第31話 ここは紗夜の家でもあるんだから
なんで?
どうして?
どうしよう……。
「くるしい……」
目の前の子はそんなことを私に話しかけてきている気がした。
少し肌寒い季節になってきたはずなのに背中に汗がじとりと滲む。
谷口さんに相談したいが、彼女を怒らせたり悲しませたりしたらどうしようという焦りが背中だけではなく、体全体に浸透していき固まっていく。そんな体が固まりきる前に私はベランダから飛び出した。
台所で鼻歌を歌いながら料理をしている彼女の前にどうしたらいいかわからない顔で立ち尽くしてしまう。
「どうしたの、そんな顔青ざめて?」
「谷口さんどうしよう……お花枯らしちゃった……」
谷口さんが優しい声で私に問いかけるから、私はその優しさに甘えて彼女に伝えられることを伝えた。
もちろん、花が枯れたことが悲しいという気持ちもある。
しかし、私は彼女に任せてもらえた仕事すらまともにできない出来損ないで、彼女に必要ないと言われたらどうしようという焦りの方がこの時は大きかった。
谷口さんの方からは「ふぅー」というため息交じりの吐息が聞こえ、ますます私たちの間に緊張が走る。
「ごめんなさい……」
私はもう謝ることしかできなかった。
そんな私の頭に温かい手がぽんと乗せられる。そのまま谷口さんは少し
「そんなことでいちいち怯えないの。ここは学校でもなんでもないんだから」
「えっ――」
思わぬ言葉に私は彼女をずっと見つめていた。そんな私の手を引いて谷口さんは少しルンルンでベランダに向かう。
彼女はベランダを見るなりその枯れた花を見て少し微笑んでいた。
なんで……?
大好きな花を枯らされたら普通は怒るものではないのだろうか? その枯れた花を愛おしそうに見つめる彼女の心情が全く分からなかった。
「毎日、水たっぷりあげてたでしょ?」
「はい……」
このベランダの中でも特に気になる花だったため、丁寧に育てているつもりだった。たくさん大きくなって欲しい。健康ですくすく育って欲しい。そんな思いで面倒を見ていたつもりだったから、枯れてしまって余計苦しくなっていた。
「チグリジアって水やり過ぎると枯れやすくなるんだよ。水はけのいい土壌を好むからね。あと、寒さに弱いからそろそろ家の中で育てた方がいいかもね」
谷口さんはそう言って家の中に植木鉢を持っていこうとしている。
「どうするんですか? もう枯れてますよ……」
「これくらいなら大丈夫。植物って意外と強いんだよ?」
そのまま部屋の中の少し日当たりのいい場所に植木鉢を置いていた。何が大丈夫なのか分からないけれど、谷口さんの「大丈夫」はとても安心感のあるものだった。
「ちゃんと育てなきゃって思って水あげ過ぎてました。勉強不足ですみません」
「植物っておもしろいよね。人間みたいにその子その子に個性がある。育つ環境も違うし、強い子もいれば弱い子もいる」
目の前の女性は枯れた植物を笑顔で見続けている。
谷口さんからもらった本でいろいろ勉強していたつもりだったが、この花にそんな特徴があるなんて知らなかった。どうやら、知った気になって花の世話をしていたらしい。
私は人に対してもきっとそうだったのだろう。
その人のことをしっかりと知る努力もせずにただ愛情を注げばうまくいくと思っていた。
だから、失敗した――。
植物にまで同じことをしてしまうなんて私はいつまで経っても体だけが大人になり、心は子どものままずっと止まっている。
そんな自分のことを受け入れられなくて自己嫌悪に陥っていた。
「人間も同じだよね。良かれと思って愛情を注げば愛想つかされたりする。でも、
なにが面白いのか谷口さんはふふっと笑っていた。そして、彼女のその言葉に心臓がどくりと音を鳴らし始める。私の考えていることが顔にでも書いていたのだろうか。なんで急にそんな話を始めるのか分からなくて不安が押し寄せる。
「ごめんなさい。次からはしっかり調べます」
「もう謝らないでよ。さっきも言ったけど、ここは学校でも紗夜が気を使う場所でもないよ。ここは紗夜の家でもあるんだから――」
私はその言葉を聞いて息を吸って吐くことを忘れてしまっていたらしい。どんどん苦しくなり耐えられず息が漏れ出る。そんなおかしな様子の私を彼女はそっと抱きしめてくれた。
「谷口さん――?」
「これは今日の分だから大人しく話聞いて?」
そのまま私は頭を撫でられていた。そのことに苦しく締め付けられた胸が少しばかり緩んでいく。
「不安になる気持ちもわかるけど、紗夜のそうやって花を大切にしたいって気持ちが強いところはすごく素敵なところだから、もう気にしないで。枯れたっていいからまた二人で育てよう」
その言葉にはっとして、顔を上げて彼女を見ると、いつもの優しく悪いことを考えている時の笑顔をしていた。しかし、その言葉とその笑顔で私は苦しさから解放されていく。
谷口さんはいつも私の欲しい言葉をくれる。
花を枯らしてしまったことを許してくれるだけで十分だった。それなのに、私の行き過ぎた想いまでも彼女はまるっと包み込んで許してくれる。
いつまで経っても彼女には追いつけない。
そんなことを感じてしまった。こんなのでは、私はいつまでも彼女の優しさに甘えて、いつまでも自分のことを好きになれない気がした。
「もう同じことはしません」
「ふふ、それじゃあ本屋にでも行く?」
「行きます」
私は彼女の温かく心強い腕から抜け出して急いで準備を始める。
その日、それぞれの花の育て方が丁寧に書いてある本を色々な本屋に探しに行った。谷口さんは文句も言わず嬉しそうに一日中私の隣にいてくれた。
何かに対してこんなに必死に頑張ろうとまた思えるなんて想像もしていなかった。何となく過ぎる毎日を何となく過ごして、何となく生きていく。
それが私だと思っていた。
谷口さんはそんな“何となくの私”を“意味のある私”に変えてくれる。
そのおかげで私は今が楽しいと思えた。
一週間後、チグチジアは驚くほど元気になっていて「ありがとう」と伝えてくる。谷口さんは隣で一緒に見ていたけれど、それが聞こえているような様子でもなかったので、私が代わりに「ありがとうございます」と伝えた。
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