第20話 変なことしないって言ったじゃないですか

 ――明日で最後。


 ずっと前からわかってはいたけれど、思ったよりも気に入っているこの生活が明日で最後になるのは嫌だと思う自分がいる。


 さらに、私の女性が苦手な問題は何も解決していない。谷口さんに触れられることに少しずつ慣れてきたが、それで症状が治っているかと言われると微妙なところではある。

 

 いいきっかけにはなったと思っている。


 これからは少しずつでもいいから女性と関わるようにして、少しでも治していきたいと思えるようになった。



 この残り少ない時間で谷口さんは温泉旅行に行こうと意味のわからないことを言い出す。突然過ぎて断る暇も与えられず車に乗せられるなんて、悪質な拉致らちにも程がある。


 そして、勝手に手を繋いだり、勝手に猫カフェに連れていかれたりと、彼女の突拍子もない行動に私の心はいつも揺さぶられ続ける。


 ただ、猫たちと一緒にスヤスヤと眠る谷口さんを見て、振り回されてもいいのかな、なんて馬鹿みたいな考えが浮かぶ自分も相当意味がわからないと思った。

 


 

「黙ってれば美人なのに……」

 

 そっと彼女の頬に触れようとしたが、やっぱり怖いと思って手を引っ込めてしまう。

 

 谷口さんが起きている時は自分でも驚くほど大胆な行動に出れるのに、彼女が寝ているとこんなに臆病になってしまうのは、私が幼稚で谷口さんの言葉に乗せらやすく、そして、なんだかんだ彼女に助けられているからなのだろう。

 

 このまま寝せていたらお店に迷惑がかかってしまうので彼女を起こした。谷口さんは猫カフェを出ようとする時に、また勝手に手を繋ごうとしてくるので私はそれを見事にかわす。

 

 彼女にうまく言いくるめられ、捕まってばかりではしゃくなので、たまには彼女から逃げてみようと思う。谷口さんはすごい不服そうな顔をしていたので、その顔を見て少しだけ満足してしまった。




「泊まる場所はここだよ」


 案内されてついた場所はなかなか有名な温泉だった。


「お金とか……」

「今日は私のわがままに付き合わせてるから紗夜は気にしなくていいの」

「申し訳ないです」

「いいから甘えなよ。申し訳ないなら手繋いで?」


 谷口さんはまたそれだ。手を繋ぐということは私の症状を治すための行動なのに、旅館代まで出してもらったら私がもらってばかりになるので嫌だった。

 

「旅館の中で手を繋ぐ意味がわからないです」

「んー、じゃあ、出世払いでよろしく」

 

 彼女は微笑んでその場から離れてフロントに行ってしまう。自分でバイトをしてお金を貯めたら谷口さんに返そうと思った。早く働きたい、大人になりたいという気持ちが逸る。


 私は受付を済ませている彼女の背中から目を離して辺りを見渡した。

 

 温泉なんて来たことがあるのだろうか……。

 もしかしたら、人生初かもしれない。


 辺りを見渡すとどれも見たことの無い光景に新鮮さを感じ、少し心躍る自分もいた。

 

 

「部屋行こっか」


 谷口さんに案内されて、私たちは部屋に向かった。 部屋に着くとテレビでしか見たことのないような部屋で目を見開いて見ていたと思う。こういう旅館に泊まるのは初めてで少し戸惑ってしまう。私がキョロキョロしていたせいか谷口さんは微笑んで声をかけてくれた。


「もうすぐ夕食来るって。それまでゆっくりしようか」

 

 谷口さんがお茶を入れてくれるので、私は座敷に腰を下ろした。すると私の横に谷口さんが移動して座ってくる。


「座布団あるところに座ってくださいよ」

「紗夜と近くで話したいじゃん」


 別に正面でも近いし、十分話せる距離なので横に来る必要はない。私は谷口さんが近いせいで動悸がして大変だと言うのに、彼女は仏像になったのかと思うほどそこから動こうとはしなかった。


 部屋の内装は和風ベースだが、寝る場所は布団ではなくベッドだった。少し奥に進むと露天風呂に繋がる扉があって、窓からは趣深い露天風呂が見える。


「こういう和風の部屋なのにベッドって珍しいですね」

「今って結構こういうところ多いよね」

「結構、温泉旅行とか来てたんですか?」

「――うん」

 

 胸にちくりとした感覚が走る。きっと付き合っていた人と来たのだろう。

 

「元カノさんとの思い出を忘れたいから私と来たんですか?」

 

 自分でも意味のわからない質問をしてしまう。そんなこと、どうだっていいことのはずなのに聞かずにはいられなかった。


 谷口さんの顔は酷く曇っていたので、絶対に今の質問はするべきではなかったのだろう。彼女の心の奥底にある触れてしまえば簡単に崩れてしまうような部分を私は平気で蒸し返したと思った。謝ろうとするとそれは遮られる。



「違うよ。紗夜と来たいと思った」

「それはなんで、ですか……?」

「紗夜が私の家に来てからなにもしてあげられてないなって思ったから」


 私はその言葉に驚きを隠せなかった。


 谷口さんは常に私のために気を使っていつも行動してくれている。それを跳ね除けて冷たくしていたのは私の方だ。もらってばかりの私はこんな素敵なところにまで連れてきてもらって、最後まで谷口さんから何かをもらい続けてしまう。私もなにか彼女に返したい――。


 

「谷口さん、こんなに良くしてもらってばかりは嫌です。何かできることありませんか?」

 

 借を作ったままは嫌だった。


「じゃあ、キスして」

「は?――」


 唐突なお願いについ悪い態度が出てしまう。しかし、谷口さんはそんな私の態度は全く気にしていない様子だった。


「それがいやなら、今日一緒のベッドで寝てよ」


 彼女の意味のわからない発言に眉間に力を入れて彼女の方を見ていたら、谷口さんは優しく微笑んで私の頭を撫でてきた。頭を触れられることに少し怯えてしまうと谷口さんは申し訳なさそうに手を離した。


「少しでも直したいじゃん。嫌なら無理にとは言わないから」


 彼女の唐突な行動も発言もいつも私を困らせる。谷口さんは私のために行動してくれているのはわかるけれど、それを素直に受け止められるほど今の私は器用では無いし、なにより怖いという思いもあった。




「――夜ご飯のご準備ができましたのでお運びします」


 何も言えずにいると、タイミング良くホテルの従業員が入ってきてテーブルに料理が運ばれた。谷口さんとの会話が曖昧な感じで終わってしまったけれど、豪華な料理に先程の悩みが飛び、目を丸くしてしまう。


 今日は驚いてばかりだ。


「どう? すごいでしょ」

 

 谷口さんは自分が作ってるわけでもないのに誇らしげだった。私はそんな彼女を無視して料理を口に運んだ。


 あまり食べたことのないキラキラしている料理ばかりで、見た目からは想像もつかない味が口の中に広がる。


 たしかにおいしい……ただ……。


 

「おいしいです。でも、今日くらいは谷口さんのご飯食べたかったです……」



 そっと正面に目線をやると、目の前の女性は目を見開いた後に、目尻が下に下がって優しい顔をしていた。

 

 彼女の顔を見て、自分の発言が恥ずかしいと自覚し、数分前に戻って今の言葉を消したいと思った。谷口さんの顔を恥ずかしくて見れなくなる。そして、こういう時に限って谷口さんは何も言ってくれない。気まずい雰囲気のまま私たちは夕食を食べ進めた。


 夕食が終わると私たちは今日の醍醐味の温泉に向かう。向かっている途中に一番重大で大変なことに気がついた。


 谷口さんと一緒に温泉に入る……?



「部屋で待ってるので先入っててください」

「なんで部屋にいるの? 一緒に入ろうよ」

「いやです」

「もしかして、その歳になって恥ずかしいの?」

 

 ぷっと手を口のところに押えて私のことを馬鹿にしてくる。


 そうだ、私も何を言っているんだ。


 別に谷口さんと温泉に入るくらい何ともないし、バスタオルを巻けばそんな恥ずかしいことでもないと思い、温泉に入ることにした。



「めっちゃ素敵な温泉だね」

「はい……」

 

 私は谷口さんの方を見ないように体を洗って、温泉に入る。谷口さんから距離をとっていたのに彼女はノコノコと近づいてきた。


「温泉気持ちいいね」

「なんで今日温泉に来たかったんですか?」

「温泉って疲れ取れるし、リラックス効果あるんだよ? 紗夜いつも暗い顔してるし、少しでも癒されればいいなって思った」

 

 谷口さんは温泉で温まってきたからか、頬が赤く髪の毛はタオルにまとめられて綺麗な首筋があらわになり、艶っぽい雰囲気が漂っている。そのまま無意識に視線を下に落としてした。自分の無意識の行動に罪悪感を感じたのか、心臓がどくどくと音を立てて頭に響いてくる。


「そんな見つめないでよ、えっち」

「見てないです。暑いので上がります」

  

 谷口さんが手で隠す素振りをしているが、隠す気は全然無さそうだった。余計なことを考えるのが嫌になり、私は急いで露天風呂から上がった。体にタオルをしっかり巻いているので谷口さんに見られることはないはずなのに、恥ずかしくて体中が熱くなっている。


 上がって浴衣を着ようとするが着たことがないのでもたついてしまい、そんな私を露天風呂から上がってきた谷口さんが見つめていた。


 

「着せてあげようか?」

 

 服も自分で着れないなんて恥ずかしいけれど、下着のままの方が恥ずかしいので私は渋々彼女に着せてもらうようにお願いした。

 

 浴衣を着せるためだけれど、谷口さんの腕が回るので距離が近くなり動悸がする。温泉に入った熱のせいでくらくらとしていて、早くこの時間が終わって欲しかった。

 

 下着を着ているとはいえ、露出の多い格好を谷口さんに見られていることを意識すると顔から火が吹き出そうになる。


 

「はい、完成。紗夜ってかわいい下着付けるんだね」

 

 ニッコリと彼女は笑っているが最後の一言がなければ素直に感謝していた。上がる体温とは反対に私の気持ちはどんどんと地に下がっていく。


「最低、変態、馬鹿」

「わぁ。酷い言われようだ」


 こんなに冷たいことを言っても今日の谷口さんは嬉しそうだった。貶されて嬉しそうなんてただの変態だと思う。


 これ以上彼女と話しているのは自分のペースを崩され過ぎて気に入らない。まだ寝るには早い時間かもしれないけれど、寝れば彼女と話す時間も減らせるので私は寝る準備を始めた。


「谷口さんどっちのベッドがいいですか?」

「紗夜は?」

「どっちでもいいです」

「じゃあ、こっち」

 

 私は彼女が指さした方と逆のベッドに体を忍ばせる。谷口さんは電気を消してリモコンをポイッと椅子に投げ、そのまま、私の入っている布団に入ってこようとしていた。

 

「何してるんですか……?」

「だってさっき一緒に寝ようって言ったじゃん」

「いいって言ってないです。何より、動悸酷くなるのであっちで寝てください」

「紗夜が辛いのはわかるけど、今日くらいはだめ?」

 

 彼女はまたあの弱々しい声を出す。


 この人は人に甘え慣れてると思う。そんな人の思う壺になるのは嫌だった。


「だめです」

「お願い」


 グッと腕が掴まれる。しかし、掴んだ手は強いはずなのにどこか弱々しい。私の押しに弱いのも治さなければいけないのかもしれない……。


 

「はぁ……」

「いいの?」

「温泉で温まった体冷めますよ」

 

 そう言うと谷口さんはそっと私の横に入ってきた。そのことに心音は速くなり呼吸が不規則になる。私の呼吸が乱れ怯えているのがわかったのか谷口さんは近づいては来なかった。しかし、私の背中に指をつんつんと当てている。

 

「紗夜、変なことしないからこっち向いて」

「なんでですか?」

「大切な話があるから」

 

 大切な話……?


 何だろうと思って変な緊張をして、谷口さんの方を無意識に向いていた。彼女の方を向くと勝手に手をぎゅっと握られる。その手の力はどんどん強まっていくのと同時に私の鼓動がどんどんと速まっていく。


「変なことしないって言ったじゃないですか」

「変なことじゃないし、今はこのまま聞いて」

 

 谷口さんの手が少しだけ震えている気がした。そんな彼女の話を無視するのは私が悪い人みたいになるから話を聞くだけだ。顔を見ると私のことを真っ直ぐ見つめていて、茶色い綺麗な瞳に吸い込まれそうになる。

 

 谷口さんは大きく深呼吸して口を開いた。


 

「紗夜が女性恐怖症治るまで一緒に居よう?」

「――え?」

 

 今、なんて言った? 


 私の聞き間違えだろうか?


「これからも一緒に住もう」


 どくどくと心臓は鳴り続け、じわじわと胸に温かなものが滲んでくる。

 

 これからも谷口さんの家に帰っていいのだろうか?


 私は邪魔ではないのだろうか?


 しかも、私の症状が治るまでと言った。そんなのこれから先どのくらいかかるかも分からないし、治るかもわからない。

 

「私がいたら邪魔じゃないですか? 恋人ができたとしたら家に呼べなくなりますし……」

 

 その時は私が出ていけばいいのだろうけど、もし、谷口さんに恋人ができても私があの家から出て行くという以外の選択肢を選んで欲しいと願ってしまった。

 

「紗夜の症状が治るまでは恋人作らないよ。その代わり、紗夜の症状治すためにお互い頑張ることが約束ね」

 

 谷口さんは私の手をさらにぎゅっと握った。驚いて谷口さんを見るとまた微笑んでいる。そして、その顔と今の言葉に安心している自分がいた。


「邪魔じゃないし、自分の言ったことに責任持つだけだから紗夜は気にしなくていいの」


 体をそっと抱き寄せられる。嫌なはずなのに今はそれが心地いい。私は谷口さんの肩の辺りの服をぎゅっと掴んだ。


「これからも谷口さんの家に帰ってきていいですか?」

 

 少し顔を上げ、谷口さんを真っ直ぐと見つめて声をかける。少し声が震えていて、それが嫌で掴んでいる手に力が入った。

 

「うん。帰っておいで」

 

 谷口さんは私の頭をそっと撫でてくれた。


 これからもあの家に帰ってきていいと思うと心がじわじわと温かくなるのを感じる。それが私の症状が治るまでだったとしても、帰っていい場所があることが、私の心を温かいもので満たしていく。


 そして、治るかどうかも分からない私のこの病を責任を持って治してくれると言った。そのことが何よりも嬉しかった。


 谷口さんに抱きしめられているから、逃げられないし嫌だと感じるはずなのに、その日は彼女の体温に包まれて眠りに落ちていた。

 

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