第54話 自分でできます

 今日は朝からずっと谷口さんの様子がおかしかった。だからってなにかあるわけじゃないけれど、最近、谷口さんの様子に私の気持ちは振り回されている気がする。


 そんなのは嫌だと思うのに、嫌じゃないなんて、私は彼女と関わるようになってからだいぶおかしくなってしまったのだと思う。


 こうやって悩むのは彼女と一緒に住んでいるから必要な気遣いで無駄なことではない。

 彼女と上手に生活していくことは、私にとってメリットのあることで、それ以上の深い意味はないと言い聞かせ、ちゃんと解決方法を考えるようになった。


 朝不機嫌そうに出ていった谷口さんは、私がバイトに行くときは捨てられた子犬のような顔をして見送ってきた。まるで、私が今からバイトに行くことが悪行のように思えるような目で見てくる。


 なんでそんな目をするのかわけがわからないし、このまま谷口さんを置いていけば、廃人になりそうな気がした。


 だから、せめてそうならないように夜ご飯をしっかり食べて寝てほしいと思ったのだ。


 しかし、今送られてきた写真は夜ご飯というにはほど遠いものだった。谷口さんは健康に悪い生活をする予定だったらしい。彼女が健康じゃないのは困る。


 私がもう少し料理ができたら……。


 何も役に立たない自分に対して残念な気持ちが沸き上がる。


 外はざーざーと雨が降っていた。

 今日、傘を持ってきていない。


 濡れて帰るしかないけれど、こんな気持ちの晴れないまま雨に降られたら、余計気持ちが沈みそうだ。いや、いっそのこと雨にすべて流してほしいと思う。


 流せることなら毎回、雨の日は外に出ているだろうけど……。


 消えるわけもない嫌な感情を抱えたまま、私は小さな居酒屋の店内を動き回る。


 雨のせいで店内はほとんど常連さんばかりでいつものような忙しさではなかった。今日は楓が休みの日で私はホールの担当になっている。


 仕事もだいぶ慣れてきて、一人でもホールを任せてもらえるようになった。キッチンでは松林夫婦が料理を作ってくれていて、柴崎先輩がドリンクを作ってくれている。


「五十嵐さん、ホール一人で大丈夫そう?」

 

 柴崎先輩は心配そうにこちらを覗いてきてくれた。素敵な優しい先輩に恵まれたと思う。


「大丈夫です。いつもありがとうございます」

 

 私はペコリとお辞儀をすると柴崎先輩は嬉しそうに微笑んで仕事に戻っていた。


 チャリン


 入口のドアが開く音がしたのでそちらに視線を移す。


 そこには雨に濡れた一人の女性がいた。


 濡れたせいでより艶の出ているアッシュグレー色の髪に仕事着のシャツが濡れて、少しだけ下着が透けている。


 端正な顔立ちでモデルかなんかをしていそうな雰囲気だなと見とれてしまう。“水も滴るいい女”なんて言葉があるが、その言葉がまさに似合う女性だった。

 

 私は「いらっしゃいませ」とその女性に駆け寄ると優しい笑顔を向けてくれた。女の私でも見惚れてしまうほど綺麗だったと思う。


「ちょっと、松林さん! いつの間にこんな綺麗な子雇ったんですか?!」


 とても綺麗な女性に「綺麗」と言われて顔が熱くなる。私はそんな誰かに褒められるほど綺麗な人間ではない。


「お! 美鈴みすずちゃん! 久しぶりだね。元気だったかい?」

「元気でした! 最近、全然来れなくてすみません。いろいろバタバタしてて来れませんでした」

「いいんだよ。また会えて嬉しいよ。五十嵐さん、奥からタオル持ってきてもらっていい?」

「はい」


 松林さんとそのきれいな女性が話す様子から常連さんなのだろうとわかる。


 私はバックルームから大きいタオルを持ってきて、彼女に渡した。美鈴と名乗るその人物はタオルをかわいい笑顔で受け取り、体を拭いている。体を拭きながら私に優しく話しかけてくれた。

 

「名前、なんて言うの?」

「五十嵐紗夜っていいます。まだまだ働いたばかりで不甲斐ないですが、頑張ります」


 かなり固い自己紹介になってしまった。しかし、これでも私にしては上出来だと思う。初対面の女性と普通に話せているのだから――。


「わぁぁ。かわいすぎる。店長、この子、今日もらっていいですか?」

「はいはい。紗夜ちゃん困ってるからそういうことしないの。飲み物はビールでいいかい?」

「ビールで!」


 松林さんが助けてくれたおかげで、その場は難なく終えることができた。失態を冒さなくてよかったと安堵する。



 さっきまで少し静かめだった店内に美鈴さんの明るい声が響き渡る。


 他の常連さんと仲良く話していて、美人な上に社交的で人気者な人で少し羨ましく思ってしまった。


 結局、美鈴さんは閉店時間ギリギリまで飲み明かして帰る準備を始めている。


「紗夜ちゃん、またねー!」

「美鈴さんもまた来てください」

「んーもう! かわいいから毎日行く」

「あ、毎日はシフト入ってないです」

 

 私がそう言うと松林さんと美鈴さんは顔を合わせて笑っていた。


「ほんと純粋で良い子がバイトに入りましたね」

「ほんとおじさん幸せだよ」


 二人はその後も店内で話していた。閉店後、急いで片付け等をしたものの、上がる時間はいつもより一時間は遅くなっている。


 スマホを見ると一時間前に谷口さんから連絡が入っていた。


『広瀬駅で待ってる』


 それだけだった。


 私が連絡に気が付かないで家に真っ直ぐ帰っていたらどうするつもりだったのだろう。


 何時に終わるかもわからないのになんで迎えなんか来たのだろう。もう、一時間も前のことだから帰っているだろう。


 …………


 いや、きっと谷口さんは駅にいる。

 そんな気がした。


 一時間以上も彼女を待たせていたと思うと少しだけ胸が痛くなる。その罪滅ぼしではないが、走って駅まで向かった。


 駅周辺の店はほとんど閉まっており、いつもの駅の活気はなくなっている。店の電気も消え、暗い場所が多い中、少し明るい電灯の下に一際目立つ女性が立っていた。その人を見つけたせいで、走って上がった心拍数がより上がっていく。

 


 靴の中には泥水が紛れ込んで、靴下は生ぬるく気持ち悪いはずなのに、彼女の顔を見たらその気持ち悪さはどこかに行っていた。


 ぐちゃぐちゃと音を鳴らすスニーカーを前に進めて谷口さんの前に立つ。


 今の私は先程見た美鈴さんのように綺麗な女性じゃないと思う。


 そのことを酷く残念に思った。


 雨に濡れても美鈴さんくらい綺麗な女性だったら、少しは谷口さんの目にまるだろうか。


「ごめんなさい。バイト長引いちゃって……」

 

 寒くはないが、こんなところで一人で待っているというのは心細いことだと思う。大人でいつも余裕そうな谷口さんはそんなことないのかもしれないけれど、私だったら嫌だ。


 私が下を俯いていたらふわっと谷口さんの匂いがして、それだけのことに胸がぐっと熱くなった。

 そのまま私の頭はわしゃわしゃとふわふわのタオルで拭かれる。


「自分でできます」

「いいから」


 谷口さんはタオルごと私を引き寄せる。


 私が気がついたときには、谷口さんの熱くて柔らかな唇が私の濡れて冷たくなった唇に重なっていた。


 タオルをカーテンみたいにして谷口さんが私と二人だけの世界にするから、私の頭はおかしくなってしまったのだと思う。


 いつもは受け入れないはずの彼女の熱をそのまま受け入れた。


 雨に濡れて寒かった。


 だから、今だけは彼女の体温が心地いいと感じてしまったのだと思う。


 その心地いい熱は私からすぐに離れてしまった。


 もっと――――。


 なんて思った自分はきっと魔が差したのだろう。

 

「バイトおつかれさま」


 今のことが息をするのと同じくらい当たり前のことのように、彼女はいつもの顔をしていた。それは最近の喜怒哀楽の激しい谷口さんではなく、大人な谷口さんだった。

 

 私の心臓は大きく動いているせいで、肺を圧迫して呼吸が苦しい。


 それなのに彼女は余裕らしい。


 だから、私は苦しい心臓を押さえつけて、私だって何事も無かったかのように接する。


「――ありがとうございます」

「帰ろっか」


 谷口さんは傘を開いて手招きしていた。私はその横に入ると、ぐっと肩を抱き寄せられるので、雨で冷えた体温がどんどん上がっていく。



 帰り道、私はできるだけ谷口さんの右半身に密着するように傘に入っていた。


 だって、谷口さんの左肩が濡れていたから、そうするしかなかった。

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