第56話 私のことほったらかしすぎ
目の前にはチェーンピアスをゆらゆらと揺らす女性がいる。前付けていたフープピアスよりも断然こちらの方が似合っている。
ピアスを付ける日はほとんどこれだけだ。
馬鹿みたいにほぼ毎日、このピアスを付けていると思う。
だってこれをつけていると彼女を近くに感じられるから……。
今日だって仕事もないので、外に出る必要もないのに目の前の女性はそれをつけていた。そっと耳にぶら下がるピアスを撫でる。
その顔はとても奇妙で見ていられないものだった。
最近、こんな顔ばかりしている目の前の女性は辛い休みの四日目を迎える。こんな退屈な日々を過ごすのなら、ゴールデンウィークなんていらない。仕事をしていた方がよっぽどましだ。
「はぁ……」
こんなところで何分も時間を過ごしているわけにはいかない。私は化粧台の前から立ち上がり、リビングに向かうことにした。
ウインナーを炒め、目玉焼きをぐつぐつと焼いて丸いお皿に乗せる。昨日、茹でたブロッコリーと綺麗に切りそろえたトマトを盛り付け、彩りの良いプレートを作る。
そろそろだろうか――。
すたすたと廊下を歩く音が聞こえてきた。
「おはよう」
「おはようございます」
今日は珍しく前髪が跳ねていて、幼さが漂っている。私はそんな彼女に近づき、前髪を手ぐしで優しく梳かした。
「自分で直せます」
「紗夜って髪の毛つやつやだよね」
「私の話聞いてます?」
少し目線を下に落とすと、少女は不満そうな顔で私を見上げていた。その顔がかわいくて、つい頬をなぞってしまう。
「ご飯もう少しだから手伝ってくれる?」
「はい」
紗夜は私から離れ準備を始めた。コップと箸を並べるその姿すらも目に収めておきたいと目が離せなかった。
これは愛に近い感情だと思っている。
かわいい妹ができたのだと、思い込むようにしている。
「紗夜、今日も出かけるの?」
ここ三日間、紗夜は日中は外に出て、夜はバイトでほとんど家にはいない。
「今日は家にいます」
「バイトは?」
「休みです」
私は三日間も我慢したから神様が最後にご褒美をくれたのかもしれない。
「じゃあ、今日一緒にお出かけしない?」
「今日は家でゆっくりしたいです」
「じゃあ、私の部屋でゴロゴロしよう」
「へ?」
「もう決めたから。朝ご飯食べるよ」
私は先程おかずを乗せたプレートをテーブルに運んだ。朝ご飯を準備する私に不服そうな少女が近づいてくる。
「あの、谷口さん。部屋行きませんから」
「だめ」
「なんでですか?」
「最近、私のことほったらかしすぎ」
我ながら稚拙で恥ずかしいことを口にしていると思う。ただ、それでも今日は紗夜が一日家にいてくれる日で、そんなの久しぶりだから自分のそばにいて欲しいのだ。
そんなわがまま彼女には通らない。
そんなのはわかっている。
ただ、言って損はないだろう。何かの間違えが起こって、彼女が私の要求に乗ってくれるかもしれない。なんて淡い期待を抱いていた。
「いいですよ……」
カラン。
どうやら、私はもっていたフォークを床に落としてしまったらしい。
今なんて言った?
「ただ、寝たいので寝るの邪魔するなら出ていきますから」
「わかった」
私は床に落としたフォークを冷静に拾う。冷静な返答をして完璧だ。しかし、気持ちは体内を暴れ回っていた。
急いでご飯を掻き込み、「今日は私が片付けするから早くお皿をもってきて!」と言ったら呆れた表情で見られた。
別にかまわない。だって、紗夜が隣に居ることを許してくれるのだから。
朝食が終わると、紗夜は約束どおり私の部屋に来てくれた。
ただ、何も言わず私の布団に入ってしまう。
私はさっき食べた朝ご飯がまだ胃の中に居るのに横になった。予想通り、消化しきれない朝ご飯が私の左半身に寄って喉に向かって逆流してくる。
「こっち向いて」
「邪魔するなら出ていくって言いました」
「何もしないからこっち向いて」
紗夜は大きくため息をついたままこっちを向いてくれた。どんなに冷たい態度を取られてもいい。だって、三日も彼女とこういう時間がなかった。
私はそっと抱きしめて紗夜の頭を撫でた。
ふわふわと彼女のいい匂いがする。
「谷口さん、すぐ嘘つく――」
「最近、頑張りすぎ。体壊すよ」
日中は何をしているのか分からないけれど、夜はちゃんとバイトをしている。本当はバイトしてる姿を見に行きたいけれど、彼女がそれを望まないから、私は踏み込んだりはしない。
しかし、日中何をしているか教えてくれないことには納得いかない。
もしかして、誰かとデートしているのかも?
いや、それにしてはラフな格好で行きすぎだ。何をしているのか全く分からない……。なんでもないことが不安で、私の心をどんどん小さくする。
「バイトはどう? 慣れた?」
辛い。やめたい。働きたくない。
そんな言葉を期待した。そう言ってくれるのなら、私はいくらでも彼女をお金のプールに浮かせてあげるために頑張れるのだ。
「最近慣れてきて、楽しいです。面倒見のいい常連さんとも仲良くなりました」
「それは男の人?」
「女の人です」
その事実に安心する自分と違和感を覚える自分がいた。
「女の人大丈夫なの?」
「この前、頭を触られたんですけど、そこまで嫌な気持ちになりませんでした」
それは……。
「…………谷口さん?」
少し不安そうな声が聞こえて、私の意識は少女の隣に戻ってきた。
私はその言葉を聞いて喜ぶべきだ。「良かったね」と嘘でも伝えるべきだ。ただ、全然嬉しくなかった。
さっき食べた朝ご飯がもう胸の辺りまで来ている。だから、食べてすぐ横になるのは嫌なんだ。私は上がってきたご飯を下に落とすように自分の胸を圧迫した。
「谷口さん、苦しい……」
私だって苦しい。私の方が消化が遅くて横になればすぐに食べ物が上がってきてしまうのだから苦しい。
なぜ、この子の幸せを願うことすら出来ないのだろ? こんな小さい人間にいつからなったのだろう? この気持ちに吐き気を覚える。
「治ったら教えてね」
「……はい」
きっと、そう遠くはない未来に彼女は私の前から居なくなるのだろう。私は彼女の症状を治す以外に必要のない存在なのだから――。
どうしたら、それ以外に紗夜が私を必要としてくれるだろうか。
たぶん、何も無い。
だって、私は彼女の弱みに漬け込んだ最低な人間なのだから、これ以上幸せを見ていいわけがない。
苦しいと言っていた私の腕の中にいる少女は抱きしめる力を少し弛めたらすぐに寝てしまった。
ずっと頑張っていて、疲れたのだろう。
人と関わることなんて苦手なはずの少女が何故かバイトを頑張る。そんな頑張らなくたって家に居てくれたら私が頑張るのに……。
彼女の柔らかく艶のいい髪を撫でた。
最初は眉間に皺が寄っていたけれど、撫で続けるとそれは柔らかい表情に変わっていく。
頬を撫でても鼻をつまんでも、紗夜は寝息を立てるばかりで起きなくなってしまった。
「さよ……」
どこにも行かないで欲しい。私が必要じゃなくてもいいからここに居て欲しい。なんでそんなことを思うのか分からない。分かりたくない。
素直に伝えたら彼女はここに居てくれるだろうか……? きっと気持ち悪いと罵られ出ていってしまうだろう。
左側に寄った朝ご飯たちはゆっくりと元あった場所に戻ろうとしている。
私の意識は朝ご飯と共に体の中に吸い込まれていた。
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