第51話 谷口さん、桜綺麗ですね
魔性の女に見とれていた私は急いで支度を始め、朝ごはんを食べて家を出る準備をした。
「谷口さん、まだですか?」
誰のせいでこんなに準備が遅くなったんだと思いつつも、私は急いで支度を済ませた。
ワンピースを着ている隣の少女は何度見てもかわいいので、今日はあまり見ないように心がけようと思う。
そういえば、今日どこに行くか全く聞いていない。
紗夜と出かけることに浮かれすぎて割と大切なことを聞き忘れていた。
「今日ってどこいくの?」
「いいから着いてきてください」
どうやら行き先は教えてくれないらしい。なにを思って、なにを考えて、今回、私を誘ってくれたのかわからない。
私達は歩くこと二十分くらい無言の時間を過ごしていた。
「っくしゅん!」
くしゃみが漏れてしまう。春は花粉症がひどいので仕事以外であまり外に出たくない。
今日も紗夜から誘われなければ外になんて出なかっただろう。
「花粉症ですか?」
「うん。症状ひどいんだー」
「それなのに外連れてすみません」
珍しく紗夜がしゅんとしていた。
紗夜と出かけることが嫌だったわけじゃないのに、私の思いとは裏腹な思いがいつも伝わってしまう。
「紗夜と出かけられるなら花粉症なんて屁でもないね」
「意味わからないです。花粉症はどうやっても花粉症です」
全くそのとおりだ。返す言葉もない。
「紗夜は?」
「私はそんなにです」
「私も若い頃は花粉症じゃなかったんだけどな。若い頃に戻りたい」
「そんな変わらないじゃないですか」
紗夜はいつも私が若いーとか言うと、そんなに変わらないと言い切る。
大学生の頃の私なんて、二十代後半なんて夢のまた夢だと思っていたのにあっという間に二十代後半になってしまった。
なんと、来月には二十六歳になってしまう。
紗夜から見たらただのおばさんだろう。
私が紗夜の立場ならきっとそう思う。
「いつか歳取ったら花粉症なるかもね」
「じゃあ、今すぐなりたいです」
「なんで? 辛いだけだよ?」
今日もまた紗夜の意図はわからない。
そんな会話をして歩いていると、ふわふわとピンク色の雪が降り始める。
「わぁ……」
思わず変な声を出してしまった。
あまりにも目の前の光景が綺麗だった。
紗夜が連れて来てくれた場所は県内で桜並木の有名な場所だ。
昔からこの町に住んでいるから近過ぎて友達や家族に誘われないと見に行かなかったけれど、こんなに綺麗だったんだとしみじみ感じた。
桜を撮る人達、舞っている花びらの間を歩く人達、立ち止まって桜を見あげている人達。
桜並木の横にはピンク色の川が流れている。こちらも幻想的で写真を撮る人達が多い。
綺麗な景色を見ただけなのにドクドクと心臓が速く動き始めて、じっとしていられない感情が込み上げる。
私は吸い込まれるように桜の大木に近づいていた。
桜から目が離せなかった。そして、その綺麗な桜を見て心が踊っていた。
私は綺麗なものがきっと好きなんだと思う。
綺麗な景色、綺麗な花火、綺麗な桜。
いつもいつも心が動かされ、感動して心が喜んでいる。
あまりに桜に夢中になっていて、紗夜のことを放ったらかしにしていたので、まずいと思って彼女の方を見たら、腰を抜かしそうになった。
「谷口さん、桜綺麗ですね」
「ふふっ」と声をこぼしながら紗夜は笑っている。
隣の少女があまりにも
こんなに笑う紗夜は年末以来だろうか。
何がそんなに彼女を笑顔にしたのかわからない。わからないけれど、私が半年分くらいの幸せをもらったことはよく分かった。
目の前の綺麗な桜と嬉しそうに笑う紗夜のせいで、自分の中の考えも気持ちも全てがぐちゃぐちゃとなり、呼吸すらも苦しいほど私は掻き乱される。
人は綺麗なものに感動し、胸が高鳴り、心動かされる。
今日は改めてそれを感じた。
紗夜は私にこの綺麗な桜を見せるために今日という日を約束してくれたのだろうか。
きっと、聞いても本物の回答は返っては来ないのだろう。しかし、さっきの紗夜の笑顔はそう誤解してもおかしくない顔だった。
なんだよそれ……。
私と綺麗なものを一緒に見に来たいとか、私が喜んでるのを見て笑顔になるとか、大人が簡単に勘違いしそうな行動を取るのはやめてほしい。
きっと、私にお世話になっているからお返しがしたいと思っているのだろう。
そう思わないと私の浮かれた感情が何度も浮遊するので、そう思って自分の気持ちを沈めるしかなかった。
「連れてきてくれてありがとう。桜綺麗だね」
「そうですね」
彼女の顔を横目に見るといつもの顔をしていた。やはり、さっきのは幻だったのかもしれない。
桜の花びらが舞う中、紗夜とゆっくりと足を進める。
色々な人とすれ違い、追い越し、追い越され皆で花見を楽しむ。
今日は紗夜と花見ができてよかった。
しかし、それだけではどうしても飽き足らず、彼女が私を誘ってくれた理由を聞かずにはいられなかった。
「どうして花見に誘ってくれたの?」
私の期待通りの回答が返ってきて欲しいという思いと、私の期待なんて全て振り払うような酷い回答が返ってきて欲しいという思いの両方が私の中にいる。
「桜が綺麗だったから――」
紗夜はそれ以上何も答えてくれなかった。
そんなの酷い。
桜が綺麗だったから私を誘った?
そんなの友達を誘えばいい。私である必要はない。
なんでそうやって私の期待のどちらにも振れないような回答をするのだろう。これでは私は首根っこを摘まれた子猫状態だ。感情が揺さぶられ続ける上に身動きが取れない。
「谷口さん、あっちに屋台あるんですよ。行きましょ」
私の気持ちなんて無視して紗夜は遠くに行ってしまう。
どんどん彼女の背中が小さくなっていく。
紗夜は振り返ってはくれない。
その背中を追いかけなければいけないのに足が動かない。
紗夜の背中を見つめ続ける私の頭や肩には、何枚もの桜の花びらが積もっていた。
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