第19話 もう捕まりませんから
今日も紗夜とは普通だ。
特に何も無い。
特に何もなく今月も終わろうとしている。
夏の初めは早くこの生活が終わって欲しいと思っていたが、今は終わって欲しくないと思う自分がいることを認めるしかなかった。
この間、心春に言われた言葉を思い出す。
『和奏が預かってあげればいいじゃん』
たしかに、それも視野に入れてもいいのかもしれない。しかし、私が紗夜を預かる理由がない。理由もなく、この家にいて欲しいとお願いしても紗夜は納得しないし、嫌だと言うだろう。
紗夜と一緒に居る時間は増えたはずなのに、前よりも彼女のことが分からなくなっていて、この状況をどうするべきかも分からない。
さらに、紗夜の女性恐怖症を治すと言ったものの、ただ彼女に触れて変なことをしただけで何も解決していない状況に頭を抱えていた。
紗夜が私の実家に戻れば、会う機会は少なくなるだろう。そうなれば、結局彼女の問題を何も解決出来ないまま終わるということになる。
何か紗夜と一緒にいていい理由。
そもそも、なぜ私は紗夜と一緒にいたいのかもよく分かっていなかった。私は紗夜に嫌われているのだから、これ以上一緒に居て、余計嫌われることは避けた方がいいに決まっている。
私は居心地いい布団の中でくるまって自分に問い掛け続けた。
今日、明日は紗夜と過ごす最後の休日になるだろう。だからって何かあるわけじゃない。
しかし、紗夜がうちに来てから、彼女に楽しいと思ってもらえることをなにもしてあげられてないなと反省している。
「気分転換にどこかに行くかー」
私はスマホの画面を開いてポチポチと行き先を考えることにした。無難に買い物でもいいが、それではなにか物足りない。しばらく、寝起きの目には眩し過ぎる画面を覗いていると、最高の場所を見つけてしまって、私の意思は固まった。
部屋を急いで出て、パタパタとリビングに向かう。
「――おはようございます」
機嫌が良いとも悪いとも言えないトーンで挨拶をされるが、そんな彼女に私はこの上ないくらい明るいトーンで話しかけた。
「紗夜、一緒に温泉行こう!」
「――えっ?」
***
私は車を走らせ、県内で有名な温泉街に向かう。
久しぶりに体を癒せると思うと心が踊ってしまうが、そんな私とは反対に隣の少女からは重々しい雰囲気が漂っていた。
説得に一時間近くかかったのだ。時間が惜しいと思い、無理やり彼女の腕を引いてきたので未だに納得していないらしい。
「谷口さん、なんで温泉なんですか?」
「疲れ取りたいから」
「だったら家で休んだ方良くないですか?」
「温泉って疲れ取れるじゃん?」
「わからないです」
「若いっていいね」
「そんな変わらないじゃないですか……」
「七つも違うよ」
そこで私たちの会話は途切れてしまう。何がダメだったのだろうと運転しながら隣の少女の顔をちらりと見ると、少しだけ怒った顔をしている気がした。
車を降りると硫黄の匂いが鼻をついてきて温泉街に着いたのだと感じる。
「紗夜、手貸して?」
「なんでですか?」
「手繋ご?」
数少ない時間で紗夜が少しでもそういうことに慣れればいいと思って提案した。
「意味わかんないです」
「そういうことに慣れていかないとでしょー?」
「だって、谷口さんとはもう会わなくなるじゃないですか」
その言葉を聞いた瞬間、少し呼吸が苦しくなり胸の辺りに力が入る。忘れるわけなんてないはずなのに、紗夜が私の家に住むのは今月末までという期限を忘れて、ずっと家に居てくれないかな、なんて思っていた。
「それなら尚更じゃん。ほらかして」
従姉妹で何個も下の女の子にこんなことをしているのは良くないのかもしれない。しかし、これは彼女の訓練のためであるから正当な触れていい理由になる。
なんでこんなに彼女に触れたくなるのだろうと考えた。恋人と別れたそのショックで人肌を求めているのかと思っていたが、そういうことでは無いらしい。
今は出会いの場はなんでもあるので、いくらでも恋人の空いた穴を埋めることは出来る。しかし、他の誰でもなく今は紗夜が近くに欲しいと思っていた。
そんな自分でも処理しきれない気持ちをカモフラージュするために彼女の症状を利用して彼女に触れようとしている私は最低以外の何物でもない。
紗夜はブツブツと何か言っているが手をちょっとだけこちらに差し出してくれた。その手が引っ込んでしまう前にしっかりと捕まえる。
「わけわからないです」
「そうだね。自分でもよく分からない」
私は彼女の細くて白い指の間に自分の指を滑らせる。そしたら紗夜が離そうとするのでそれをぎゅっと握って抑えた。
「変な繋ぎ方しないでください……」
「変な繋ぎ方ってどんなの?」
私は普通のことをしているだけだ、と言わんばかりの顔をしていると紗夜がむつけてだまってしまった。彼女は何も言わなくなってただ横を歩いてくれている。それだけの事に安堵している自分がいた。
夏の猛暑は落ち着いてきたが、まだまだ暑いせいで手には汗が滲んでいる。紗夜に気持ち悪いと思われているだろうか。自分から手を繋いだくせに、そんなことが気になって小気になってしまう。
街を歩いていると、紗夜がじっと見つめるお店があることに気がついた。看板には可愛らしい猫の写真が沢山貼っている。
「猫カフェ行きたいの?」
「行きたくないです」
紗夜は即答して行く先も分からないはずなのに前に進もうとする。行きたくないとは言っているけれど、お店を見るその目は少しだけ輝いている気がした。
「紗夜って猫好き?」
「普通です」
「じゃあ行こうか」
「は?」
紗夜は本当のことを言ってくれないから猫が好きかどうか分からない。楽しいかもしれないし、つまらないかもしれないけれど、そんなのは入ってみれば分かる。
彼女と手を繋いでいてよかった。
私は紗夜の手を強引に引いて中に入る。
中には歩くのも大変なくらいの数の猫がいた。人懐っこい猫も居れば、触られたくないと逃げるのもいる。おやつを持っていればその時だけ寄ってくる現金な猫もいた。
紗夜と繋いでいた手はいつの間にか離れてしまったが、彼女は思ったよりも猫に釘付けになっていて、無理に連れてきて良かったと思う。
気付かれないように彼女を遠目で見ていると、猫に触れようとして逃げられたり、逆によってくる猫には少しびっくりして逃げたりしている。
まるで猫同士でじゃれ合っているみたいだ。
紗夜はしばらくすると自分の定位置を見つけたらしく、寄ってくる数匹の猫と戯れている。
私はそんな彼女の近くに腰かけることにした。
「猫かわいい?」
「はい……」
私に対しての回答は不機嫌そうだけど、太ももの上に乗っかっている猫を撫でている様子はとても穏やかで、優しい顔をしていた。
紗夜はそういう顔もするんだと驚いて見ていると紗夜と目が合う。
「谷口さんは猫好きですか?」
思わぬ質問に心臓がピッと跳ね上がり戸惑ってしまう。
好きかと言われたら普通だと思う。ただ、紗夜が少しでも楽しいと思ってくれたのなら、彼女をそういう気持ちにしてくれる猫のことは好きかもしれない。そんなこと言ったら気持ち悪いと言われそうなので、いつもの冗談でその場を誤魔化してしまった。
「猫って紗夜みたいだから好きかなー」
我ながら恥ずかしいセリフを吐いていて、引かれていないか心配になって隣を見ると紗夜の頬が少しだけ赤い気がした。
「誰にでもそうやって言ってそうですね」
「言わないよ。うちの家来た時はほんとに拾ってきた猫みたいだったじゃん」
私はその時のことを思い出して少し笑っていると、隣の少女は不満そうな顔になってしまった。どうやらまた彼女を不機嫌にしてしまったようだ。
「谷口さんって私のこと猫だと思って家に置いてたんですか?」
うん。と即答したいところだけど、もっと機嫌が悪くなることが想像できたので、その質問は無視した。
「紗夜は猫好き?」
「たぶん、すきです……」
紗夜は猫が好きらしい。この数ヶ月一緒に生活していてわかった数少ない彼女の好きな物だ。
紗夜は猫とチャーハンが好き。女の人が嫌い。それくらいしか彼女の好きなもの嫌いなものがわからない。
紗夜が猫から離れたくなさそうだったので彼女が満足するまで壁に寄りかかって彼女と猫を見ていたら、いつの間にか寝てしまった。
「……ぐちさん…………谷口さん!」
紗夜に肩を揺さぶられて目を覚ます。
「こんなところで寝ないでください」
目を開けて周りを見ると、だるそうに床に転がる猫たちに囲まれていた。
「ごめんね。もういいの?」
「もう十分です」
「じゃあ、行こうか」
私は彼女の手を再び握ろうとするけれど、さっき紗夜から逃げていた猫のように、上手く逃げられてしまう。
「もう捕まりませんから」
紗夜はスタスタとお店の外に出てしまう。
さっきまで猫に触れていた手は少しだけ冷たくなっていた。
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