第26話 頼んだよ

「今日の夜ご飯一緒に食べない?」

 

 昼休みに急に楓に誘われるので箸で摘んでいたおかずをポロリと床に落としてしまった。私は床に落ちたおかずを悲しい気持ちでティッシュで拾って包んだ。

 

 今日は谷口さんと約束の日だ。谷口さんと一緒に居たくないけど、約束してしまったからしかたない。

 


「今日はだめなんだ……」

「一緒に住んでる従姉妹さんと過ごすの?」

「うん――」

「へー。紗夜ってその人のこと好きなの?」

「それはない!」

 

 つい大きい声を出してしまい、クラスのみんなの注目を浴びるので体がかなり縮こまる。楓も私の大きな声に目を丸くしていた。


 

「もう、人を好きになるの怖い」

「そうだよね……ごめんね嫌なこと思い出すこと言って」


 楓は悪くない。私が変にムキになっただけだ。


 楓は毎年、私に誕生日プレゼントをくれる。ただ、誕生日にご飯を一緒に食べようなんかは言われたことはなかったので、今年の楓は何か変だ。隣の少女は偉く落ち込んだ様子だった。

 


「ごめんね大きな声出して……」

「ううん。そっかぁ……紗夜のことお祝いしたかったなぁ」


 今年のというか、最近の楓は様子がおかしい。急に変なことを言い出したり、行動したりする。


「なんで急に夜ご飯?」

「なんとなくだよ……それよりこれ!」


 話を上手く濁されてしまい、私の曇った気持ちは晴れないまま違う話になる。手に乗せられたのは小さな袋だった。


「空けていい?」

「うん!」

 

 袋を開けるとかわいらしいリップが出てくる。


「もうすぐ大学生じゃん? 紗夜は絶対メイクが映えるなって思って買ってみた!」

「ありがとう」

 

 私は心がじわじわと温かくなった。毎年こうやって祝ってくれるのは楓だけだ。


 母は当日に「おめでとう」と言ってくれる時と忘れていて数日後に連絡が来る時がある。家のこともわかっていたので、それだけで十分だったけど、再婚してから「おめでとう」の声もかけられなくなってしまって心が苦しくなっていた。



「せっかくだからリップ塗ってあげるよ」

「いいの?」

「うん、顔貸して」


 楓は優しく私の頬に手を添えて顔をくいっと上にあげる。楓のことを見つめると頬が赤い気がした。目が合うと目を逸らされてしまう。


「見られると恥ずかしいから目つぶって?」

「う、うん?」


 私は大人しく目をつぶった。唇に少し冷たい固いものが当たり、横にスライドして伸ばされていく。


「はい、完成」

 

 楓は私に鏡を見せてくれた。

 

 鏡に映る私の唇は生き生きとしているように見える。気のせいだろう。たかがリップを塗ったくらいでそんなに変わるわけがない。

 

 ただ、楓がこうやって私に似合うものを選んでくれたことが嬉しかった。

 

「楓、ありがとう。大切に使うね」

「うん! どういたしまして」


 

 

 私はその日学校が終わったらすぐに家に向かった。


 なんでよりによって今日なのだろう。

 

 そんなことをここ数日考えている。谷口さんの行動はよく分からないことが多くなった。彼女が大人だから何を考えているのかわからないのか、それとも何か違う理由があるのかわからない。


 こんな心にモヤモヤが残ったまま私は家に着いたが、家の中はおいしそうな匂いが充満して少しだけその気持ちを忘れることが出来た。


 扉を開けると谷口さんが待っている。今日は平日なのに仕事はどうしたのだろう。

 

「おかえり」

 

 そう言って谷口さんは優しく私の腕を引いてくれた。ただ、すぐにその行動は激変する。

 

「紗夜、唇にリップ塗ってる?」

「はい」

「朝は塗ってなかったよね?」

 

 あの朝の忙しい時間によくそんなところを見ているなと感心してしまう。普段の私はそんなことをしないから、たしかに急な出来事に驚いたのかもしれない。


「友達にリップ貰って、塗ってもらいました」

「それって楓ちゃん?」

「はい」


 なんでそんなことが気になるのかわからない。また、彼女の分からないことが増えていく。

 

 私は早く部屋に入って荷物を置こうとすると急に腕を引かれた。咄嗟の出来事に心臓がどくどくと音を鳴らし、少し苦しくなる。

 

 私はそれを阻止する時間も与えられず、ただただ谷口さんのすることにされるがままだった。


 谷口さんが急に親指を私の唇に押し当て、横にグッとスライドさせてくる。そのままその指をペロリと舐めている。私の唇に乗っていたものは全て剥がされてしまった。


 そのことに何も言うこともできず立ちつくして居ると、谷口さんは舌をベーと出して「おいで」とだけ言ってリビングに向かってしまった。


 楓に塗ってもらったリップは谷口さんのせいで全て取れてしまって、唇には谷口さんの指の感触だけが残っていた。


 彼女のその行動の意味を理解しようとしても全く理解できない。私は余計なことを考えたくなかったので部屋に戻ってリビングに向かう支度を整えることにした。



 

 部屋は谷口さんの元カノの部屋に移り変わることになった。そこにあったものは全て捨てられて、この間、彼女と一緒に選んだものが並んでいる。


 いつこの家を出て行けと言われるかわからないから家具なんて一番安いのでよかった。なのに谷口さんは自分の好きなのを選べと頑固に譲らなかったので、私は好きなものを選ばせてもらった。


 

「いつか、返さないと……」

 

 もちろん分かっていたが、合計金額を見て唾を飲んだ。とても、今の私に払える金額ではなかった。


 ただ、谷口さんのおかげでこの部屋にいることが今は少しだけ息苦しくない。

 

 勉強机は自分の好きな黒色の机にした。本棚は私の持っている少ない本と谷口さんから貰ったガーデニング関係の本が並んでいる。少しづつ好きな本を増やしていきたい。ベッドは厚めのマットレスが引かれていて、一人で寝るには贅沢すぎる、セミダブルのベッドだ。

 

 これだけで十分だ。

 

 私は今までキャリーケースに収まるくらいの荷物でしか移動していなかった。それに比べれば、かなりものが増えたと思う。

 


 少しづつこの部屋にものが増えると同時にこの家から離れたくないという思いが大きくなってしまう。


 だから、部屋に思い入れのあるものを置きたくなかった。適当に選んだものを適当に並べておきたかった。


 

「はぁ――」


 いつかくるこの部屋との別れのことを考えると胸に石が埋め込まれたような痛みに襲われる。


 私は制服を脱いで部屋着に着替えてリビングに向かった。



 


 リビングに着くといつもより豪華な食事が並んでいる。綺麗な女性が手招きをするので、私は大人しくテーブルに座った。


 先程の様子のおかしい谷口さんはどこにもいなさそうだ。



 谷口さんの作った料理を口に運ぶとどれもおいしくて、ほっぺたが落ちそうだった。私が食べるのに夢中になっていたせいで目の前の女性がニヤニヤしていることに気が付かなかった。


「おいしい?」

「……はい」

「そっか、よかった」

 

 私の回答に満足したのか、谷口さんもご飯を食べ始める。全て食べ終わったので片付けをしようとするとそれを止められた。


「ちょっとまっててね」

「はい?」


 台所にぱたぱたと谷口さんは慌てて走っていく。何をしているのだろうと思うと、リビングの電気が全て消えて心臓がびくりとした。


 次の瞬間、誰もが聞いたことのあるような曲が流れる。そのメロディは私の耳をそっと撫でて、そのまま私の奥深くにいる気持ちの部分に触れてくる。


 谷口さんが目の前に現れて、一本のロウソクが刺さったケーキが前に差し出された。




「紗夜、誕生日おめでとう」

 



 私は胸がじんじんと熱くなるのを感じた。父が生きていた頃の誕生日を思い出してしまい、目に温かい液体が溜まる。それがこぼれ落ちないようにゴシゴシと腕で拭って谷口さんの方を見た。

 

 谷口さんの片手にはオルゴールが握られている。


「なんで……?」

「なんでって紗夜の誕生日だからでしょ」

「谷口さんが私の誕生日祝う理由なんてないじゃないですか」

 

 私は次々と言葉が出てしまう。その間も谷口さんの持っているオルゴールは部屋に響き続けていた。


 彼女が私の誕生日を祝う理由なんてない。私はただ家に置かせてもらっているだけだ。そんな人間のために谷口さんが頑張る必要は無い。

 

 だから、なんでこんなことをしたのか知りたくなってしまった。

 


「そうだね。もっと紗夜のこと知りたいと思った。これがきっかけになればいいなんて思ったんだ」

 

 谷口さんは珍しく私から目を逸らして机に置いたオルゴールを見て話している。そのままとても落ち着いた声で話を続けていた。


「本当は歌ってあげたかったけど、気持ち悪いかなと思ってこの子に頼っちゃった」

 

 オルゴールはいつの間にか鳴り止んでいて、谷口さんの声のみが部屋に響く。ロウソクの火は付いたままで、蝋が何滴もケーキに滴り落ちていた。


 

「早く火消しなよ」

 

 谷口さんのその言葉に私は止まっていた呼吸を思い出す。苦しくなった肺に少しだけ空気を送り込んで、ふーと優しく吐き出しケーキの火を消した。

 

 ロウソクの灯りは消え、部屋は真っ暗になる。



 この感覚はいつ以来だろう。昔のことを思い出してまた胸が苦しくなってしまう。


 そんな私に容赦なく部屋の明かりが差し込んできて、目が慣れるまでに少し時間がかかった。


 

「これあげる」

 

 光にやっと目が慣れて谷口さんを見るといつもの悪そうな表情で私の手に赤い袋に包まれたものを渡してくれた。


「貰えないです」

 

 こんな時に素直に喜べない私はなんて可愛くないんだろうと思う。こういうところが好きだった人に嫌がられた原因なのかもしれない。

 

 

「いいから開けてみなよ」

 

 私はもらう気はなかったが、言われるままに空けてしまい、そして、後悔した。


「これ……」

 

 二膳のお洒落な花柄の箸が入っていた。


「絶対貰ってくれないと思ったから、何なら受け取ってくれるかなーって考えたんだ。黒が紗夜ので赤が私のね? 箸出し担当の紗夜にはちゃんとその箸を毎日出してもらうから。頼んだよ」

 

 谷口さんはテーブルに寄りかかって嬉しそうに微笑んでいた。


 谷口さんはずる賢いと思う。


 私がそうやって受け取りやすく、喜ぶものを知っている。こんなプレゼントは困る。毎日、準備する度に谷口さんからもらったのだと彼女のことを考えてしまう。




「要らないなら捨ててもいいから」


 私が捨てないのをわかっててそう言っているのだろう。私は箱から箸をそっと出して、洗い場に持っていった。サッと水で流して、箸置きに立て掛けた。


 明日からはこの箸が私たちの食卓に並ぶらしい。そのことに胸をくすぐられる。



 私はそのままテーブルに戻って、胸が苦しくて食べ物なんか喉を通らない状態なのにケーキを体に押し込んだ。ケーキの甘さは私の体にじわじわと浸透し、溶けて消えていった。



 

 お風呂から上がると、いつものように谷口さんがソファーに座っていた。


「何してるんですか?」

「紗夜のこと待ってた。今日の分終わってないでしょ?」

 

 谷口さんはやたらニコニコしている。

 

「今日は何するんですか」

「一緒に寝よ?」


 そう言って腕を引かれた。


 そんなのは嫌だ。


 こんな日に谷口さんと一緒にこれ以上いるのは嫌だ。谷口さんのせいで昔の温かい思い出を思い出してしまった。谷口さんのせいで幸せな日になってしまった。谷口さんのせいで誕生日が楽しみな日になってしまった。


 谷口さんのせいだ。


 これ以上彼女と一緒にいるのは怖いと思った。


「今日は嫌です」

「じゃあ、違う日ならいいの?」

「そういうことじゃない……」

「じゃあ、少しだけ横にいて?」


 今日の谷口さんは思ったよりも諦めがよく、逆に私のペースが乱されてしまう。お風呂に浸かっていたせいで上がった心拍数がより上がっていく。


 私はどうしても聞きたいことがあったので彼女の横に腰を下ろした。そうすると勝手に右半身に寄りかかってくる。この時の私は彼女に聞きたいことの方が優先度が高かったので彼女のその行動を許すことにした。

 

「谷口さん、私のこと知りたいってどういうことですか?」

「そのままの意味だよ。紗夜がこうなったのも何も知らない。数年の恐ろしさを感じたよ。それが埋められると思ってないけど、紗夜のこと知りたいって思った。言いたくなった時に少しずつでいいから紗夜のこと教えて?」


 谷口さんがそんなことを思っていたのは意外だ。私はただの居候している従姉妹でそれ以上でもそれ以下でもないと思っていた。


 なんでこんなことをするのか。谷口さんにとって何もメリットのないことをずっと行動し続けてくれている。私に時間を割くだけ無駄なのになんで……?




「今日はありがとうございました」

「どういたしまして」


 少し上を見上げると谷口さんが微笑んでいる。

 

 何が私を突き動かしているのか分からないけれど、彼女の頬に優しく触れていた。私の先程まで靄のかかっていた気持ちはうららかな気持ちになっていく。

 

 

 彼女のことを知りたい――。


 そう強く思うようになった。

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