第29話 紗夜が居てくれてよかった

 私の風邪はかなり長引いてしまい、土日はほとんど寝込んでしまった。谷口さんはせっかくの休みなのに文句も言わず、私につきっきりで看病をしてくれた。


 そのことに胸がぎゅっと締め付けられる。ここに来てから、谷口さんに助けられてばかりだ。


 それに比べて私は……。


 まだまだ自分が子供なのだと痛感する。


 高校生は残り少ない。大学はお金のかからない近くの大学に行こうと思っている。今のまま勉強を続ければ余裕で入学できると言われている学校だ。


 せめて、大学生になったら働いて彼女に色々恩返ししたいと思っている。そのために今日も学校に行かなければいけない。

 

 私は部屋から出てリビング向かう途中で違和感を感じた。


 いつもの谷口さんの生活音が聞こえない?


 リビングには彼女の姿はなかった。

 

 私は焦って谷口さんの部屋のドアをノックすると、中から弱々しい声が聞こえた。


「ごめん、寝坊したから冷蔵庫にあるご飯適当に温めて食べて欲しい」


 話し方はいつもの谷口さんだが、声はいつもの谷口さんじゃない。


 

「谷口さん、どうしたんですか?」


 そう聞くと返事はなかった。何があったのだろう……? いつもとは違うことに不安を感じ始める。


「部屋入っていいですか?」

「……だめ」

「どうしてですか?」

 

 私が谷口さんに拒否されることなんて今までなかったから、余計不安になり、強めな口調で聞いてしまった。


「だめなものはだめ」


 谷口さんは譲ってくれない。

 

 私は嫌われるかもしれないし、怒られるかもしれないとわかっていながら、自分の体を止めることはできなかった。扉を開けると谷口さんは布団にくるまっている。


「だめって言ったじゃん……」

 

 ベッドの近くに行くと彼女は顔を真っ赤にして咳き込んでいる。



 だから、移ると言ったのに――。



 これは谷口さんの自業自得だ。私はちゃんと忠告した。彼女がその言いつけを守らなかったのが悪い。


「谷口さんってあほですよね」

「冷たい……」

 

 その声があまりにも弱々しくて私の胸は苦しくなっていく。私のせいでいつも彼女に迷惑をかけ、苦しませてしまう。


 私はバタバタと部屋を出て、スマホで学校に連絡をした。お母さんが頑張って私を学校に通わせてくれていたから、何があっても一度も学校は休んだことがない。今だってこうやって学校に通えるのはお母さんのおかげだと思っている。だから、私は学校を休んではいけない。

 

 ただ、こんなにめんどくさい私をめんどくさくてもなんでも受け入れてくれたのは谷口さんだけだ。


 どの家に行っても私がこんな性格だから邪険に扱われていた。谷口叔母さんも口には出さなかったけれど、難しそうな顔をしていることが多かったから、きっと沢山迷惑をかけていたのだろう。


 しかし、谷口さんだけはどんなにひどいことをしても、ひどいことを言っても、私のそばにいつも居てくれた。

 

 これはそれのただの恩返しだ。


 なにも返さないでいるのが嫌なだけだ。

 


 何も考えず急いで家の外に出ていた。

 

 近くのスーパーで必要なものをカゴに投げ入れる。何を買ったらいいかなんて調べずに出てきたから、どうしたらいいかわからなくて、あたふたと店を駆け回っていると、私の様子を心配した店員さんが色々と優しく教えてくれた。


 私はどこに行っても助けてもらってばかりで、自分はどこまでも無能なのだと感じる。


「大事な人の体調早く良くなるといいですね」

 

 色々と教えてくれた定員さんは優しく微笑んでいた。私は誠心誠意「ありがとうございます」と伝えて店を出る。

 


 ――大事な人。


 谷口さんはただの従姉妹で、ただの同居人だ。


 そんな大層なものではない。


 谷口さんのことで必死になっていたとはいえ、私は女性の店員さんと普通に話して、普通に接していたことに店を出てから気が付き、驚きを隠せなかった。人が風邪を引いて、それを助けたいために必死になっていただけだ。余計な考えを振り払うように私は急いで家に向かった。


 家に付くと谷口さんがリビングにいる。


「何してるんですか?」

「紗夜、ご飯食べたかなって。学校は?」

 

 私が見てもわかるくらい辛そうで苦しそうなのに、なんで私の心配なんかするのだろう。


 ほんとにこの人は馬鹿だ。


 

「谷口さん、こっち」

 

 私は彼女の熱のこもった手を引いて部屋まで連れ戻した。

 そのまま布団に寝かせる。


「紗夜、学校は? 私は大丈夫だから」

 

 そんな具合の悪そうな顔をしていてよくそんなことが言える。そして、なんで私に嘘をつくのだろう。私は冷えピタを彼女のおでこに貼って彼女の真っ赤な顔を睨んだ。


 

「次、布団から出たら手噛みちぎりますからね」

「それは怖いから大人しくしとく」

 

 谷口さんは壁の方を向いたので大人しくしてくれそうだ。


 私は台所で買ってきたお粥を温めて、昨日まで谷口さんが飲ませてくれた風邪薬を用意する。スポーツドリンクと飲むゼリーもいいと聞いたので、それも部屋に持っていくと、お盆に全部乗せていたせいで足つきがおぼつかなくなった。


「大丈夫?」

「心配しないでください」

 

 私の方が元気で谷口さんの方が辛いはずなのに、なぜか私が心配されてしまう。そんな自分が情けなくて嫌になる。

 

「これ食べて、薬飲んでください」

「紗夜が食べさせてくれないの?」

 

 谷口さんを見ると辛そうだけれど、いつもの余裕そうな谷口さんがどこかに居て少しだけ苛立ちを覚える。


「自分で食べてください」

「紗夜が食べさせてくれないなら食べない」

 

 谷口さんは年甲斐もなく頬を膨らましたままそっぽむいてしまった。おでこには冷えピタが貼られていて、今だけは本当に子供みたいだ。

 

 そんな彼女は見たことがないから、少しだけ微笑んでしまう。そんなことを考えている場合ではないと谷口さんを見ると、恐ろしいものを見た時のような驚いた顔をしていた。


「口開けてください」

 

 私が食べさせないと彼女は食事をしないらしい。だから仕方ないから私が口に運ぶだけだ。谷口さんは自分で言ったくせに、私がそのことを実行するとびっくりして腰が抜けたみたいな間抜けな顔をしていた。

 


 口までお粥を運ぶと大人しくそれを食べてくれる。もぐもぐと私が口に運んだものを喜んで食べる彼女は犬みたいだった。


 全て完食してくれたので、私はスポーツドリンクと薬を差し出すと、谷口さんはまた悪い顔をしていた。


「私がしたみたいに薬飲ませてよ」

 

 私は風邪で朦朧としていた時のことを思い出し、顔から火が出そうなほど熱が集まるが、それを隠すように嘘を並べた。


「なんのことかわかりません」

「覚えてないの?」

「風邪で意識朦朧としていたので」

「そっか。残念」

 

 最後までとぼけるとそれは案外バレずにすんで、谷口さんは自分で薬を飲んでいた。


 それを見て私は安心して部屋の外に出た。



 



 

 



 おかしい……。


 谷口さんの体調が全然良くならない……。

 

 ちゃんと風邪薬は飲んだのにさっきよりも苦しそうで、もうさっきみたいに冗談を答えてくれるような様子でもなくなっていた。


「大丈夫だから部屋の外にいて」


 そう言われて私は胸がズキズキと痛む。


 私では役に立たない。


 何も出来ない。



 その事に呼吸すら苦しくなっていく。


 このまま谷口さんが倒れてしまったらどうしよう。下手したら会えなくなってしまうかもしれない。救急車を呼ぶべきだろうか?

 

 私は何もできることがなく、部屋の外に出ようとするとテーブルの上で谷口さんのスマホに着信が入っていることに気がつく。

 

 画面には『心春』と表示されていた。以前、谷口さんが飲みに行ったと言っていた友達だろう。


 私一人ではどうしようもなく不安になり、誰かに助けを求めたいけれど、私の知る人では誰も助けてくれそうな人はいない。

 

 誰でもいいから助けて欲しい。


 その一心だった。


 


「あー和奏ー? 今日休んだけど大丈……」

「心春さん急にすみません。助けてください」

「お、おう?」

 

 私は詳しい事情を説明すると二十分くらいで心春さんが家に来てくれた。


「すみません。こんなことお願いして……」

「いいのいいの。教えてくれてありがとう」

 

 心春さんは私の頭を撫でてくれようとしたがそのことに体が無意識に反応してしまい、変な目で見られる。


「バカ和奏さん。大丈夫ですか?」

「心春、遅いよ」

「だって仕事だったし、あんたがこんなやばいと思わなかったからね。朝連絡入ってる時点で来るべきだったね」


 

 私はその会話を聞いて胸がズキズキと痛んだ。私には嘘をついて苦しいことを教えてくれなかったのに、朝の時点で心春さんには連絡していたらしい。


 それくらい、心春さんは谷口さんにとって頼りになって信頼できる人なのだと痛切に感じた。

 

 心春さんは強めの風邪薬を買ってきてくれていて、谷口さんはそれを飲もうとする。


「それそのまま飲むと胃に悪いから何か食べてからの方いいんだけど」

「食欲無い」

「あ、こんな所にいいのあるじゃん」

 

 心春さんがひょいと拾い上げたそれは、私がさっき買ってきた飲めるゼリーだった。


「これ、紗夜ちゃんが買ってきてくれたの?」

「はい……」

「ファインプレーじゃん」

 

 心春さんは私にグッとポーズを構えてきた。心春さんがそう言ってくれて、先程までの息苦しさが少しだけ和らいだ。


 谷口さんはそれをごくごくと飲んで風邪薬も体に入れている。


「あと、めっちゃ汗かいてるから着替えれば落ち着きそうだね。着替えどこにある?」

「あっちの棚にある」


 心春さんは谷口さんの下着とパジャマを持ってきてタオルを探していた。私はそのやり取りに心臓がとくとくと鳴り止まなくなる。


 無意識に心春さんの手を掴んでいた。


「私がやります」

「だってよ、和奏」


 谷口さんは少し驚いた表情をした後に難しいことを考える時の顔をしていた。


「私の体触りたくないでしょ? 大丈夫だよ心春に任せるから」



 谷口さんはそう言っていたが、彼女の話を無視して私は無意識に心春さんを睨んでいた。



「私がやる」

「和奏のこと取って食ったりしないからそんな顔で見ないの」

 


 心春さんは私の捻くれた態度に大して、優しく微笑んでいてくれた。谷口さんといい、大人の人はよく分からない。何でそんな余裕そうなのか……。


 もしかしたら、谷口さんを失ってしまうかもしれないと不安だった私がバカみたいに思えてくる。まず、私が心春さんに対して嫉妬しているみたいに思われていそうで嫌だ。そんなことをぐるぐると考えていると、心春さんは荷物をまとめて出て行こうとしていた。


「紗夜ちゃん、あとは任せたよ!」

 

 心春さんは最初から最後までこんな私に優しかった。そして、心春さんのおかげで私の気持ちが和らいだことは揺るぎない事実だ。


「……心春さん……ありがとうございました」

 

 私はお辞儀をすると心春さんは嬉しそうに笑って帰っていってしまう。


 私と谷口さんのみが部屋に残された。

 


「服脱いでください」

「やだ」

「なんでですか。それじゃあ風邪治らないですよ」

「紗夜に見られたくない」

 

 わけがわからない。


 二人で温泉に入った時は隠す気すらなかったくせに今更何を言っているんだ。


 私はベッドの上に腰をかけて谷口さんのボタンに手をかけると手を払われた。今日の谷口さんは私を何度も拒絶してきて、私の胸は引き裂かれそうな気分だ。


 私はそんなに頼りないだろうか?

 私に触れられるのはそんなに嫌なのだろうか?


「自分で出来る」

 

 谷口さんは相変わらず頑固で、するすると私の前で服を脱ぎ始める。私は下着姿になった綺麗な谷口さんの体から目が離せなくなっていた。


「紗夜の変態。見すぎ」

 

 そう言われて急いで目をそらす。谷口さんは結局、自分で体を拭いて着替えをしてしまった。



 「もう大丈夫だよ」と少し元気になった声が聞こえ、谷口さんは壁側を向いて布団に入った。



 今日はむしゃくしゃする。

 

 私にとって谷口さんは嫌でも必要な人なのに、谷口さんにとって私は別に要らない人間なのだ。


 谷口さんが苦しいのに、私は彼女に何もしてあげられなかった。


 今も私が谷口さんにできることを探し続けているが、私では何も出来ない。何も無い私は無能過ぎてここにいる価値すらないのではないかと思えてくる。

 


 私は勝手に谷口さんのベッドに入っていた。


 熱で顔が真っ赤な彼女は驚いた顔をして私を見ている。私はそのまま谷口さんの柔らかい部分に唇を重ねた。しばらくして、私は彼女から離れ、そのまま谷口さんの肩に顔をうずめて、彼女の服をぎゅっと握る。

 

「人に移したら風邪って早く治るんですよね……」

「紗夜から移った風邪だから紗夜はもう移らないよ?」



 そんなの理解わかっている。


 わかっているけれど、私がもっと苦しくて辛い風邪を引いてもいいから、少しでも早く谷口さんの風邪が治ればいいと思った。


 彼女の服を握る私の手は震えている。


 ふふっと谷口さんの優しい笑い声が聞こえ、私の震えた体は彼女にそっと抱き寄せられ、頭は優しく撫でられていた。



「紗夜が居てくれてよかった」



 その言葉が本音だったか分からない。


 ただ、その言葉だけで私の冷たかった心に少しづつ熱が戻っている気がした。

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