第二章
第46話 夜にしてください
「ほら、早くしなよ」
「なんで私からなんですか? そしてなんで朝なんですか?」
「夜そんな遅くまで起きてられないから」
私は眉に力を入れたまま紗夜を抱き寄せた。
紗夜が帰ってくるまで起きているし、今からすることは夜でもいい。ただ、今は彼女にわがままを言って困らせたかった。
私にされることで悩んで一日中私のことを考えてればいいと思う。
紗夜はぶつぶつと文句を言っているが、逃げようとはしないので彼女にそっと唇を重ねようと少し屈んだ。しかし、私の口は紗夜の手に呆気なく覆われる。
「夜にしてください」
ぐぐぐと顔を押されて、残念ながら紗夜との距離が離れた。
紗夜が帰ってくるまで私が起きているということがばれているのか、私が寝ていたらこの約束がなくなって好都合だと思うのかわからないが、今は私の要求は通らないらしい。
だから、彼女の思い通りにならないようにどんなに疲れていても、眠くても、私は起きているだろう。
「紗夜の意地悪」
「谷口さんの変態」
私たちの会話は何も噛み合っていない。ただそれが私達の会話だ。この会話もこの関係も誰にも理解することはできないだろう。
自分が紗夜との関わり方を間違えたためにこうなってしまった関係に後悔もあるし、二人だけのこの特別な関係を誰と比べるわけでもないのに優越に感じている自分もいた。
紗夜は先月からバイトを始め、数日前に大学生になった。
本来なら喜ばしいそのことに私は素直に喜べないでいる。紗夜に対してこんな感情を抱くのは子供じみているし、気持ち悪いとすら感じるのに、自分の落とし所のないこの感情を無理やり彼女にぶつけていた。
彼女に全力否定されると思っていた私の意見は思いのほか受け入れられて、こうやって彼女がバイトに行く日はキスをすることになった。
しかし、紗夜はすごく嫌々そうにするから、さすがの私もかなり傷ついている。
それでも、こういうことが紗夜にできるのは私だけで、それがなんとか私の心の安然を保っている。
そして、この約束が嫌になり、バイトを辞めてくれる日を願っている。
いつの間にか紗夜は私の腕の中からいなくなっていて、台所でそそくさと作業をしていた。
その真剣な表情すらも私を釘付けにしてしまうほど彼女は美しい美貌をもっている。
正直、嫉妬してしまうほど彼女は美しい。そんな彼女が大学生になって、講義を受けたり、サークルに入ったり、バイトをしたりすれば、きっと多くの素敵な人に出会うのだろう。
それは私も大学生の時に経験してきた道で、その経験がなければきっと私はまた違う私として存在していただろうし、今、紗夜と一緒に暮らすこともなかっただろう。
だから、紗夜がいろいろな経験をしていくことを願わなければいけないのに、私は
紗夜がいろいろな素敵な人に出会っていけば、私がどれだけ魅力のない人間かわかってしまうのではないかと恐れていた。
「谷口さん、これ」
私の考えを遮って彼女は小さい包を渡してくる。弁当包みに巻かれたお弁当が私の手の上にずっしりと乗っかるので、私はそれを両手でしっかりキャッチした。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
いつもどおり挨拶をして、私は職場に向かった。
※※※
「谷口さん、今日の夜予定ありますか? 以前約束した食事でもどうかなと思って」
目の前の爽やかな男性が少し気恥ずかしそうに話しかけてきた。
約束……?
なんのことか全然記憶にないけれど、忘れたなんて言ったら私はかなりひどい人間になってしまうと思う。なんのことだろうと頭の中の記憶を漁り、彼を傷つけないように行動しようとしたが無駄だったようだ。
「前の飲み会の時に食事でもどうかって言ったら、今度ならって言ってくれたから誘ってみました。用事があるのなら大丈夫です」
小畑さんは悲しい気持ちを押し殺した愛想笑いをしていた。
一回目でしっかりと断っていなかった自分が悪いと過去の自分を戒める。
私は彼が傷つかないように、事実と嘘を張り合わせた回答でその場を乗り切ることにした。
「実は世話しないといけない子が家にいて、夜はちょっと難しい日が多いんです」
別に今日だって、紗夜は十一時くらいまで帰って来ないのだから、食事くらいなら行ってもいいと思う。
心春にも「もっと人付き合いを大切にしろ」と言われたので、彼の提案を受け入れるべきだったのかもしれない。
しかし、なにかあって紗夜が早く帰ってくるかもしれないし、帰って来た時に私がいなかったら心配してくれるかもしれない。
そんなこと絶対にあるわけないし、きっと私がいなかったら、紗夜は好運くらいに思うかもしれないのに、変な期待が胸に浮遊するので、私は家で彼女を待っていたかった。
「世話しなきゃいけないってペットとか?」
「まあ、そんなとこです」
ペットではないけど、猫みたいなものだろう。
回答してから、何飼ってるんだとか聞かれたらまずいなと思っけれど、就業時間中だったので彼はそれ以上の会話をしてこなかった。
職場の女性陣から言い寄られている小畑さんから食事の誘いを受けるなんてきっと光栄なことなのだろうけれど、私にとっては紗夜をあの家で待っていることの方が重要だった。
そんな複雑な感情を抱えたまま、午前の仕事は終わり、いつものように心春と昼休憩を過ごす。
「和奏さん、あの小畑さんに言い寄られてますな。で、なに話してたの?」
彼女はお弁当を食べながら前のめりに質問をしてくる。私は朝に紗夜からもらったお弁当を開きながら彼女の質問に答えた。
「今日の夜、食事どうかって言われただけだよ。まあ、断ったけど」
「それはかわいいかわいい従姉妹ちゃんのためですか?」
彼女は弁当を食べることをやめて、はにかんだ笑顔で聞いてくる。そうやって、私をからかうところは彼女の悪い癖だ。
「そうですけどなにか?」
ここで恥ずかしがったり、しどろもどろしたりすれば心春の思う壺だと思い、私は堂々と答えることにした。早くお弁当を食べたいのに、彼女のせいで全然お弁当に行き着かない。
「紗夜ちゃんはずいぶん愛されてますね」
小春はふふと笑みをこぼしながら昼食を再開したので、私も弁当箱の蓋を開けて昼食を食べ始めた。
お弁当の中身はいつも私が作るお惣菜が詰まっている。しかし、いつもとは違うお弁当だ。きんぴらごぼうの煮物を見て、つい笑みがこぼれてしまった。
歪なごぼうを口に運ぶ。
ごうぼうの表面には味がしっかりついていたが、噛めば噛むほど、ごぼうの生の味がして苦みを伴っていく。
中まで味は染み込んでいなかった。
当たり前だ――。こんなにも分厚いのだから。
その不格好なごぼうは紗夜の性格によく似ている。彼女の心の芯の部分に行き着くには強引な私でも届くのがやっとで、着いたかと思えばこの苦さだ。
彼女の性格そのものを表しているように思える。
大学生になったら自分がお弁当を作ると意気込んでいた彼女は未だに具材すらもちゃんと切れない。
そのことに安心している自分がいる。
どんなに大人びた容姿でも、大人だと言い張っても、彼女は年相応の女の子なのだろう。
ここ最近、日曜日は紗夜のための料理教室になっている。
料理を教えてもらう時だけは素直になるので、時間があるのなら毎日教えたいくらいだ。
料理はまだまだできないので、朝は必ず紗夜がお弁当を詰めてくれる。それだけで嬉しいのに、彼女は全然満足していないようだった。
「和奏、一人でニヤニヤし過ぎだよ」
心春は若干引いた顔で私を見ていた。
スマホのカメラをインカメにして自分の顔を確認する。たしかに、親友でも引いてしまうくらい今の私の顔はだらしない。
顔を両手でぺしぺしと挟み、いつもどおりの私に戻した。
「ちょっとうれしいことあってね」
「そっか。あんたが幸せそうでなによりだよ」
心春と顔を見合わせ、声を漏らしながら笑ってしまう。
仕事の合間のなんでもない時間が、紗夜のおかげで幸せな時間に変わっていた。
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