第28話 風邪って人に移した方が早く治るんだよ
苦しい……。
今日は谷口さんと約束の日なのに体が重い。
谷口さんが私に見せてくれるものはいつも綺麗なものばかりなので少しだけ楽しみだった。線香花火も誕生日のケーキもきらきら輝いて私の心は踊っていた。だから、彼女が綺麗だという紅葉が見たい。
私は気だるい体を起こして、リビングに向かった。いつもどおりご飯を食べればきっと元の私に戻るはずだ。台所の方から谷口さんの生活音が聞こえると少し安心して、呼吸が落ち着き始める。
「紗夜、おはよ…………?」
私は朝の準備をする前にソファーに雪崩るように腰を下ろしてしまった。私の様子がおかしいことにすぐに気がついた谷口さんはパタパタと近づいて来る。
「紗夜、熱あるでしょ」
心配そうな顔をした谷口さんは私の目の前に屈んで、おでこに手を伸ばしてきた。その手が冷たくて心地よく感じる。
「少し休めば大丈夫です」
「今日は出かけるのやめようか」
「それはいや!」
私は大して力の入らない体に力を入れて無意識に彼女の肩を掴んでいた。
もちろん私が楽しみだったと言うのもあるけれど、もっと楽しみにしていた谷口さんを悲しませたくなかった。私はいつから谷口さんのことまで考えて行動するようになったのだろう……。
意識は朦朧とし始めていて、目の前にいる谷口さんは辛そうな顔をしていた。
なんで……?
私は谷口さんに簡単に背負われて、部屋に運ばれる。
「ちょっとまっててね」
谷口さんはいそいそと部屋を出てしまった。なんでよりによって今日なのだろう。運が悪い。私が風邪を引いていなければ、今頃、谷口さんは横で笑っていたのだろうか。
私は体が火照っていて天井をただ見つめることしか出来なかった。そんなに時間が経たずに谷口さんはすぐ戻ってきて、心が落ち着いていく。
「辛いと思うけど、お粥作ったから食べて」
私の背中に谷口さんの腕が回され、ゆっくりと起こされて、お粥を口に運ばれる。吐き気が酷く、体の中に物を入れることを拒否しているので首を横に振ってしまった。
「ごめんなさい……食べれない……」
こんなに弱ったのはいつ以来だろう。こんな情けない弱い自分を谷口さんに見られたくない。
「本当はご飯食べてからがいいけど、胃に優しい風邪薬あるからそれだけ飲んで?」
私はそれも首を横に振った。たぶん、水を飲むことも受け付けたくないほど熱が上がり具合悪かった。
「はぁ――」
谷口さんのため息が聞こえて余計胸が苦しくなり、思考が停止し始める。
こんな私は迷惑だ。明日、「出て行け」と言われるかもしれない。身体はこんな状態で冷静に考える頭がないはずなのにそんな悪い妄想ばかりが浮かぶ。
谷口さんはいつの間にかベットに腰かけていて、私の隣にいた。状況を理解する前に谷口さんは動いていた。
「ごめん、許して――」
そう言って、谷口さんは自分の口に薬と水を含み私の唇に唇を重ねてきた。そのまま私の唇の間を通って苦味のある液体が体に流れ込んでいく。体に流れ込む液体のスピードについていけなくて、私と彼女の間から液体が少し溢れて首筋を
そのまま放心状態でいると頭を撫でられて横にされた。私は訳も分からず体は横になる。口の中には薬の嫌な苦味ばかりが残っていた。
そういえば、小さい頃も谷口さんに看病してもらうことがあった……。
あの時も動物園に谷口家のみんなと一緒に行く日で楽しみにしていた。しかし、私が風邪を引いたせいでその日はいけなくなってしまった。いつもは冷静なはずの谷口さんはあたふたと横にいて、叔母さんに怒られていたっけ……。でも、谷口さんはその日ずっとそばにいてくれた。
横になって少し落ち着いた私の様子を見て、谷口さんは外に出る準備を始めてしまう。
行かないで欲しい。
そばにいて欲しい――。
「わか、なちゃん……いかな、いで……」
谷口さんの顔は見えない。ただ、私のおでこと左手にひんやりと冷たいものが重なってきた。冷たいはずなのにその冷たさが私の熱と混ざって心地いい温度になって私の意識はそこに残っていなかった。
………………
どれくらい時間が経ったのかわからないけれど、胃のムカムカとした気持ち悪さと共に目覚める。
目を開けて顔を横に向けると谷口さんの手が私の手に重なっていた。
「おはよ。体調どう?」
彼女の優しそうな顔を見て心が穏やかになっていく。私は体を起こして、彼女の方を見ると繋がれていた手は離されて、手はあっという間に冷たくなった。
「だいぶよくなりました」
まだ、熱はあるのだろうけどさっきほどの吐き気やだるさがあるわけではない。
「紗夜はすぐ嘘つくからな〜」
谷口さんはいつものように冗談交じりでそう言って、私のおでこに自分のおでこを当ててきた。谷口さんの顔が近くにあって、急に顔に熱が集まっていく。
「ほら、熱いじゃん。顔も真っ赤」
彼女が優しく頬を撫でてくるので、それが恥ずかしくて無意識に腕を強く握っていた。
「爪立てるくらいには元気にはなったのね。お粥温めて来るからちょっとまってて」
谷口さんはすぐに温かいお粥を持ってきてくれて、私は先程食べれなかったお粥を口に運んだ。さっき食べれなかったのが嘘かのように、お粥は私の胃の中に消えていく。全て食べ終わり、もう一度風邪薬を飲んだ。風邪薬を見た途端、先程のことを思い出して、また顔から火が出そうになる。
時刻はもう夕方くらいになっていて外は私の頬と同じ色をしていたと思う。
「服脱いで?」
「何言ってるんですか」
わけが分からない。急過ぎてなにも頭が働かない。
「体拭くから。あと、そのまま寝な?」
谷口さんは既にタオルと私の着替えを準備していて、「いつでも来い!」という感じだ。勝手に下着を見られたと思うと恥ずかしくて今すぐにこの場から逃げ出したくなった。
「自分でできます」
「背中とか自分じゃできないでしょ。そんな変なことしないから早く脱ぎなよ」
これ以上嫌だと言ったら逆に谷口さんを意識しているみたいに思われそうなので、着ていたパジャマを脱いで、上下、下着になった。谷口さんに背を向けると、背中のブラホックが簡単に外されてしまい、急いで胸を抑えるように隠した。
「変態……何もしないって言った」
「着替え手伝ってるだけ」
私が抵抗する間もなく、背中にひんやりとしたタオルを当ててきて、丁寧に優しく拭かれる。私は力の入った体から力を抜いて彼女に身を委ねた。
自分で拭けるところは自分で拭いて急いで下着とパジャマを着て、布団に潜り込んだ。その様子を微笑んで見ていた彼女に冷えピタを張られる。谷口さんは部屋の外に出て行こうとすると、今度はにやりと微笑んで私の方を見ていた。
「今度は行かないでって言ってくれないの?」
谷口さんはずるいと思う。
いつも余裕があって、私の反応を見て楽しんでいる。
「そんなこと言ってません」
私は盛大に嘘をついた。その事実を認める訳にはいかなかった。そしたら、谷口さんがやたら真剣な顔をして、私の腕を掴んでくる。
「――今日の分」
谷口さんが何をしてこようとしたのか分かったので彼女の口を手で塞いだ。なんで今そんなことをするのかわからない。
「風邪移るからだめです」
「風邪じゃなかったらいいんだ」
谷口さんはお得意の悪い笑みを浮かべていた。いつも私はこの人の思うつぼで納得いかない。そんな私の気持ちは無視されて、谷口さんの行動は続く。
「風邪って人に移した方が早く治るんだよ」
彼女の口を塞いでいる私の手は呆気なく退けられてしまい、私は唇を奪われた。
ほんとなら唇を噛んで蹴って叩いてでも、彼女を止めるべきなのに、風邪のせいで身体が言うことを聞かない。
風邪のせいで頭が回らないだけだ――。
「早く、治すんだよ」
谷口さんは私の頭を優しく撫でて、部屋の外に出てしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます