第33話 今は暖かいです

 カチカチとキーボードを叩く音が耳障りだ。

 

 しかし、この音を無視して手と頭を動かさなければ、いつまで経ってもこの不快感から抜け出せない。


 目の前の冷たくなったコーヒーを体に流し込み、目を細めながら明るすぎる画面を見ていた。

 

 

 仕事の繁忙期でこの時期は家に早く帰れない。そのことについて、元カノに何回も文句言われたことがある。仕事だから仕方ないので理解して欲しかった。私だってこんな素敵な日に働きたいわけがない。

 

 紗夜にとって、この一週間は私が居ないので喜ばしいことなのかと思っていたが、仕事で帰りが遅いことを伝えた時の彼女の顔が今も忘れられない。


 あんな悲しい顔をするとは想像もしていなかったので、すごい心残りがある。今日くらいはずる休みでもすれば良かっただろうか。


 

 彼女の家庭環境的にクリスマスというのはあんまり家族と過ごせてないのではないかと勝手に想像している。だから、私くらいは隣に居てあげたいと勝手に思った。しかし、この状況のせいでどうしてもそれが出来ないことを悔しく思っている。

 

 紗夜があんな悲しそうな顔をするから悪い。

 今も仕事に集中できなくなっている。


「はぁ…………」


 

 今日、私が隣にいたら紗夜は笑ってくれただろうか。


 最近、帰りが遅いので夜に帰っても彼女はもう部屋で寝てしまっている。朝食は一緒に食べるけれど、ほとんど会話もせずバタバタと二人とも学校と仕事に出かけてしまうので、今のあの家は同居人のいる、寝泊まりするためだけの家になっている。


 

「谷口さん、顔色悪いけど大丈夫?」

 

 隣で私以上にげっそりとした顔の先輩が心配してくれた。

 

 今の私はよくない。


 あまりにも自分のペースを乱されすぎている。しっかり気を引き締めなければと思い、その日も無理やり頭を動かして仕事を終えた。



 時刻は十一時を過ぎていて、家に着くのは十二時を過ぎるだろう。明日からは二日間休みに入るので家に帰れば、何とか一週間を乗り切ったことになる。もうひと踏ん張りだ。


 私はクタクタになった体に鞭を打って足を一歩一歩前に出して家に向かった。

 


 少しだけ――。


 少しだけ、紗夜が待っていてくれるんじゃないかと期待して家の扉をゆっくりと深呼吸しながら開ける。

 

 しかし、扉の先には真っ暗な世界が広がっていた。

 


 そんなわけがない――。


 紗夜が私のために待っているなんて、どんなに自惚れても期待してはいけないことだった。期待したせいで私の下がった気分を床から剥がせそうにない。

 

 

 手も洗わずリビングに向かい電気を付け、そのまま床に仕事用のバッグを落とした。


 部屋の中心へ向かうと、いつも紗夜とご飯を食べるテーブルの上に見慣れないものが置かれていて、吸い込まれるように近づく。


 視界に映るものに息を呑んだ。

 

 机の上にはかわいくラッピングされた小包が置かれ、一枚のメッセージカードが添えられていた。



『いつもありがとうございます』



 無地のメッセージカードにメリークリスマスではなく、いつもの感謝が並べられているあたりが紗夜らしくて口元が緩んでしまう。


 私は我慢できず小包を開けると驚いて何度も瞬きしていた。


「かわいい……」


 中には、シンプルだけれどどこかお洒落な雰囲気のあるチェーンピアスが入っていた。私は普段フープピアスばかり付けているので、この種のピアスは買ったことがない。


 音を立てないように小走りで洗面所に向かい、付けていたピアスを外して紗夜がくれたピアスをピアスホールに通す。


 目の前の鏡に映る女性はいつもの奇抜な感じが抜けて、ピアスを変えただけなのに大人らしい雰囲気が漂っていた。

 


 紗夜の方が私よりも私のことを分かっているのかもしれない。自分にはこういうピアスの方が似合うと初めて知った。


 誰に見られているわけでもないのにニヤけるのを我慢しようと顔に力が入る。私は表情の緩みを落ち着かせ、自分の部屋にあるものを取りに行った。

 


 今日の私には重大なミッションがある。

 

 紗夜が起きないように部屋に忍び込んだ。明日の朝渡せばいいのだろうけど、ちょっとでもいつもと違う紗夜が見れればいいと思った。


 紗夜はプレゼントを見たとき、喜んでくれるだろうか?


 目を丸くして驚くだろうか?


 それともこんなのいらないと言いながらも、プレゼントを離したくなさそうにしているだろうか?


 どれも私の淡い期待だけれど、私の自己満足のために彼女には付き合ってもらおう。

 

 すやすやと眠る彼女の枕元に赤いラッピングに包まれたプレゼントを置いた。本当は彼女の頬に唇を触れさせたかったけれど、起きてしまったら私の今年最大の重大任務は失敗してしまう。自分の欲望を抑えて大人しく部屋に出ることにした。


 

「――初サンタは成功だね」


 部屋には私の独り言と微笑む声が広がった。


 

 こうやって忍び込んでプレゼントを置いたことはないので、初めてサンタクロースになった気分だ。世の中の親はこんな気持ちでプレゼントを置きに行っているのかと思うと感心してしまう。


 今日の任務を全て完了すると、体から力が抜けて寝る準備を始めることにした。お風呂に入って一段落したのでお茶を入れてソファーに腰かける。


 先程、耳に着けたピアスを触って再確認した。


 

「紗夜からもらった初めてのプレゼント……」


 嬉しくて何度も触ってちゃんと着いているか確認してしまう。

 

 今日、紗夜は起きていなかったけれど、ちゃんとクリスマスだとわかって私にプレゼントをくれた。その事実が何よりも嬉しかった。


 そして、なぜ私にプレゼントをくれたのか理由が知りたい。明日聞いたら答えてくれるだろうか。きっと教えてくれないと思う。

 

 ただ、理由なんて知れなくてもあんな反抗的で不器用な猫が自分なりに考えて行動してくれたことが嬉しい。

 

 私は疲れすぎていたのもあるのか、そのまま喜びと共にソファーで眠りに落ちていた。



 ※※※



 バタバタと歩く音が聞こえる。


 目を開けると美少女が前に立っていた。彼女の片手には昨日枕元に置いたプレゼントが握られている。


 

「これ谷口さんが置きましたか?」

「おはよ。よかったねサンタさん来て」


 私は目をゴシゴシと擦りながらニヤッと笑って彼女を見ると、紗夜はムスッとした表情で私を見て、そのまま私の横にポスっと座って話を始めた。


「開けていいですか?」

「もちろん」


 彼女に何を買ったらいいか分からなかった。


 アクセサリーは重たい気がしたし、学生なので学校に付けていけないだろう。高価なものは彼女は絶対に受け取らないと思った。

 

 じゃあ何がいいかと言われると、何もいい物が思い浮かばなかった。


 ただ、なんとなくだけど彼女はこのソファーで毎日、私の帰りを待っていてくれたのではないかと思っていた。こんな寒いところで一人で縮こまって待っている彼女が何故か想像できた。だから、そんな寒い日に彼女を温めてくれるものがあればいいと私の妄想をプレゼントにしたのだ。


 

「これ……なんですか?」

「貸して」

 

 私はふわふわのブランケットをぶわっと広げて横にいる彼女を包み込んだ。私もブランケットの中に体を忍ばせる。


「暖かいでしょ? これあればこうやって紗夜と密着できるかなって思った」

 

 そんなのはただ自分の本心を誤魔化すための嘘でしかない。なんでこれなのかと聞かれるのが嫌だった。私が勝手に妄想して、紗夜が寒くないようにこれにしたと言えるわけがない。



「谷口さんってばかですよね」

 


 紗夜は私の肩に頭を預けてくる。近寄るなとか触るなとか言われると思っていたから思わぬ行動に私の心臓がついて行かなかった。そんな余裕のない自分を見透かされないように紗夜の手を握る。

 


「一週間、寒かったでしょ」

「はい――。だけど、今は暖かいです」


 紗夜は手を握り返してはくれなかったけれど、私の手を嫌だということもなかった。


 隣に居る紗夜の体温が心地よくて、この時間がずっと続けばいいなんて思ってしまった。

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