第52話 紗夜のこと守れなくなるから

 桜がひらひらと舞う中、桜も見ずに私の視線が集まるのは一つだった。

 

 少しでも喜んでもらえればいいと思った。

 

 少しでも私が綺麗だと思ったものを共有できたらいいな、なんて単純な考えだった。



 私は小さい頃から人の顔色を伺って行動する癖がついていたせいで、人の表情を見ると何となくその人の感情が分かってしまうような人間だ。

 それは時に私をすごく落ち込ませ、信じられないくらい胸を苦しめる時がある。


 だから、そんな自分の性格が嫌いだった。


 でも、今日はそんな自分で良かったと思えた。目の前にいる女性が綺麗な桜に感動して感極まった顔をしているように見える。


 わからない。


 そう見えただけかもしれない。

 これは私の勘違いなのかもしれない。


 彼女にそう思ってほしいという思いが強く現れて、幻覚を見ているだけなのかもしれない。


 しかし、どんなに頬をつねっても、息苦しくなるまで呼吸を止めてみても、目の前にいる谷口さんの顔は変わらなかった。


 だから、私は彼女のその顔を少しでも忘れないように動かずにずっと見ていた。


 顔が整っているからとか横顔が綺麗だからとかそういう訳ではなく、彼女の表情そのものが艶美えんびで私は見とれていた。


 今考えればスマホの写真にでも収めておけばよかったと思うほどだ。


 私の想いが思いもよらぬ彼女の表情に繋がったことが嬉しかった。


 谷口さんに線香花火の儚く美しいさまを教えてもらった日、私は酷く感銘を受けた。


 谷口さんは今、あの時と同じような気持ちになっているのだろうか。なっていてくれたら嬉しいと思う。



 楓にどうしたらお出かけに誘えるか聞いてよかった。キスと交換条件で谷口さんをここに連れてきてよかった。


 全ての頑張りが報われた気がした。


 そして、大したことはないのかもしれないけれど、少しだけ彼女に恩返しができた気がした。


 私は力の入らなくなった頬を緩めたまま彼女に話しかける。

 

「谷口さん、桜綺麗ですね」


 頬に力が入らないせいで、笑い声まで漏れてしまった。


 谷口さんと出会って、一緒に生活するようになってから、心から笑える時がたまにある。谷口さんは私の固まった心を簡単に溶かしてくれてる魔法使いなのかもしれない。



 私が微笑んでいたら、谷口さんの表情は先程とは違い、化け物を見るような目に変わっていた。


 メイクが終わった私を見ている時もお化けを見ているような恐れおののくような顔をしていた。


 私をそんな顔で見るなんて少し納得いかない。


 私はそのせいで頬に力が入り、いつもの顔に戻っていく。谷口さんが全然何も話してくれなくなり、お腹が減ったので屋台に行くことにした。


 嬉しかった。

 幸せだった。

 

 その事が時間差でじわじわと私の胸から体全体に行き渡り熱を帯びていく。今は顔を見られたくない。だから、私は彼女に背を向けて、急いで屋台の方に向かった。


 屋台に向かう途中、スマホのカメラをインカメにして自分の顔を写すと、そこには谷口さんにメイクを施された私がいて、いつもの自分じゃない自分がいる。


 どうしたら私をこうも綺麗に仕上げられるのだろうと感心してしまう。


 頬が赤くないか確認して、しっかりと赤くなくなったのでスマホをポケットにしまった。


 屋台はとても賑わっていて、人が多く、お酒なんかを飲んでいる大人もいる。


 私は谷口さんを置いてきてしまったせいで、どうやら、一人になってしまったようだ。


 きょろきょろと彼女を探すと、知らない人達が数人寄ってきて話しかけられた。



「お姉さん、一人? もし良ければ俺たちと飲まない?」


 男性三人くらいに囲まれてしまって身動きが取れなくなってしまう。男性陣は片手にお酒を持っていて、きっと酔った勢いで話しかけてきたのだろう。


「すごいかわいいね。大学生? どこ大?」


 私は何も話していないのにどんどんと質問が繰り返される。そして一人の男性が私の肩に手を伸ばしてきて体が強ばってしまう。こういう時にどうしたらいいか分からなくて戸惑っていた。


 男性の伸びた手は私の肩に触れる前にピタッと止まる。男性の腕を見ると細くしなやかな手にガシッと掴まれて動けなくなっていた。


「この子に触らないでください」


 横を見ると、今まで見たことのないくらい怒り、鋭い目付きで男性陣を睨んでいる谷口さんがいた。


 何回か彼女に怒られたことがあるが、そんな顔は初めて見たので驚きを隠せなかった。


「お姉さんも一緒にどう?」


 谷口さんがすごい顔をしているにも関わらず、男性たちの勢いは止まらなかった。


「そういうの間に合ってるんで」


 男性たちはまだ話したそうにしてたけど、谷口さんに手を握られて私たちはその場から離れた。怖い思いから解放されて安堵する。


「あの……谷口さん、ありがとうございます」


 谷口さんはこっちを向いてくれたけど、その顔はいつも私を怒る時の顔になっていた。


「だから、変なの寄ってくるって言ったでしょ」


 そう言って私の手をぎゅっと握って前をスタスタと歩いてしまった。


 そのスピードが速くて追いつくのがやっとだった。追いつくために急ぎ足になっていたのに、急に谷口さんが止まるから彼女とぶつかってしまう。


「谷口さん……?」


 谷口さんの目線の先にはりんご飴があった。


「食べたいんですか?」

「違うよ」

 

 そう言って、またスタスタと歩いてしまう。



 花見会場にいる大人たちは真昼間だと言うのにお酒を口に運んでいる。私はまだお酒を飲める歳ではないが、おいしいのだろうかと気にはなっている。


 谷口さんもよく飲んでいるから、もしかしたらおいしいのかもしれない。そして、今日も我慢させているのなら申し訳ないと思った。

 


「谷口さん、お酒飲んでもいいですよ?」

「今日は絶対に嫌」

「どうしてですか?」

「紗夜のこと守れなくなるから」

「はい……?」


 全然意味がわからない。彼女は一体なにから私を守るのだろう。


 急にボディガードごっこが始まり、私はこの状況についていけなかった。


 たまに谷口さんはそういう子供みたいなところがある。


 何がしたいのかは分からないけれど、あんなに大好きなお酒を飲まないらしい。それなら、せめて食べたそうにしていたりんご飴くらいは食べればいいのにと思った。


「谷口さん、あっち行きたいです」


 私がそういうと手を繋いだまま、谷口さんはついてきてくれた。しかし、どうしても手は離してくれないらしい。このボディガードごっこに付き合わないと離してはもらえなさそうだった。


 試しに少しこちらの手を緩めてみると、それに反比例してぎゅーと強く握られる。逆にこちらがぎゅっと握ると私の手を掴む力は弱まっていた。それが少しおもしろくてその行動を繰り返してしまう。


「何して遊んでるの?」

「谷口さんの反応観察です」

 

 何が彼女の機嫌を損ねたのか分からないけれど、谷口さんはむすっとしてずっと強く私の手を握ってくる。


 私は屋台で食べ物が買いたくなって彼女の手を離そうとするけど、谷口さんは離してはくれない。


「屋台で買ってきたいので手放してください」

「このままいけばいいじゃん」

「いいから離してください」

 

 いつまでも彼女が頑固なので、少し怒り気味のトーンで話してしまった。最近の彼女はほんとに様子がおかしい。


 私がブンブンと手を振っても離してくれない。本気で苛立ち始めてしまったので、爪を彼女の手の甲に食い込ませて握った。痛かったのかスっと手は離れる。


 谷口さんがあまりに強く握るせいで、手が少しぺたぺたしていた。



「小さいりんご飴二つください」

「六百円になります」



 私は丸みを帯びたおばちゃんに小銭を渡し、手には二つのりんご飴が渡された。


 大きい方が良かっただろうか。


 いや、大きいのを買って、私のかんがえが勘違いだった時、食べるのが大変になるからこれでいいと思う。


 谷口さんは機嫌がいいとも言えない顔をしていたが、私が戻ってきたらニコニコ嬉しそうにしていた。


 私は何も言わずりんご飴を彼女にグッと差し出す。

 

「これなに?」

「りんご飴です」

「いや見ればわかる。どうしたの?」


 どうしたのと聞かれると困ってしまう。


 さっき谷口さんが食べたそうにしていたからなんて言えない。


 それでは、なんか私が谷口さんのために行動しているみたいで、そんなことしたら彼女にいつものようにからかわれてしまう。


「私も食べたかったので巻き添いです」


 あくまで、私が食べたかったということで話を進めれば問題ないだろう。


 りんご飴を受け取ってくれたものの、谷口さんの視線はりんご飴ばかりで私を見てくれなくなった。私を逃がさないと掴んでいた手にはりんご飴が握られている。


 それを望んでいたはずなのに、今はそれを望まない自分がいる。


 私があげたりんご飴のせいでボディガードごっこは幕引いたらしい。


 そんなくだらないことを考えるのをやめて、りんご飴に被っている袋を剥がした。そのまま舌で優しく飴をなぞる。甘いはずのりんご飴はベタベタと溶ける固体にしか感じなかった。


「紗夜、お金返すよ」

「いらないです」

 

 そんなものはいらない。ただ、今はなくなった手の感覚が欲しいと思っていた。


「ありがとう……」


 また、谷口さんはりんご飴に釘付けだ。


 私はそんな彼女に愛想を尽かし、歩き始める。そうすると谷口さんは急いで追いかけてきてくれた。


「勝手にどこかに行かないで」


 その言葉が欲しかったのだろうか。私は胸が高鳴り立ち止まる。



「私が勝手にどこにも行かないようにすればいいじゃないですか」


 自分の言ったことに少し後悔し、後悔の念と共に顔が沸騰する。


 これは違う。


 谷口さんが“どこにも行くな”と言うから、その方法を“自分で考えろ”と言っただけだ。


 谷口さんはりんご飴を持つ手を逆手に持ち替えて、空いた手で私の手を握ってきた。

 私の手にパズルみたいにハマった彼女の手は私の手よりも熱く、私の少し冷たい熱と交わっていく。


 隣を歩く谷口さんはぺろぺろとりんご飴を舐め始めた。


「おいしい……」

「そうですか?」

 

 私はさっき食べたけど、よく分からなかった。ただの甘い飴だ。


「紗夜からもらったから百倍おいしくなった」

「おじさんみたいなこと言わないでください」


 そうやって適当に言葉を並べる谷口さんは好きじゃない。好きじゃないのにその言葉は嫌いじゃなかった。


 ただの甘い個体を舐め続けたら、少し酸っぱいりんごが出てきて甘酸っぱくなった。

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