第57話 お返しのお返しです
今日は約束の日だ。
私はこの日のために色々我慢してきたと言っても過言ではない。
今日は一日中、紗夜を独り占めしていい日らしい。予め確認したが、バイトはないと言っていたから久しぶりに夜ご飯もしっかり作れそうだ。
今日は紗夜を連れて行きたい場所がある。
綺麗な桜を見せてくれたから、そのお返しをしたい。花火といい、桜といい、紗夜は綺麗なものが好きなのだろうか。もし好きなのなら、もっと好きを増やしてほしいと思う。
彼女の部屋をノックしても返事はなかった。
「紗夜、まだ?」
返事が無いと思ったら急に扉が開き、頭をぶつける。私はぶつかった場所をさすって痛みを和らげた。
「ごめんなさい……」
まあまあ痛かったけれど、目の前の少女を見たらどうでもよくなった。どうやら、私があげたメイク道具が役に立っているらしい。全然上手ではないが、大学生らしいメイクになっていて、彼女の良さをより引き立てている。
「かわいいね」
「そういうのいいですから」
白色のワンピースを着た少女はリビングに向かってしまう。その後ろ姿は華奢で抱きしめたくなるような姿だった。
「紗夜、リップ塗ってあげるから顔貸して」
私は自分の持っているリップを彼女の顔の近くに持っていくと、リップごと手を握られた。
「谷口さん、屈んでください」
「はい……?」
私はわけも分からず彼女に言われた通りに動いた。手からリップが奪われ、私の唇の上には紗夜の親指が乗っかっている。そのまま、紗夜の親指が私の唇を一撫でするので、私は喉に空気が通らなくなった。
先程奪われたリップが私の下唇に強く押し当てられ、伸ばされていく。そんなに押し当てながら伸ばしたら、ベトベトになって、さらにリップがもったいない。それなのに彼女はやめてくれない。必要ない上唇にも優しくリップをなぞってきた。
今鏡を見たらきっと絶句してしまうだろう。昔だったら笑い事くらいにできたかもしれないが、この歳でそんな濃くリップを塗って外に出たら“妖怪鬼婆”とでも勘違いされそうだ。
案の定、目の前の少女は私の顔を見て少しニヤけていた。私は急いでティッシュでリップを拭こうとすると紗夜にはばかられる。
「勝手に動かないでください」
彼女は親指で最初したみたいに優しく私の唇をなぞって余分なリップを落としてくれた。
「誘ってる?」
馬鹿な私にはとても彼女の行動がそうとしか思えなかった。いや、そう思って触れたかっただけなのかもしれない。
何個も年下のしかも従姉妹に触れたいと思うなんて、私は最低な人間で言葉もでなくなる。
「逆ですよ。そのリップ絶対に私につけないでくださいね」
そう言って紗夜は自分のポーチに私のリップをしまって私から離れてしまった。状況を理解できない私は彼女の後を追うように家を出た。
車のエンジンを付けて、助手席の少女にシートベルトを閉めるようにお願いした。
「これ、苦しいんですよね」
「車慣れしてない? たくさん乗ってると慣れるよ」
「家に車無かったのであんまり乗ったことないです……」
私は言い終わってから自分の発言に後悔してもしきれないくらい後悔した。
少し冷静になって考えれば、紗夜の家庭環境を考えて発言できたはずだ。自分の家庭環境が当たり前だと思って話してしまう癖があるので、気をつけようと数分前の自分と今後の自分に言い聞かせた。
紗夜は肩にかかっていなければいけない部分のシートベルトを肩から開放し、お腹の辺りに収めている。運転が下手だとは思わないがそれでは危ない。
「苦しくなくなるよ」
「なんでですか?」
「これからたくさん乗るから。だから今は我慢して」
別にさっきの発言の罪滅ぼしのために言ったわけじゃない。
私がこの先、彼女を車に乗せて色々な場所に行きたいからそう言った。
そんなこと叶わないかもしれないけれど、紗夜が隣にいてくれるのなら私は何回だって彼女を車に乗せてどこにでも連れて行く。
「恋人できたら私なんて家から追い出すくせに……」
「なら大丈夫」
「何が大丈夫なんですか?」
「作る気ないから」
「この間だって会いたいって連絡来てたじゃないですか」
その言葉に胸がドキドキして呼吸を無意識に止めていた。
「見てたんだ。会ったけど、もう会わないよ」
「どうしてですか?」
「恋人作る気ないから」
「なんで作る気ないんですか?」
そんなの私が一番わからない。
なんでそんなことを言ったのかも、そう思っているのかもわからない。ただ、私に今一番必要な存在は恋人でも友達でもなくなっている。
そのことに嫌気が差してハンドルが少し左右に揺れていた。
紗夜の方を見ると脇の下にあったシートベルトは肩にかかっていて、どうやら言うことは聞いてくれるらしい。
そして、その行動は馬鹿な私を勘違いさせる。これだから無自覚にあざとい人間は嫌いなのだ。
そんなことをされたら、これからたくさん紗夜のことをドライブに連れて行ってもいいのかな、なんて勘違いしてしまう。
今は親の車を借りているけれど、紗夜が私とたくさん車に乗ってくれるのなら、いつか自分の車を買わなければいけない。
マンションのローンに車のローン……。
「仕事頑張んないとなぁ」
「今以上に頑張るんですか?」
珍しく少し食い気味に紗夜が話しかけてくるのでまたハンドルが揺れてしまう。
「楽しいことするにはお金必要じゃん?」
「……私は」
その後、ごもごもとなにかを口にしていたけれど、それ以上なにも言ってこなかった。信号が止まり、無言も続いていたのでラジオをつけようとすると、声をかけられるのでつけるにつけれなくなってしまう。
「どこ行くんですか?」
「紗夜が好きそうなところ」
「へ……?」
私は珍しくニヤニヤと口元が緩んでしまう。また紗夜が喜んでくれるんじゃないかと思うと、私の胸は苦しくなり、そしてその苦しさが嬉しさに変わっていく。
こんな自分は変だけど好きだったりする。
「谷口さんが行きたいところって言った……」
顔を見なくてもわかるくらいすごい不機嫌そうな声が聞こえてくるので、私はなにかまずいことをしてしまったのかもしれない。
「私の好きな場所だよ。だから紗夜にも知ってほしい」
我ながら恥ずかしいことを言っているなーと思い、隣を見ると想像以上に顔の赤い女の子がいるので驚いてしまう。
「谷口さん青です」
ぼーっと紗夜に見とれていた私は焦って急発進してしまった。
「ご、ごめん……」
「大丈夫です」
結局、ラジオを付けられなかったせいで車の走る音だけが車内に響き、私たちは無言のまま過ごし、一時間もしないで目的の場所には着いた。
着いた時の紗夜の顔を見て私は間違えていなかったのだと少し過去の自分に感謝した。
耳にざーと心地良い音が流れてくる。風は私達を通り過ぎ、雲一つなく快晴なので、ちゃんと日焼け止めを塗ってきて良かったと思う。
目の前にはどこまでも青い景色が広がっていて、空の青さと地平線で交わっている。
「きれい……」
どうやら、私の考えは間違えていなかったようだ。そして、私が好きなことや好きな場所を紗夜とも共感できることがなによりも嬉しかった。
「綺麗でしょ」
「うん……」
珍しく敬語を忘れてしまっている彼女を見ると微笑ましく思う。もうそんな気なんて使わなくてもいいのに、未だに彼女の敬語は健在だ。
いつになったら私に敬語を使わなくなるのだろう。いつになったら昔みたいに和奏ちゃんと呼んでくれるのだろう。
そんな日が来ることも想像できず、私はまた目の前の地面に這う青空を見た。
目の前の海は近づいたり遠のいたりしていて、その様は手招きしているようにも見える。
夏なんかになると水着姿の人が多く、歩くのも大変になるくらい人気な海岸だが、まだ春先で肌寒い季節なので、サーフィンがよっぽど好きな人や釣りをしている人しかいなくて騒がしくない。
「じゃん」
私は車のトランクからビーチサンダルを二足取り出した。これなら少しくらい濡れても心配なく歩ける。この日のために買っておいたのだ。
目の前の少女は驚いてくれるかなと思ったら案外そんなことはなく、訝しげな表情でこちらを見ている。
「谷口さんって遊び慣れてますよね」
「それは子供だって意味かい」
「いや、人たらし」
ひとたらし? 私が?
紗夜の言っていることはよくわからなかったが、私達はサンダルに履き替え、波の近くまで足を運んだ。
あるところまで来ると紗夜が立ち止まって波を見ていた。波の動きに合わせて目が泳いでいる。
「なに、怖いの?」
私はにっと歯を見せて笑うと彼女はむっとした表情で睨んできた。
「波を見てたらだめなんですか」
そう言いながら歩いてきたものの、小学生が演奏会の入場の時に入ってくるような歩き方になっている。
そんな素直じゃない彼女がどうしたら素直になるのか頭を巡らせた。私は無言で彼女に手を差し出す。それをスルーして波を感じるもよし、私の手を取って二人で海に向かうのもいいと思った。
紗夜の判断があまりにも遅いから、私の足は五回は波に浸かっている。
「離したら怒りますからね」
紗夜は私の手を握って波にダイブしていた。
びしゃっ――。
波が来るタイミングで彼女が大きく一歩を踏み出すから、私のズボンに思いっきり水がかかった。紗夜が申し訳無ないという顔をするので、濡れた部分が浸かるくらいまで私はもっと彼女を海側に引き込んだ。
「谷口さん、びしょ濡れじゃないですか……」
紗夜はワンピースが濡れないように片手でまくりながら話している。私は向う脛まで海に浸かっていた。
ズボンはびちょびちょだ。
それでも、ここにいれば紗夜が手を離してほしくないと握ってくれる。だから、私はズボンが濡れたままでよかった。
しかし、怖かった海になれたのか紗夜は私の手を離し、海に夢中になる。紗夜に気に入ってほしくて海に来たのに、そのことが気に入らなくなった。
「さっきのお返し」
私は海水を両手ですくって彼女の服にかからないくらいの足の位置に水を掛ける。
そうすると最初はむくれていたが、なにやら悪巧みを考える子どものような顔になり、ワンピースを横で縛っていた。縛られたワンピースがミニスカートのようになり、彼女の白くて細い足が見える。そんなことに夢中になっていた私の足に冷たい液体がかかってきた。
「お返しのお返しです」
にこっと笑って楽しそうに海水をすくう様子に目が離せなかった。
やはり、この季節の海はまだまだ冷たく、そして心地いい。
今の私の上がりきった体温を冷ましてくれる。ただ、冷ましてくれるのはどうやら濡れたところだけのようだ。
今、冷たいと感じている部分が体全体に広がればいいのにと思った。
「谷口さん顔赤いですよ?」
そんなこと言われなくても私が一番よくわかっている。足が冷たいせいで、余計自分のどこに熱が集まっているのなんて歴然だ。
紗夜が楽しそうにしてくれたこと。それだけで私の感情はこんなにも揺さぶられてしまうらしい。
そんな私もそろそろ限界のようで、くしゅんとくしゃみが出てしまった。
「あがりましょうか」
「うん……」
このままここにいたら、もっといろいろな紗夜が見れるのだろうけれど、そんなことができない自分の体を恨めしく思う。
「海好きでしょ」
「今日好きになりました」
思ったよりも素直なその言葉に変な顔をしていたと思う。
「あほそうな顔ですね」
「そうだね」
「今日も私がもらってばかりですね――」
「へ……?」
今日は紗夜に特になにもあげていない。急に何を言い出したのかわからなかった。
紗夜がふふっと笑い声を漏らすので、何も面白くないのに私もくすりと笑みがこぼれてしまう。なんにせよ、今日も私の作戦は成功したらしい。
私達は近くの洗い場で海水を流した。私にどろどろと纏わりつくこの海水を流すのが少しだけ心寂しかった。
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