第44話 明日からバイト始めます

「だから、それじゃ危ないって」

「わかってます」

「わかってないから言ってるの」


 私は彼女から包丁を取り上げた。取り上げた瞬間、信じられないくらい鋭い目つきで睨まれる。


 そんな目で見られても許せるわけがない。だって、今にも指を切りそうだったじゃないか。


 頑張ろうとして一生懸命だったり、諦めが悪かったりすることは素晴らしいことだけれど、危ないのは話が違う。


「返してください」

「じゃあ、私の言うこと守って?」

「……はい」


 紗夜が珍しくしゅんと下を俯いてしてしまったので、口調を和らげることに徹する。


 私は丁寧に食材の切り方を教えると、紗夜は難しい顔をしながらも私の言うとおりに具材を切ってくれた。最初の頃の自分の指を全て切り落としそうな切り方よりはまともになったが、まだまだ心配要素は残る。


 なぜ、こんなに真剣に彼女に料理を教えているかというと、彼女から料理の弟子入りの申し出があったからだ。


 どうやら、大学生になるに前に自分でお弁当を作れるようになりたいらしい。


 どういう心境の変化かわからないけれど、紗夜の方からあんなに真剣に頑張りたいと言われたのは初めてだったので、私も彼女の頑張りに応えたいと思った。


 最初に会ったころは何に対しても絶望して、生きる活力もないという顔をしていた彼女の目に少しだけ灯火が見えた気がした。


 紗夜は少し前に高校を卒業して、来月から大学生になる。今は春休みで家に居ることが多いようだ。


 四月以降も家に帰ってくれば紗夜がいて、こうやって話をしたり、共同作業をしたりすることが出来ると思うと胸の辺りがじんと熱くなる気がした。


 きっと私は寂しがり屋なのだろう。


 だから、誰かこの家にいて欲しい。それが紗夜じゃなくてもきっといいのだと思う。


 私たちは明日からのお弁当の具材と今日の夜ご飯の支度を終えて、食卓にご飯を並べた。


 

「紗夜はちゃんと私の言うこと聞いてくれれば、切るのとか上手なんだけどなー」

「……うるさいです」


 正面にいる少女はムスッとこちらを睨んでくる。


 彼女のこだわりなのか、なんなのかは分からないけれど、私が教えてないことに挑戦しようとする。その時の彼女はとても危なっかしい。


 紗夜が何かを思い出したの急に真剣そうな顔でこちらを見てくるので、私は彼女が話しやすいように耳を傾けた。


「そういえば……明日からバイト始めます」

「バイト!?」

「はい」

「聞いてないんだけど」

「言ってないですもん」


 全然知らない話だ。いつ面接に行って、いつ決まったのだろう。気になることが多すぎて質問を止めることが出来なかった。


「なんでバイト始めるの? なんのバイト? 何時から何時まで? 場所はどこ? 何曜日働くの?」


 私はかなりめんどくさい人間になっていると思う。ただ、親からの仕送りも沢山あるし、バイトなんか嫌いそうな彼女がバイトする理由が何も思い当たらない。


「質問多いです。バイトは大学生なったら始めようと思ってました。居酒屋で働くので、大体六時から十一時くらいまでのバイトになります。最初は週に一、二回。慣れてきたら週に三、四回に増やしたいです」


 紗夜は丁寧に私の質問に全て答えてくれた。言い終わると、こちらに目もくれず、黙々とご飯を食べ始めている。


 紗夜が居酒屋のバイト……?


 彼女が接客バイトをできるとは到底思えない。


 なにを思って居酒屋のバイトにしたのだろう。なにより、彼女はかわいすぎるからそんなバイトは危ないと思う。


 私は紗夜がバイトをすることに全然納得できなかった。


「場所はどこの居酒屋なの?」

「教えません」

「なんで?」

「教えたら谷口さんバイト先に来るかもしれないから嫌です」


 確かにその通りだ。


 彼女がバイトの日はこの家に私は一人になるわけだ。それなら、彼女のバイト先に飲みに行くのが時間を有効活用できると思う。なにより、変な虫が寄ってきたら、私が真っ先に殺虫剤をかけることができるだろう。


「教えてよ」

「絶対に嫌です」

「なんで居酒屋なの?」


 バイトなんて星の数ほどあるのに、なんでその中から居酒屋を選んだのだろう。紗夜にして欲しくないバイトランキングで上位に浮上してくるバイトだ。


「楓が一緒にやろうって誘ってくれました」


 あの子か……。


 紗夜に妙について回る友達のことを思い出した。その友達が紗夜を居酒屋バイトに引き込んだ張本人だとすると、次に会った時、大人の対応をできなさそうだ。


「夜だと危ないから心配なんだけど」

「もう大学生です。谷口さんに心配される筋合いはないです」


 その言葉に胸がじくじくと痛んだ。確かに、親でもなんでもない私が彼女のバイトにここまで口出しするのは間違えている。それでも、口出しせずにはいられない。しかし、私がこれ以上何か言ったとしても、紗夜の態度を見る限りバイトを諦めてくれるとも思えなかった。


 私が諦めるしかなくて、一度、自分の気持ちを落ち着かせるためにひと呼吸置いた。


 納得はいかないが、紗夜が一人でバイトをするのではなく、あの厄介な友達が近くにいてくれるのなら、変な虫は追い払ってくれるだろう。そう信じるしかない。そう信じて彼女のバイトを容認することにした。


「バイトは何曜日とか決まってるの?」

「なんでそんなこと教えないといけないんですか?」

「……」


 紗夜の行動をここまで知りたい私は確かにおかしいし、正直、気持ち悪い。


 ただ、知りたいという気持ちを抑えれなかった。


 帰ってくれば、彼女がいない日があることは私にとって、心の準備のいることだからだ。私は私欲のためではないと思えるそれらしい理由を並べた。納得する理由なら彼女は必ず答えてくれるはずだ。


「夜ご飯作るかどうか知っておきたい」

「……土曜日と平日のどこかです」

「ちゃんと前日には教えてね」

「はい」


 

 紗夜は私が考えている間も話している間も黙々と食事を進め、私の気持ちなんて無視だ。私は食事に全然手をつけられていないのに、彼女はすでに夕食を食べ終わっていた。


 私の気持ちは何も解決していないのに、紗夜は片付けを始めてしまう。紗夜はご飯の片付け担当で、それが終われば部屋に戻ってしまうだろう。しかし、それを逆手に取るとするならば、片付けが終わらなければ彼女はここに居てくれるということだ。


「谷口さん、食べないんですか?」


 彼女は早く食べろと言わんばかりの表情でこちらを見ている。早く片付けを終わらせて部屋に戻りたいのだろう。ただ、彼女の思いどおりになりたくない。彼女が少しでも長くここにいればいいと思った。


「食べ終わるまでそこに座ってて」

「なんでですか」

「バイト勝手に決めたから」

「谷口さんに関係なくないですか?」

「いいから座りなよ。私が食べ終わらないと片付けできないでしょ」

「はぁ……」


 紗夜はすごく嫌々そうな顔で椅子に腰を下ろした。


 どんなに嫌そうな顔をされてもかまわない。この時間を引き伸ばす方法を考えながら、ゆっくり夕食を咀嚼する。咀嚼し過ぎて何を食べていたか分からないくらい味が無くなるまで噛み続けていたと思う。


 明らかに食べるスピードがおかしいので、紗夜の顔はみるみる鬼のような顔に変わっていった。


「谷口さん、わざとゆっくり食べてません? いつもこんなに時間かからないですよね?」

「いつもこんなのだよ。明日から仕事なんだし今日くらいゆっくりさせてよ」


 紗夜は何も悪くない。こんな八つ当たりみたいな行動は子供でもしないだろう。

 

 今、紗夜から聞いた話は夢であって欲しい。


 夢じゃなかったとしても、やっぱりバイトが嫌だと言って欲しい。バイト先に私が頻繁に行けば、嫌になって辞めるかもしれない。辞めなかったとしても紗夜の外での姿が見れる。


 やはり、彼女のバイト先は意地でも調べる必要があると思った。


「バイト先教えて」

「嫌です」

「何かあった時、困るでしょ」

「何も無いので大丈夫です」

「じゃあ、せめて最寄り駅教えて」

「はぁ……広瀬駅です。私、部屋にいるので片付け終わったら呼んでください」


 紗夜は少し怒り気味で私が話す隙も与えず、ガタンと音を立てて立ち上がった。バタンと強めに部屋の扉を閉めて中に入ってしまう。


 私の思い通りにならないことなんて最初からわかっていた。ただ、少しくらい彼女が譲歩してくれてもいいと思う。


 何にも言い難い感情が私にまとわりついて、しばらく動くことが出来なかった。

 

 

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