第53話 ちゃんと夜ご飯食べてくださいね?
「夜ご飯までには帰ってくるから」
「今日バイトなので夜ご飯いらないです」
「そうだった……」
今日はまた彼女のいない夜らしい。
いっそのこと、心春に夜ご飯ついでに飲みでも付き合ってもらおうか。私は玄関を出ようとしたが、振り返って紗夜の方に近寄った。
「今日のバイトの分しよ」
「なんで今ですか」
「紗夜が帰って来る前に寝てると思うから」
「……」
そういうと紗夜は諦めたのか動かなくなった。私は彼女の華奢な体をそっと抱き寄せて、頬と唇を親指で優しく撫でる。
紗夜の柔らかい唇を指で感じていると指を噛まれた。
「変なことしないではやくしてください」
そうだ。彼女にとって、この行為は義務でしかない。そんな嫌なことは早く終わらせたいに決まっている。
私は少し屈んで、彼女の顔に自分の顔を近づけた。さっき指で感じたのよりも柔らかく感じる彼女の唇は、できることならずっとくっついていたいと思う。
私はそれだけでは足りず、彼女の口の間を通ろうとするけれど、硬いものに遮られ、呆気なく彼女との距離が離れてしまった。
「変なことしないでください」
変なことって……。
もう唇を重ねる時点で変なことだと思う。だから、それ以上したって何も変わらない。
そう言ったら彼女はキスすることすら、一生許してくれなくなりそうなので、言わないことにした。
もう一度、彼女に優しく触れようとすると今度は紗夜から近づいてくるので、心臓がドクンと鳴る。しかし、その期待は間違えていたようだ。
「いたいっ」
どうやら首を噛まれたらしい。
彼女の噛み癖には本当に困らされている。ある程度の痛みなら耐えられるのだが、紗夜は人の肉を噛みちぎる勢いで噛んでくる。いつか人食い事件を起こしそうなほどだ。
「そんなことしてたら人に嫌われるよ」
「谷口さんにしかこんなことしないので大丈夫です」
その言葉に私はバンジージャンプさせられた気分になる。一瞬、その言葉は紗夜の中で特別なのではないかと良いように思える。しかし、その特別は良い意味の特別ではない。
「はぁ……」
私は大きなため息をついて家を出ることにした。紗夜は背中を向けてリビングに向かってしまったので、どんな顔をしていたのかはわからなかった。
※※※
「おまたせ」
「待ってないから大丈夫だよ」
今日はじめじめした天気のせいでせっかく巻いた髪の毛が元気をなくしている。心春はいつものようにバッチリメイクをしていて、気合は十分だ。
「和奏とこういう時間増えたの嬉しいわ。子猫ちゃんは納得させてきたの?」
親友の何気ない言葉に胸がちくっと痛む。
紗夜は私がこうやって外に出ようが、どこに居ようがどうでもいいのだ。むしろ、最近は私の方が彼女の行動を気にしてばかりで、下手したら紗夜の行動を制限するようなことをしている。
一旦、頭を冷やして冷静になった方がいいのかもしれない。
「紗夜は私がなにしてても気にしないよ」
「そうかな? 今度、紗夜ちゃんと会わせてくれる約束はいつ叶うのかしら」
また、心春の悪いモードに入っている。そもそも、紗夜と会ってなにが話したいというのだろう。そして、紗夜に会わせるなんて約束はしていない。
「心春はなんでそんなに紗夜に会いたいわけ?」
「だって、かわいいじゃん」
「絶対会わせないから」
そういえば、紗夜は私のことなんて全然頼ってくれないのに、心春のことは頼ったことがあるんだった。
花見の時だって、あんなに人がいて怖い人達に囲まれていたのに、隣にいる私のことなんて頼ってくれなかった。むしろ、邪魔くらいに思われていたのかもしれない。
「じゃあ、会わなくてもいいから連絡先教えてよ」
「だめ」
「わー、過保護だね」
「大学生なんだから誰かが守ってあげないとでしょ?」
「もう大学生だよ? 自分が大学生の時そんなことされたらうざいと思わなかった?」
その言葉に頭にトンカチが当たったのかと思うほど視界がぐらりと揺れた。
たしかにそうだ。
私が彼女にしていることはただのうざい姉がしているようなことと同じだ。
やはり、反省して冷静になるべきだ。冷静になれる方法を考えている私のことを気にしていない心春は話を続けている。
「そういえば、この間ショッピングモールで坂本さん見たよ。まだ、近くに住んでるんだね」
その名前に心臓がドクドクと鳴る。その鼓動は速くなり、やがて吐き気に近いものに変わっていった。
「あ……ごめん。余計な話だったね。でも、急に会うよりいいかなと思って……」
「教えてくれてありがとう。会ったとしてもなにもないから大丈夫だよ」
心春が珍しく本当に申し訳ないという顔をしていたので、私は喉に詰まった息を吐きながら明るく彼女に話しかけた。
しかし、すぐに私の心情を見抜いた心春は心配そうな顔で私を見て、頬をびーっと引っ張ってくる。
「すぐ無理しない。私くらいには甘えなさいよ」
いつものテンションで話しかけてくれるので重かった気持ちが少しだけ軽くなった。
こんなにも素敵な人物が親友だなんて、私は幸せものなのだろう。それでも、心春に紗夜を会わせるのは嫌だった。
私たちは学生の頃によく行っていたスイーツバイキングに来た。学生の頃のテンションで食べ進めたが、思いの外、食べられないことに衝撃を受けた。
もっと食べれていたはずだ。そのはずなのに、私の胃袋は受け付けてくれなかった。
「おかしい……学生の時はこの倍は食べられてたよね?」
「うん。心春も私もついにアラサーだもんね」
どうやら、私の体は知らない間に若さを失いつつあるらしい。
いや、体だけではないのかもしれない。心も私の胃袋のようにどんどん小さくなっている。
自分のプライドが傷つくことが怖くて素直にはなれない。容量が大してないくせに「できる」と強がりキャパオーバーする。
私の胃袋と心の胃袋は連動しているようだった。最近、心の胃袋は胃もたれを起こしている。しかも、七歳も下の女の子一人に対して胃もたれを起こしているのだ。
私の母は昔から男子高校生が食べるような量の食事を出して私を苦しめてきたが、今回もあまりにもこってりとし過ぎたものを私に預けてきた。
食べ物であれば意志がないから、やめようと思えばやめられる。しかし、紗夜は意志のある人間だ。
こちらが「もう限界だ」と言っているのに私の中に入ってくるし、「お腹が空いたから何か欲しい」と願っても胃の中には入ってくれない。
そのせいで、私は毎日胃薬が必要な状態になっている。しかも、効く胃薬の無い胃もたれを起こしているのだ。
対処法のない病気ほどやっかいなものはない。
私は上がってくる胃液なのかスイーツなのかわからないものを水を飲んでなんとか下に落とし流し込んだ。
明日は二人とも胃もたれだね、なんて会話を交わして家に向かった。結局、食べ過ぎたせいで心春を飲みにも誘えず、まだ夕方なのにあの家に帰らなければいけなくなった。
家に着くと紗夜がちょうどバイトに出る頃で、ここから五時間は彼女に会えなくなることを意味している。そのことにさっき最後に流し込んだ水が上がってきた。やっぱり、無理はするものじゃない。
「谷口さん、今日の夜ご飯は何食べるんですか?」
紗夜は私が玄関で靴を脱ぐ前に私の前に立ち塞がって、上目遣いで聞いてくる。
もう、さっきのバイキングのせいでお腹いっぱいだ。胃はキャパオーバーしている。お腹が減っていたとしても、夜ご飯は食べなかっただろう。紗夜が夜いない日はめんどくさくて夜ご飯を食べない日が多い。
「夜ご飯食べないよ」
「なんでですか? それじゃあ体に悪いです」
誰のせいだと思っているんだ。
紗夜が夜に家に居てくれれば、どんなに吐きそうでも、具合が悪くても、夜ご飯を作って彼女と一緒にご飯を食べた。なんなら、紗夜と夜ご飯を食べるためにスイーツバイキングなんて行かなかった。
「紗夜が私の体なんて気使わなくていいの」
「気使いますよ。一緒に住んでるんだから健康でいてください」
「別に健康じゃなくてもいいじゃん」
「だめです」
「なんでよ」
「居なくなったら嫌だから……」
その言葉にハッと息を飲む。私はもうダメだった。とっくにキャパの超えた心は破裂寸前だ。
意味がわからない。
いや、意味はわかる。
私がいなくなったら彼女の居場所はなくなる。ただ、それだけだ。そう思うしかなかった。
「ちゃんと夜ご飯食べてくださいね? 谷口さん、嘘つきそうだから食べたら写真ください」
紗夜はそのまま駆け足で外に出てしまった。
ほら……。
もう無理だと言っているのに彼女は無理やり入り込んでくる。私は胃炎ではすまなくなりそうだ。
結局、味噌汁を作って、食べる前と食べた後の写真を撮って、紗夜に送った。
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