第21話 紗夜だけに言って欲しいの?
目の前に横たわる少女の頬を撫でる。柔らかく滑らかで触れている手をしばらく離すことは出来なかった。紗夜はしばらく起きそうにない。
昨日、あの話を持ち出すのはかなり勇気が必要だった。紗夜に一緒に居て欲しい、という思いだけではきっと私たちの関係は上手く続かないだろう。
あくまで、彼女の症状が治るまで。
そうやって制約をつければ、紗夜はまだ私の家に居てくれると思った。それが期限付きでもいいから、少しでも長くこの子と一緒に過ごして、紗夜のことを知りたいと思ったことは誰にも言わないだろう。
期限付きだが、今のところ彼女の症状が治る気配はない。比較的症状の薄い私でもかなり嫌がられる場面が多い。普通は傷つくはずなのに、今はその事実に安堵している。
私はかなりずるい人間なのかもしれない。
ただ、ずるをしても卑怯でも今は紗夜を離したくなかった。
その理由はよく分からない。
かわいい妹でもできた気分になったのだろう。それかもしくは本当に捨て猫を飼っている気分なのかもしれない。
紗夜が昨日言ったとおり、彼女が私の家に居る限り、私は恋人なんか作れないだろう。今はそれでいいと思う。恋人を作るよりも彼女を知りたい欲の方が勝っている。
ただそれだけだ。
もう一度、紗夜の頬に手を添えると彼女の長いまつ毛が開き、漆黒の瞳で私を見つめてくる。私と再会した時からその瞳に光は宿っていない。この瞳に小さい頃のような光が少しでも戻ればいいと淡い期待を抱いている。
「谷口さん、何してるんですか?」
「紗夜の寝込みを襲おうとしてた」
「ほんと変態ですね」
そう言って、紗夜は私の手を簡単に払ってきた。
「紗夜の頬の触り心地がいいから」なんて、正直なことを言ったら本気で気持ち悪がられるだろうし一生触らせてもらえなくなりそうだ。だから、いつもこうやってふざけたふうに返事をするようにしている。
「谷口さんってそうやって誰にでも言うんですか?」
最近の紗夜の質問は思わぬ質問が多すぎて困らされている。なんでそんなことが聞きたいのかこちらが質問しても教えてくれないだろう。だって、女性が苦手になった理由すらも私には教えてくれないのだから――。
「――秘密」
「最低ですね」
他にそんなこと言う人なんていないけど、紗夜にしか言わないなんて言ったら変な誤解を生みそうだし、もっと気持ち悪いと思われてしまうのが想像できたので、また私はふざけて誤魔化してしまう。
私は彼女から見ると最低らしい。たしかに、ダメ人間が発言しそうなことばかり言っているかもしれない。ただ、言われっぱなしも
「紗夜だけに言って欲しいの?」
ニコニコといつものように話しかけると、紗夜は布団から出ようとするので腕を掴んで阻止する。紗夜はじりじりと私を睨んでいた。
「そうやって誰にでも口説く人が嫌いなだけです」
「紗夜は一途な人が好きなのね」
「逆に軽い人が好きな人って少ないと思います」
「たしかに」
紗夜にもっともなことを言われ何も言えなくなってしまった。
そういえば……。紗夜に伝えなければいけないことを思い出して、布団の中に今も留まる少女の顔を見てニッと笑った。
別にそんなことしなくてもいいのかもしれないけど、昨日の私の提案が本気なのだと伝えておくべきだ。
「紗夜がちゃんと治るように一日一回はそういうことしようね」
「そういうことってなんですか?」
彼女はわざと聞いているのか、そんな質問をしてくる。私は優しく彼女を抱きしめて耳元で喉を震わせる。
「――こういうこと」
そう行動した途端に私の太ももに膝蹴りが入った。
痛すぎる。
なんて暴力的な女の子なんだ。
太ももを抑える私を置いて、紗夜は部屋の椅子に座ってしまった。
夏だから暑いし、紗夜が離れて涼しいくらいに感じるはずなのに、さっきまで彼女がいた場所がえらく冷たく感じた。
私はそんなベットから出て、さりげなく紗夜の横に座って話しかける。
「明日から仕事嫌だなー」
「さっきまで変なことしてたくせによく普通に話せますね」
「その辺は大人なので」
しかし、その顔はすぐに真顔に戻っていた。
「――やっぱり、社会人って大変ですか?」
紗夜からそんなこと言われると思ってなくて反応に遅れてしまう。正直なことを言うべきかかっこつけて強がるか迷ってしまった。
しかし、紗夜にこれから本音で話して欲しいと願うのなら、まずは自分から正直に思っていることを話すべきだろう。
「だんだん責任重くなってきてちょっと辛いかな」
「だから、たまに弱ってる時あるんですね」
「え――?」
弱っている? 私は紗夜の前では明るくしているつもりだったからその言葉に驚きを隠せなかった。
「谷口さん、連れてきてくれてありがとうございます。帰りましょ」
紗夜は私を残して片付けを始めてしまう。色々と聞きたいことがあるのに聞けずに紗夜との初旅行は終わってしまった。
「ふー。旅行楽しいけど、やっぱり家が一番落ち着くなぁ」
私をだめにするソファーに腰を下ろしたが腰掛けたことを後悔する。明日から一週間分のお弁当を作らなければいけない。せっかく休めると思った重い体を上げて、スーパーに向かう準備をした。
「紗夜、ちょっと買い物行ってくるね」
「何の買い物ですか?」
「明日からのお弁当の具材作らないと」
紗夜はしばらく黙ったまま難しい顔をしている。私は紗夜を置いて家を出ようとするとそれをはばかられた。
「一緒に行きます」
なんで? と思ったが、断る理由もないので私はそのまま彼女と外に出ることにした。
隣にいる少女はずっとだんまりだ。なんで来ると言ったのか聞いてみてもいいが、答えてくれない気がする。スーパーに着いて、食材を選び始めるとずっと黙っていた紗夜が声をかけてきた。
「カゴ貸してください」
「カゴ? どうして?」
「荷物くらい持ちます」
紗夜は私のことなんて無視して強引にカゴを奪って行くので、私は彼女の心情が分からないまま買い物を続けるしかなかった。必要な野菜、具材を彼女の持つカゴにどんどんと詰めると紗夜はどんどんと険しい顔になっていく。
「重いでしょ。いいよ、私が持つから」
「触らないでください」
彼女は私の優しさを簡単にほろってくる。
絶対にカゴは渡さないといった態度だ。彼女の諦めは悪そうなので私は諦めることにした。
紗夜は買い物が終わって家に着くまで、小さな体を左右に揺らしながら荷物を全部持ってくれた。
家に着いて、料理を始めようとすると、紗夜が私の横にいて何か言いたげな顔をしている。私の顔を睨み、その次はシンクの中の食材を睨むという行動を繰り返していて、つい面白くて笑ってしまう。
「どうしたの?」
「人の顔見て笑うなんて失礼です……」
「そうだね、ごめん。で、どうしたの?」
「お弁当のおかずの作り方教えてください……」
その言葉に唾を呑む。
急にどうしたのだろう? 全然理解できない。一緒に住むと言ったから気を使っているのだろうか。
「私の分のついでに作ってるだけだから、気を使わなくていいんだよ?」
「谷口さんに気なんて使ってないです。自分で作れるようになりたいだけです」
そう言って紗夜は台所から動こうとしない。こうなったら彼女は頑固に譲らないだろう。一人で作った方が絶対に効率的だし、私が疲れないので彼女には諦めて欲しかったがこうなったら仕方ない。
「包丁使ったことある?」
「学校の家庭科の料理実習でなら……」
「それは使ったうちに入らないね。じゃあ、まず切る練習から」
私は紗夜に包丁の使い方を丁寧に教えた。紗夜はすごい危ない使い方をするので、目を離せなくて大変だった。皮を剥くことすらままならない。そのせいで、いつもの三倍は疲れてしまった。
「はぁ……なんとか今週の分は作れた……」
体も頭もかなりクタクタになっていて、時計を見ると十九時を過ぎていた。今から夜ご飯を作る気力はとても湧かない。デリバリーでもしようかと思う。
「…………ごめんなさい」
紗夜が下を俯いて謝ってくるので、私は自分の態度に反省した。
紗夜は自分のためと言っていたけど、きっと私の手伝いがしたかったのだろう。そうじゃなくてもそう思うことにしたい。
誰だって最初はこんなものだ。私も母に教えてもらった時は使い方が危険で手際が悪くて散々怒られた。
紗夜にはそうやって教えてくれる母親はいない。
だから出来なくて当たり前だ。
そんな彼女を責めるのは違うと思った。
「最初からできたら逆に怖いよ。大丈夫。ちょっとずつ慣れればいいから」
私は疲れた顔の筋肉を動かし、紗夜に微笑む。笑顔を作ったために少しずつほぐれる私の顔とは反対に紗夜の眉間には皺が寄り、だんだんと固い顔になっていく。
「谷口さんの無理した笑顔は嫌いです」
その言葉に私は口を開いたまま彼女を見てしまう。紗夜は私が嘘をついたり、無理をしているとすぐに気が付く。誰にも気が付かれないように行動しているつもりなのでそれが筒抜けなのは少し困る。
勘がいいのかよく人を見ているのか分からないけれど、彼女の前ではもう少し気をつけて行動した方がいいのかもしれない。
付き合ったりしたら、すぐ嘘とかバレるかも?
紗夜は付き合った人の浮気をすぐに見抜いて成敗しそうだ、なんてくだらないことを考えながら彼女の横で洗い物を済ませて、その日の夜ご飯は紗夜が来てから初めてデリバリーのご飯になった。
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