第35話 あんまり煽らないで――
隣を見ると私が何日も悩んで決めたピアスがブラブラとぶら下がっている。やっぱり、谷口さんにはこういうピアスが似合うと思った。何日もアクセサリー屋に寄っては彼女の顔を思い浮かべて何が似合うかなんて考えていた。
昨日まで冷たかったソファーの上は今はとても温かい。私は無意識にピアスのぶら下がる谷口さんの耳を触っていた。
「さよ、くすぐったい……」
本当にくすぐったいのか谷口さんが離れていくので耳からピアスに手を移してそれを引っ張る。
「ちぎれちゃう」
「こんなことじゃちぎれません」
私のピアスを掴む手に谷口さんがわざと手を重ねてきたので嫌になってピアスを離した。谷口さんは先程まで私が触っていたピアスを触ってにこにこしている。
「似合う?」
「まあまあですね」
「私はこれお気に入り。ありがとう」
笑顔でそんなことを言われるので私は何も言えなくなる。しかし、いっぱい悩んで良かったと思った。
「紗夜はピアス開けたいと思わないの?」
「痛いのは嫌いです」
「人に痛いことしておいてよく言うよ。耳たぶなら痛くないよ。大人になったら私が開けてあげようか?」
その言葉に私の少し上がっていた気分が大きく下がってしまう。やはり、彼女からみたら私はまだまだ子供なのだろうか。何歳になったら大人と呼べるのだろう。
「大人って何歳からですか?」
「さあ。私がそう感じたらかな」
谷口さんが私の耳にピアスを開けたいと思った時は私が大人になれたということなのだろうか? 彼女の発言はいつもよく分からない。その分からない言葉にいつも悩まされる。
「紗夜は今日から冬休み?」
「はい」
「いいなぁ。私もあと少しで年末休みだから頑張らないとー」
谷口さんはかなり脱力して私に少し寄りかかってきた。彼女の言葉に私が子供なのだと、また思い知らされる。谷口さんの今感じている仕事に対する気持ちを感じられるようになるのはまだまだ先になりそうだ。それが少し悔しくて、谷口さんがしたみたいに私も彼女に寄りかかった。
「今日、一緒におでかけしよっか」
「なんでですか?」
「ケーキ食べに行こう」
谷口さんはいつの間にか私に身体を預けていなくて、私だけが寄りかかっている。その体を起こして小さく「はい」とだけ答えた。
いつの間にか自分が寄りかかって甘えているみたいになっていたのが恥ずかしくなり、ブランケットに顔を
「気に入ってもらえたかな?」
「暖かいだけです」
「それなら良かった。じゃあ、出かける準備しようか」
隣から熱がいなくなりそうになる。今はもう少しだけ彼女の熱を感じていたかった。一週間ずっと寒かったからこれくらいは許して欲しい。彼女の腕を掴んで訳の分からないことを口にする。
「――まだ寒い」
言ってから後悔したけど、もう今はどうでもよかった。ブランケットが体をどんどん温めてくれるから冷静な判断ができなかっただけだと思う。
「あんまり煽らないで――」
谷口さんの抑えのきいた声が聞こえたと思ったら、私は彼女の腕の中でブランケットごと丸められていた。保護された動物のように優しく包み込まれて、彼女の体温を感じ、唇にも熱を感じ始める。
彼女の舌が私の唇をぬらりと這う。
それを拒否することだってできた。いや、拒否すべきだったのに、今は熱が足りなくて受け入れてしまった。
谷口さんが悪い。
私は一週間も寒い思いをしたせいで、今はなんでもいいから暖かさが欲しくなっている。
いつもより激しく交わる私たちの熱を感じながら薄目に彼女を見ると、うっとりとした目つきで私を見ていた。しかし、その目の奥には熱が籠っていて、私は見つめられただけで心臓がどんどんと跳ね上がり、呼吸ができなくなってしまう。
「今日は許してくれるんだ」
「ばか……」
呼吸がちゃんとできなかったせいで酸素が脳に回っていなくて、それしか言えなかった。そこから逃げ出したいのに谷口さんがそれをさせてくれない。ブランケットに巻かれた私は身動きがしばらく取れなかった。
チクチクと部屋の中に響く時計の針の音をしばらく聞いていると、少しずつ感覚が戻ってきて、谷口さんのしたことを責めなければいけないと思った。
「勝手に変なことしないでください。今ので今日の分はもう終わりですから」
「一週間分しようよ」
「嫌です」
「紗夜ってけちだよね」
ぶーぶーと文句を言っていたが、谷口さんがそれ以上変なことをすることは無かった。
お昼を過ぎたくらいの時間に私たちは外に出る。外は寒くて先程までいたソファーの上がどれだけ心地よかったか思い知った。
「おすすめのケーキ屋さんがあるんだー」
隣に居る女性はさっきのことなんてまるでなかったみたいに普通に話しかけてくる。こうやって私ばかりが取り残されて、彼女はどんどんと前に進んでしまう。それが時々とても苦しく感じる。私の歩くスピードは無意識に速くなっていた。
ケーキ屋さんに入るとキラキラとしたケーキが沢山あって、少しだけ気分が晴れてしまうなんて、私はまだまだ子供なのだろう。
「何ケーキが好きなの?」
「特に好きなケーキないです。谷口さんは?」
「んー。ここだったらやっぱりフルーツタルトが好きだったかな」
「今は違うんですか?」
「最近は甘くないのが好きだから違うの食べてるよ」
「じゃあ、フルーツタルトで」
谷口さんが好きというケーキを食べてみたかった。谷口さんを知れば少しは大人になれる気がしたからだ。
「紗夜って私のこと大好きだよね」
「好きじゃないです」
「即答すぎて傷つくよ?」
谷口さんは珍しく肩を落としていた。だって、そんなわけがない。私は女性が苦手で、それは谷口さんだって同じはずだ。
彼女のことは好きじゃないけれど、大人になるために彼女を知りたいと思う。だから、フルーツタルトを食べてみるだけだ。
谷口さんはブラックコーヒーとオレンジガトーショコラを頼み、私は紅茶とフルーツタルトを頼んで席に着く。谷口さんは食べるものまで大人っぽいものだった。
席についてすぐにケーキは届き、花柄の皿の上に乗っかるケーキに心踊ってしまう。
私の目の前にあるフルーツタルトは色々なフルーツが色とりどりに様々な形で乗せられていて、宝石みたいなケーキだった。きらきらとしているそれを食べるのが少しもったいないと思ってしまう。
「かわいいね」
その言葉にハッとして谷口さんを見た。今、彼女が「かわいい」と言ったのはこのケーキのことだ。一瞬でも自分のことだと思ってしまったことに恥ずかしくなってしまう。そんな恥ずかしさを隠すように話を続けた。
「食べるのもったいないですよね」
「うん。だから、手出してない」
私はむっとして彼女を見た。普通、そんな言葉を咄嗟に思いつくだろうか。遊び慣れている彼女にとっては普通なのだろう。
「遊び人ですね」
「紗夜だけって言ったら信じてくれる?」
その言葉に心臓をきゅっと握られるような感覚になる。私だけなんてそんなわけがない。谷口さんは私の反応を見て楽しんでいるだけだ。
「変なこと言ってないで早く食べましょ」
熱がどんどん集まる顔を見られたくなくて、ケーキに視線を落とし、彼女から顔を見えないようにした。
俯いたままケーキを口に運ぶとおいしくて、フォークが止まらなくなる。食べるのがあんなにもったいないと感じたケーキは、気がつけば半分もなくなっていた。一呼吸置こうと紅茶を飲むと温かさが体に染み渡り、心が落ち着いていく。
ケーキに夢中になっている私を見て谷口さんは微笑んでいた。その表情はいつもの無理をした表情ではなく、心から出る自然な笑顔に見える。
とても綺麗だった。
いつもそういう風に笑えばいいのに……。
谷口さんは無理をしている時ほどよく笑う。そういう彼女は好きではない。
そんなことを考えていると、谷口さんの手が私の顔の近くに伸びてきて、親指で唇を優しくなぞられるのでびくっと体が反応する。
「ついてるよ」
彼女は微笑んだまま私の口に付いたクリームをそのままペロリと舐めていた。
「やっぱり、フルーツタルトにすればよかったかなぁ。おいしい」
「そっちおいしくないんですか?」
「食べてみる?」
ケーキを一口サイズに切って「あーん」とフォークを私の方に向けてくる。恥ずかしいことを平気でしてくる谷口さんからフォークを奪ってケーキを頬張った。
口の中にガトーショコラとオレンジの酸味が広がる。私はあまり好きな味ではなかった。ガトーショコラだけならおいしいかもしれないけれど、オレンジが絶妙に絡んで、不思議な味のケーキになっている。
「こういうケーキ好きじゃないでしょ?」
「はい……」
「お子ちゃまだなぁ」
谷口さんは笑いながらコーヒーを啜っているので、それが気に食わなくて私はそのコーヒーも奪った。
苦い……。
谷口さんは私とは全然違うものを食べている。私は彼女くらいの年齢になったらこのケーキとコーヒーをおいしいと思えるようになるのだろうか。
今のところそんな想像はつかない。
「無理しなくていいんだよ」
「無理なんてしてないです」
谷口さんは声を小さく上げて笑っている。やっぱり私は子供扱いされていて、そのことに段々と苛立ちを覚える。
「子供扱いしないでください」
「してないよ」
「してます」
「してない」
谷口さんは口論の途中なのに私のケーキをつついて口に運んでいる。
「紗夜が子供なら私も子供だから大丈夫だよ」
「どういうことですか?」
「そんな眉間に皺寄せないの」
私はどういう意味か真剣に考えていると眉間をつんつんと触られるので、その手を勢いよく払い除ける。彼女はいつもそうやって話を逸らしてしまう。私の知りたいことは何も教えてくれない。
お皿の上にはケーキは残っていなくて、残っているのは谷口さんの苦かったコーヒーだけだった。
「紗夜の前ではかっこつけたくなるみたい」
彼女はニコニコと笑って、ゴクゴクとコーヒーを一気飲みしてしまう。「次行こう」と彼女に手を引かれて私たちはケーキ屋さんを出た。
「他に何するんですか?」
「イルミネーション見よう?」
「なんで……」
「今日はクリスマスだから」
谷口さんは嬉しそうに私の腕を勝手に引いている。一日一回の約束はもう終わっている。だから、今の私たちの距離が近くていい理由はない。
「行くのはいいので離してください」
「えー、カップル沢山見てたら私も繋ぎたくなった」
「また遊び人みたいなこと言わないでください」
「だからさっき……」
谷口さんは何かを言いかけて、口を
谷口さんから少し離れながら横に並び、木々に吊るされた光り輝く灯りを見ていた。イルミネーションに夢中になっていると、人が多くて谷口さんと離れてしまう。
きょろきょろと辺りを探すけれども、谷口さんの姿はなく、不安が胸をうろつく。
別に今の時代はスマホもあるし、はぐれてもすぐに会うことが出来るだろう。そのはずなのに、私は不安を拭いきれず彼女を目と耳で探し続けた。
「紗夜っ!」
その声が聞こえて、私の胸から一気にザワザワとした感覚がなくなっていく。谷口さんの口からは白い息が
「だから、手繋ごって言ったのに」
「子供じゃないからはぐれたって大丈夫です」
さっきまでは親とはぐれた子供みたいに不安になっていたくせに、急に強がってしまう。そんな私の気持ちを見透かしているのか、谷口さんは優しく頭を撫でてきた。
「じゃあ、私がどこにも行かないように見張ってて?」
私より少し高い位置にある彼女の顔を見ると、頬が赤くなっていた。寒いからなのか暑いからなのか分からない頬の赤さだ。
谷口さんがうろうろしないように私が見張るだけだ。私は何も言わず、彼女の腕に手を回した。谷口さんはそれに満足したのか私に合わせてゆっくり歩いてくれる。
二人で綺麗なイルミネーションを横目に歩き続ける。
その日は寒い日だったはずなのに、谷口さんがずっと隣にいてくれたから温かい日だった。
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