第42話 返して?
「元気なさ過ぎない?」
「そう……?」
「なんかあった? 私には言えないこと?」
さすが楓だ。私が困っている時、彼女はいつも一番最初に気がつく。楓は心配そうに私を見つめていた。彼女には隠しごとは難しいようだ。
「普段全然怒らない人を本気で怒らせた時ってどうすればいい?」
「んー、誠心誠意謝るしかないんじゃない?」
そうだ。そのとおりだ。
ただ、そんな簡単に謝れるのならば私は苦労していないし、こんな恥ずかしいことを友達に相談していない。最近は何をしていても息苦しい。この自分に絡みつく息苦しさから、どうしても抜け出したかった。
「わかった。ありがとう」
何も解決していないけれど、私は楓にこれ以上心配をかけないように自分の気持ちを抑えてお礼を伝える。この嫌な感情を上手く隠せていたのか、楓からはひんやりとした空気は消え、私たちの間にはいつもの少し生暖かい空気が流れた。
「もうすぐ卒業式だね〜。まだ少し残ってるけど高校三年間あっという間だったー! 紗夜、ありがとね。そして大学でもよろしく!」
彼女は満面の笑みで私を見つめてくる。いつも私を助けてくれる楓が大学生でも隣に居ることがとても安心できるし嬉しいことだった。本当に楓には助けてもらってばかりだ。
「こちらこそありがとう。大学でもよろしくね」
「もちろん」
「私、大学では頑張りたいんだ」
「なにを?」
「自分のコンプレックス直したい」
楓は「えっ」という顔をして何も言わなくなった。きっと、私がそんなことを言うなんて思ってなくて驚いたのだろう。
社会人になるまでにこの症状を直して何とか普通に生活できるようになりたい。しかし、この症状が治れば谷口さんと一緒にいる理由はなくなる。
こんな短所は早く治って欲しいのに何故かそれが遅くてもいいと矛盾している私もいて、自分がよく分からなくなる時がある。
「紗夜、変わったね」
「そうかな?」
「うん。前の紗夜はそんなこと絶対言わなかった。まあ、とりあえず大学も楽しもうね」
私は楓と別れ道で別れて家に向かうことにした。
家に向かう足取りはいつもより重い。体が鉛のように重く、一歩一歩足を上げることすら億劫になっている。
素直に謝る――。
そんな当たり前のことが出来ない自分にうんざりしている。謝る相手が楓だったらすぐ謝れるし、素直になれるので全然苦労せず悩んでもいないだろう。
谷口さんにはなぜかそれができない。
そのせいで、数日ずっと悩んでいる。
谷口さんだって悪いと思う。変な行動をするから、私はそれを普通に戻したかっただけだ。何がそんなに彼女の気に触ったのかはわからない。わからないことに対して怒りを持たれることほど不安なことはないと思う。
なぜ怒っているのか聞ければいいのだけれど、それもできないで私はいつまでも動かせない岩の前に立っている気分だった。
「谷口さんのばか……」
谷口さんは馬鹿じゃない。ただ、彼女が悪いことにしないと、私という存在が押しつぶされそうでどうしようもなかった。
話は四日前に遡る。
※※※
「紗夜、私のチョコ食べた?」
「食べましたけど?」
「なんで食べたの?」
「なんとなくです」
谷口さんは珍しく顔を青ざめながら私に話しかけてきた。
谷口さんが毎日ニコニコしながら私のあげたものを大切そうに食べるからそれが嫌だった。
私があげたものを“特別なもの”みたいに扱う彼女その行動を見ていると、私が“特別なことをした”みたいで、胸の辺りに違和感が生まれ、かき消したくなった。
そんな馬鹿げた理由で早くその時間が短くなればいいと食べてしまったのだ。
彼女の顔はみるみる暗くなっていく。
「私、楽しみに取ってたんだけど……。人の勝手に食べるとか悪いとか思わないの?」
「私が買ったし、いいじゃないですか」
彼女は何も悪くないのに私は反抗してしまった。谷口さんは明らかに不機嫌そうな顔で私に近づいてくる。そのまま何も言わず私の顔を悲しそうに見つめていた。そんな顔をされても食べてしまったものはどうしようもない。
「もうお腹の中です」
「返して?」
そう言って私のお腹をぐっと押してくる。思いのほか、押す力が強くて下腹に力が入った。
「無理言わないでください。そして触らないでください。そんなに食べたいなら、また買えばいいじゃないですか」
「そういう問題じゃない。返して」
今日の谷口さんは訳が分からないし、いつまで経っても不機嫌だ。
こんな彼女は初めてで、どうしたらいいか分からなくなっていた。なにを言っても無駄そうなので、私は彼女を払い除ける。
「ただチョコ食べられたくらいで
こんなことなら彼女にチョコなんか渡さなければよかった。いつものお礼も兼ねて渡したのだが、そのせいでこんなめんどくさい事になっている。払い除けたのに谷口さんは私のことを掴んで離さない。
「大人気なくない」
「子供みたいなこと言わないでください」
彼女の顔を見ると少しだけ胸が痛んだ。
私が思っていたよりも何倍も辛そうな顔をしている。
もしかして、チョコが大好物だったのだろうか。それならまた買ってくるからそんな顔をしないで欲しい。
この状況が続くのが耐えられなかった。いつも優しい彼女が今日はずっと不機嫌だ。何が理由かもよく分からない。私はこの状況を変えたくて、なんとかその場しのぎの対応を考えた。
「そんなに言うならまた買ってくるので普通に戻ってください」
「そういうことじゃない。紗夜のばか」
谷口さんはそう言って、その日から私に目もくれなくなった。
※※※
最初は一日、二日で治ると思っていた。しかし、四日たった今も谷口さんは私と必要最低限の話しかしてくれない。
私がこの家に来た時と立場は反対で、谷口さんはこんな思いをしていたのかと今更反省した。今は喉にナイフを突き立てられているような気分だ。
今日もドアノブをひねり、重いドアをあける。
「おかえり」
それ以上の言葉は無い。今の私たちの関係でそれ以上のものを求めてるのも間違えているかもしれないけれど、いつもみたいに「今日はどうだった?」、「勉強の調子はどう?」とくだらないことでいいので聞いて欲しい。
今までの私の行動を考えればそんなことを思うのはわがままだ。
やはり、この状況を解決するには謝るしかない。ただ、理由の分からないことに謝ることが嫌だった。その場しのぎで謝ることも大切なのかもしれないけれど、私は原因の分からないことに謝れるほど大人ではなかったのだ。
ここ数日、一日一度の約束の時間もない。前はその時間が鬱で仕方なかったはずなのに、今はそれがないことが不安で仕方なくなっている。谷口さんを放っておけば、またどこかに行ってしまうだろう。
「谷口さん。あの……」
「なに?」
彼女のその言葉の冷たさに言葉が詰まってしまう。私は何かに取り憑かれたみたいに動けなくなってしまった。
「なんでもないです……」
「今日もお疲れ様。おやすみ」
彼女はすっと部屋に向かってしまう。その背中を見続けて扉が閉まるまで体は動かなかった。
私はソファーに腰掛けてブランケットにくるまる。ブランケットは谷口さんが洗ってくれるので彼女の匂いがふわふわとしていた。彼女にぎゅっと抱きしめられている時に感じる感覚になって、余計苦しくなる。
その匂いが鼻から体中に伝わると急に胸にぽっかり穴が空いたみたいな気持ちになって、この場に居ても立っても居られなくなりそうなのに、体は動かないと矛盾していた。
彼女のことが何も分からない。
それでいいはずだった。
ただ、こんなに苦しむのなら彼女をもっと知る努力をするべきだったと思う。
いつも私は谷口さんを傷つけたり怒らせたりしてばかりだ。谷口さんはなんのメリットもないのに、なぜ私を家に置いてくれるのだろう。
明日出て行けと言われてもおかしくない。
そんな不安に襲われながら私は背中を丸め、小さく縮こまりながらソファーに横たわっていた。
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