第43話 変なことしてくるから嫌です
「出ていって」
いやだ……。
「谷口さん、ごめんなさい……」
「今更遅い。早く出ていって!」
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
「さ、よ……さよ……紗夜!」
目に眩しい光が差し込んでくると、視界はぼやけていて安定するのに時間がかかった。
目の前には先程まで冷たい顔をしていた女性がいる。しかし、その顔はどこか心配そうに私を見つめる顔だった。谷口さんは私の頬の冷たい雫を指で拭ってくれた。
「こんなところで寝てたら風邪ひくよ? 時間も遅いし部屋で寝な」
私はそのままソファーで寝ていたらしい。こんな自分はよくない。何もかもペースが乱される。
私は無意識に彼女を自分の方へ引き寄せていた。
「さ、さよ……?」
「谷口さん、ごめんなさい」
「あっ……うん……」
私が素直に謝れないとか、そんなことが理由で彼女を失うのが怖かった。あんな怖い夢を見てやっと謝ることができるなんて、私はまだまだ未熟なのだろう。しかし、あの夢のおかげで何が大切か理解し、自分の小さなプライドを捨てることができた。
「もうしないから今まで通りにして欲しいです」
「……あのね、私もごめん。大人気なかった」
「なんで、そんなに怒ってたのか教えてください」
今まで誰が私から離れていこうとどうでもいいと思っていた。母がいなくなってから私に必要な人はいなくなった。一人でもいいし、独りでも生きていけると思っていた。
しかし、今は違うらしい。
もう同じことはしたくない。
夢みたいに彼女がどこか遠くへ行くことが急に怖くなり、それが現実になって欲しくないと思った。
「うなされてたけど大丈夫?」
私の質問は軽く受け流されてしまう。谷口さんがいつもの谷口さんに戻っていた。私は体が震えていたらしく、それを落ち着かせるように彼女は背中をさすってくれている。
「怒ってた理由教えてください」
私が夢でうなされていたことなんてどうでもよかった。今はあの夢のようにならないように彼女のことをしっかり知りたい。
谷口さんは気難しい顔をした後に「はぁ」と大きくため息をついて肩を落としていた。
「チョコもらえたことが嬉しくて、一日一個ずつ大切に食べたかったのに、その楽しみ三日も削られて怒ってた」
「……それだけですか?」
てっきりもっと理由があるのかと思った。いや、それだけなんて失礼かもしれない。ことの大小はその人の価値観次第だ。
谷口さんにとってチョコ三個は本気で怒ってしまうくらい大切なものらしい。
「また買ってきます」
「それじゃ、意味ない」
「なんでですか?」
チョコくらいならいくらでも買ってくるから彼女に許して欲しかった。しかし、それでは意味がないらしい。今の谷口さんには何をしたらいいのか分からない。
私は先程までの不安がだいぶ落ち着き、少し難しい顔をして彼女を見ていたと思う。
「なんでもだよ」
谷口さんはそう言って私に顔を近づけようとするので口を手で押えた。彼女のしようとしていることはわかる。ただ、なんでこのタイミングなのか全くわからない。
「何しようとしてるんですか?」
「いいからだまってなよ」
「いやです」
「ほんとに反省してる?」
「…………」
前も似たようなことがあった。谷口さんは私が許しを乞うと必ずキスをしてこようとする。その行動が全く理解できないので、私は彼女の口を塞いでいる手に力を込めて彼女の顔を遠ざける。
距離が離れると谷口さんはとても不満そうに私を見つめてくるだけだった。
「チョコのことはすみませんでした。今後は気をつけます」
谷口さんを抱き寄せていた片腕を離すと谷口さんの手からもスルスルと力は抜けていき、私たちは向かい合わせで棒立ちになった。
「三日分……」
「三日分?」
「三日分何もしてないから今日はその分一緒に隣で寝て」
「谷口さん絶対変なことしてくるから嫌です」
「しないよ。年末だって何もしなかったじゃん」
たしかに、年末に一緒に寝た時は何もしてこなかった。ただ、そういう問題ではなく、怖い夢を見たせいで弱った今の自分のまま谷口さんと一緒に寝るのが嫌だった。いつの間にか手は谷口さんに捕まっていて、逃げ道を失っている。
「はぁ……」
「ため息つかないの」
谷口さんは私の頬をつまんで遊んでいる。その顔にはいつもの笑顔が浮かんでいて、一緒に寝るのが嫌とかそういう感情はどうでもよくなった。
谷口さんはいつも無理をした笑顔で私に接していたはずなのに、最近は子供みたいに表情がコロコロ変わることがある。それが私を苦しめる時もあれば安心させる時もある。今は彼女のその笑顔を見て気持ちが落ち着いている。
私はスタスタと谷口さんの部屋に入った。別に小さい頃に何回も一緒に寝たことはある。大人になってあの時と違うのは体が大きくなったくらいだ。何も意識することなんてないのに、今は心臓が体のあちこちにあるみたいにドクドクと脈打っている。
彼女が入った布団に手招きされるのが嫌だったので谷口さんより先に布団に入った。
当たり前のことだが、布団に入ると谷口さんの匂いがふわふわとしてきて壁しか見ていないのに自分の頭の中に谷口さんの顔が浮かぶ。私は眠れるように目をつぶると谷口さんの熱を背中に感じた。
「谷口さん暑い」
「私は寒い」
二月はたしかに寒い。しかし、今は谷口さんの熱を感じたくなかった。背中が、いや、谷口さんの触れている場所がどんどんと熱を帯びていく。感じたくない熱を感じて、眠気は旅の出てしまった。
「谷口さん離れてください」
「紗夜、こっちきなよ。約束と違うじゃん」
「なにもしないって言った」
「最近、生意気になった」
「なってません」
たしかに谷口さんの言うとおり、わがままが増えたのかもれない。わがままというよりは、私という人間を彼女に少しさらけ出すようになったが正しいかもしれない。
他の人の前では我慢できることも谷口さんの前では我慢できないことが多くなった。
「紗夜、こっち向いて」
いやだ。
いやだけど、これは三日分の消化活動で、義務だ。この任務をクリアしないと今日という日が終わらない。
だから私は谷口さんの方を向いた。
この時間が早く終わればいいと思ったから彼女の方を向いただけだ。今日が早く終わって明日になって、いつもどおりの生活に戻ればいいと思っている。
谷口さんの顔を見るとよく分からない顔をしていた。いつもならニコニコとしているはずなのに少し眉間に力が入っていて、何か言いたそうような雰囲気だ。そんな彼女を無視して、私は彼女の胸の辺りに顔をうずめた。
「私、全然だめだめだね」
「……?」
何を言いたいのかわからないことを言い出すので、顔を上げて彼女を見ると、おでこに唇が触れる。
「谷口さんの嘘つき」
「ごめんね」
谷口さんが珍しく暗い雰囲気で謝っている。そして、切なそうな顔で私の頭を撫でてきた。
「バレンタインもらえると思ってなくて舞い上がってたの」
「谷口さんだったら他の人からもらえそうじゃないですか」
「他の誰でもなく、紗夜からもらえたことが嬉しいの」
「それはどうしてですか?」
そんなことを言う谷口さんは谷口さんらしくない。彼女らしくないけれど、それも谷口さんで、彼女のことがもっと知りたいと思った。
「紗夜って変なところばかだよね」
「……?」
私が馬鹿で彼女の言っていることがわからないのか、谷口さんの言っていることが変なのかよくわからなかった。
ただ、今はそのどちらでもよくて、彼女が私からチョコをもらって喜んでいる理由が気になり、私はしつこく彼女に問いかけることをやめなかった。
「なんで私からのチョコは嬉しいんですか?」
「なんでもだよ」
なんて答えを期待したかはわからない。ただ、男性からも女性からも人気のありそうな谷口さんが他の誰でもなく私からのチョコが嬉しいと言った。
谷口さんは質問に答えてくれなくて、私のことを優しく抱きしめて、それ以上話してくれなくなった。
これ以上聞かせないと言わんばかりに、私のことを腕の中にぎゅっと収めて話させてはくれない。
色々知りたかったのに結局いつもどおり私が彼女に言いくるめられて、今日という日が終わろうとしている。
来年――。
もしも、次のバレンタインの時も彼女が私の隣にいてくれるのなら、また渡したいと思った。理由はわからなかったけど、普段、余裕そうで大人びている谷口さんが珍しく幼く感じた。それくらい彼女にとって私のチョコは効果的だったらしい。
かなり先の未来を楽しみだと思うのは小学生以来の感覚で胸の奥が少しむず痒かった。
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