第45話 バイトの日はキスしよっか
「じゃあ、二人とも今日からよろしくね」
白髪混じりの頬が垂れたおじさんが、私たちに気合を入れてくれる。楓と私は慣れない返事をして、ホールに出た。
受験が終わったら必ず働こうと思っていた。それは、谷口さんに家具を沢山買ってもらったからだ。その分は出世払いと彼女と約束した。だから、少しでも早くお金を貯めて彼女に返したかった。
そして、理由はもう一つある……。
五月に谷口さんの誕生日が控えている。祝う理由も必要も無いけれど、私の誕生日にプレゼントをもらったので、借りを作ったままが嫌だった。
今まで谷口さんにあげたプレゼントはどれも両親のお小遣いから買ったものだ。今回だって両親から貰うお小遣いで買えばいいのかもしれないけれど、谷口さんの誕生日にあげるものは自分で稼いだお金で渡したいと思った。
谷口さんは自分のお金で私にプレゼントをくれたのだから、私も同じく対等でありたいと思ったのだ。
私と楓は大学近くの繁華街にある自営の居酒屋でアルバイトをしている。
ここのおじさんと楓は知り合いらしく、私がバイト探しをしている時に楓に相談したら一緒に働こうと言ってくれた。
正直、私は不器用でどんなバイトも出来そうにないと悩んでいたので、楓が一緒にバイトをしてくれるという提案は有難いものだった。
接客のバイトなんてできるのかと不安だったが、厨房やドリンクを作る裏方の仕事を多めにしてもらえると楓が言っていたので、この居酒屋で働くことを躊躇うことはほとんどなかった。
自営の店舗ということもあり、働いているのは
今日は私たちが初めての出勤なので、市内の大学に通う二個上の先輩が私たちに教えてくれることになっている。
松林夫婦はとても心の温かい人達で、私たちや常連さんを実の子供のように優しく、かわいがっている。
その人柄もあるのか、小さい店内は常に人で溢れていて、かなり忙しいバイトになりそうだ。しかし、まかないもしっかり出るし、友達もいるし、松林夫婦も先輩も優しいので最高のバイト先だと思った。
谷口さんは全然納得してくれなかったけれど、こんなにいいバイト先はなかなかないと思う。
まかないが出れば彼女が夜ご飯を作る手間も省けるし、私が家にいない方が一人でゆっくり出来るだろう。
高校生の時は私が邪魔をしてしまっていたので、彼女は一人で過ごす時間が少なかったと思う。
谷口さんはゆっくり出来る時間ができる上に私はお金を稼げる。家からもそう遠くはないので、紹介してくれた楓にはとても感謝している。
「楓ちゃんと紗夜ちゃんよろしくね〜」
高身長で短髪でいつも前髪をあげてセットをしていて、清潔感のある感じの人だ。私たちに話す時は笑顔で柔らかく話してくれるので、仕事で分からないことを聞きやすかった。
バイト初日は覚えることが沢山あり、大した時間働いていないのにぐっと疲れた。しかし、嫌な疲労感ではなく、胸に高揚感のある疲労感だ。
これからここで働くことが少し楽しみになった。ここでなら、多くのことを学べるだろう。
居酒屋で出す料理の作り方も教えてもらったら、谷口さんに料理を作りたいと思う。そしたら彼女は飲み会に行かず、家で晩酌をしてくれるだろうか。
そんなわけは無い……。
私が居る家でお酒を飲むより、友達との飲み会の方が楽しいのだろう。
谷口さんは私なんかに興味がなさそうに見える。興味が無いから私のわがままも流せるし、あんなに近い距離にいてもなんとも思わないのだろう。
私だって別に谷口さんのことなんてなんとも思っていない――。
「さよー? 大丈夫?」
「うっ、うん」
谷口さんのことを考えるといつも意識が彼女のことばかりに集中して、人の話が
「バイトどうだった?」
「疲れたけど、思ったより楽しかった。紹介してくれてありがとう」
「ううん。紗夜が楽しそうでよかった」
隣の少女は優しく微笑んだあと、はにかんだ表情に変わっていた。
「バイトの時間も紗夜と居れるなんて嬉しいなぁ」
「私も嬉しい」
「ほんと!? 最近、一緒に暮らしてるお姉さんばっかりで、私なんて必要ないのかと思った」
「そうかな……?」
楓に谷口さんの話はほとんどしていない。なのになんで谷口さんばっかりなのかよく分からなかった。
私たちはその後も何となく会話をして別れて、お互いの家に向かう。
まだ寒さの残る夜道は遅いせいか誰も歩いていない。バイトで上がった体温を冷やすように、夜道の風に吹かれてゆっくり歩いた。
いつもは日が落ちる前に触れるはずの玄関のドアノブを握って扉を開いた。
もう谷口さんは寝ているかもしれないし、もしかしたら起きているかもしれない。
いや……。明日は仕事だから布団に入って寝ているだろう。
それが寂しいわけじゃないけれど、疲れたせいなのか誰かに「おかえり」と迎えて欲しいと思った。
玄関から奥を見ると部屋は電気が付いていて、それは彼女がリビングに居ることを示している。その事に少しだけ喜びが芽生えた。
「紗夜、おかえり」
部屋に入ると谷口さんは眠そうな顔をしながら私に近づいてきた。
「ただいま戻りました」
「なにその他人行儀な感じ。やっぱり居酒屋のバイト向いてないよ」
「失礼ですよ」
接客が向いていないなんて自分が一番よくわかっている。そんなの谷口さんに言われなくてもわかるのに、彼女に言われると余計へこんでしまう。
谷口さんは私がバイトをすると言ってから様子がおかしい。バレンタインの時に怒らせたほどではないが、彼女との間にピリピリとした空気を感じてしまう。
そんな私の暗い気持ちを無視して、谷口さんは両手を広げて「早く来い」と言わんばかりに待ち構えていた。
「紗夜、今日の分」
「バイト終わりでくさいので、今日の分は無しにしてください」
居酒屋で働いたので食べ物の匂いが付いていたり、汗をかいたりしたので、今は谷口さんにそれを感じられたくなかった。
「そんなの関係ないから」
いいとも言っていないのに彼女は私の腕を勝手に引き、私を抱きしめる。ただ、それだけじゃない。そのまま顎をぐいっと上に上げられて抵抗できなかった。
目の前には苦しそうな顔をした谷口さんが居て、私の唇には彼女の柔らかい唇が当たっていた。
「た、にぐちさん?」
衝撃のあまり、変な声を出してしまう。
私の症状を治すという名目で谷口さんと一日に一回、手を繋いだり、ハグをしたりする約束だが、キスまでするのはなんか違うと思う。
練習の効果もあって谷口さんに触れることに対して嫌な気持ちは湧かなくなったが、それもすべて間違えているのだろう。
私たちは恋人でもなんでもないので、こういうことは本来するべきではないのだろう。ただ、そんな理屈も私たちの関係では通らない。
私は女性が苦手なのを治したいし、谷口さんはそれを本気で直そうと頑張ってくれている。
私たちはそのために一日一度だけ距離が近づく――。
そういう関係でいいのだと思う。そう思うしかなかった。
谷口さんは私をいつまでも離してくれないので、それが嫌だと言うべきなのだろうけれど、彼女の体温が私の体温より高くて、今はそれが少しだけ心地いい。
バイトで疲れて、外が寒くて体が冷えたせいなのだろう。
そんなことを彼女の腕の中で考えていると、谷口さんはまた唇を重ねてくる。それだけでは足りず、私の唇の間を通って彼女の熱を押し当ててくる。私はそれを噛んで拒否したはずなのに、今日の谷口さんはいつもと違って強引に舌で口をこじ開けてくる。
私の体には腕が回されて彼女と体が密着して逃げられない。いつもなら私の気持ちを優先してくれる優しい谷口さんは、今日はどこにも居なかった。
どれくらいの時間が経ったか分からないが、満足したのか谷口さんはニッコリとして私から顔を離す。ただ、私の体に回っている腕は力が入ったままだった。
「勝手に変なことしないでください」
「バイトどうだった?」
私の言葉は華麗にスルーされる。そのことに苛立ち、いつもより低い声で話を続けた。
「谷口さん、変な……」
私が言い切る前にまた唇に熱いものが重なる。今日の彼女はあまりにも強引過ぎると思う……。
「バイトどうだったの?」
「…………まだ一日しか働いてないからわからないです。ただ、楽しかったです」
谷口さんは自分で聞いてきたくせに、うんともすんとも言わなくなった。彼女の方を見ると急に真面目な顔をしているので、下の方に視線を落としてしまう。
「紗夜がバイトの日はキスしよっか」
「へ……?」
余りにも唐突すぎる彼女の言葉に疑問符が頭に浮かぶ。なぜ私がバイトの日にキスをしなければいけないのか全くわからない。
「意味わかんないです」
「意味わからなくていいよ。大学生なるんだしいいじゃん」
「もっと意味がわからないです」
私は意味のわからない谷口さんとこれ以上一緒に居たくなくて、彼女の腕の中で暴れ回った。肘が変なところに当たったのか、谷口さんは「痛い」と言いながら、私を離す。ただ、私の腕はすぐに掴まれて、逃がしてはくれないようだ。
「このままじゃ、いつまでも平行線だよ。少し大人になるんだし、そうやって慣れるしか治らないんじゃない?」
彼女の言っていることと、やっていることは支離滅裂だ。そんなことをそんな辛そうな顔で話さないで欲しい。
最近の彼女は全てがめちゃくちゃだ。
こんなのおかしいはずなのに、間違えているはずなのに、目の前の谷口さんを見て、自分の中でうごめく感情が現れた。
やはり、疲れている日はよくない。
思考がしっかりと回らず、なんでもいいかという考えになる。バイトを始めた後遺症なのかもしれないし、彼女に煽られて、口車に上手く乗せられただけかもしれない。
「バイトの日にキスするのいいですよ」
「生意気」
「谷口さんのせいです」
その言葉に満足したのか、谷口さんは久しぶりに笑顔になって私を見つめてくれた。その顔を見て私の胸は高揚していた。
この後、彼女の提案を受けいれたことをすごく後悔したけれど、この時は谷口さんの笑顔が見れてよかったなんて馬鹿な自分がいた。
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