアクセサリーのようなものが出てきた。
ブレスレットにしては少し大きすぎる気がするけどサイズ間違えだろうか。
「これ、ブレスレット?」
「違います」
「どこにつけるやつ?」
「――足」
なるほどと思った。そして、彼女が何を思ってこれを私に渡してきたのか全く分からない。私はアクセサリーのつける場所の意味を意識して体に身につけているのでよく分かるがこれは……。
「紗夜が付けてよ」
私が紗夜の手にアンクレットを置くと、紗夜はため息を大きくついてソファーから降りて床に膝を着いていた。
「どっちの足がいいですか?」
それは意味をわかって聞いているのだろうか。いや、きっとこの子は意味なんて分からないで私に渡しているのだろう。
「紗夜が選んで」
「注文が多いです」
「いいじゃん」
私はそう言って両足を彼女の方に向けた。紗夜は私の足ばかりに目を向けてこちらを見てくれない。それを望んだはずなのに望まない矛盾した自分がいる。
紗夜のひんやりと冷たい手が私の熱のこもった足に触れるから、背中にぞわりとした感覚が走る。彼女の手よりもひんやりとしたものが私の足につけられた。それはとてもきれいで残酷なまでに鮮やかだ。
私はどうやら彼女に鎖をつながれてしまったらしい。それは普通なら嫌がるべきことで拒否することなのだろうけれど、それでもいいと思った。
紗夜から見て右足についたそれを眺めていた。それはさっきドロドロと纏わりついた海水のように洗い流したりはできない。自分で外す気はないので、彼女が外してくれないかぎりは私の足についたままだ。
「これ、どうしてくれたの?」
そういうと紗夜は何を思ったのか上目遣いで睨んでくる。彼女が何を思ってそれを選び、私の左足首に付けたのかわからない。きっと理由なんてない。それでも私の納得する理由が欲しかった。
彼女が答えてくれることもなく、さっきより熱のこもった手でまた私の足を触ってきた。そのまま私の足を持ち上げ、彼女の顔の近くに持っていく。私はすごい間抜けで見るに耐えない顔をしていたと思う。
紗夜はそのまま付けたアンクレットにキスを落としていた。顔を赤く染め、恥ずかしさを誤魔化すように今度はアンクレットに噛み付いて引っ張っるから、白い金属が私の足首に食い込み痛みを伴う。
しかし、そんな痛みはどうでもよかった。
「壊れるからやめて」
ついていたら鎖だなんて思ったくせに、それが今は外れてほしくないと思う。
こんな思いはおかしいし、狂っていると自分ですら思う。
「私のこと忘れないようにこれにした――」
そのまま彼女は私の肉の薄い足首に噛みついてきた。痛い。痛いけど、それすらも今の一言でどうでもよくなっていた。
私が紗夜と再会してから彼女のことを考えない時間はないくらい常に考えている。忘れたことなど一度もない。これ以上、紗夜のことを考えろなんてあまりにも意地悪だと思う。
「紗夜のこと忘れたことなんてないんだけど」
「嘘つき」
彼女がそう言葉を発するとともに私の足は痛みから開放された。そこにはさっき私が彼女の腕につけたよりも赤く深い噛み跡が付いている。
「付け終わったので寝ますね」
紗夜はすっと立ち上がって私の前から居なくなる。
なにもわからないままの私を置いてくなんて彼女はあまりにもひどい。追いかけようか迷っていた。しかし、紗夜は少しソファーから離れて、私に背を向けたまま立ち止まったのだ。
「谷口さん。誕生日おめでとうございます――」
どたどたと走って、ばたんと音が聞こえてドアが閉まってしまった。
今なんて言った?
スマホで日付を確認する。
そうか……。
今日は私の誕生日だ。
そう考えると彼女の最近の謎の多い行動がこの日のために繋がっていたのではないかと思い、私の体は芯からぽかぽかとし始める。そんなことないかもしれないのに、彼女の行動一つ一つに意味があったのではないかと錯覚してしまった。
私はそのまま腰を下ろし、足を抱え込むようにソファーの上に座る。
さっき、紗夜が足につけた噛み跡はもうない。
海で彼女にかけられた海水もきれいさっぱりだ。
しかし、今まで何もなかったはずの場所に違和感の残るものがずっとついている。
私は自分の左足の冷たいチェーンをなぞっていった。
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