第15話 爪立てないで
私は気持ちよく朝を迎える。縮こまった体を天井に向かって伸ばして、大きく空気を吸い込んだ。
お酒を飲んだ日は死んだように寝て、スッキリと起きる。これが私が酒を飲む時のルーティーンだ。しかし、気持ちいいはずの朝に靄がかかっている。
「やってしまったぁ……」
完全にやらかしたと思う。
もちろん、紗夜に質問して聞き出すところまでは良かった。それ以上が良くなかった。
紗夜が私に触れられることに対してそこまで嫌悪感がないんじゃないかと聞くことすら怖くなってしまったとは情けない大人だと思う。いや、大人になったから怖くて聞けなかった。
そんな自意識過剰な発言をして、違うと言われた時、私のプライドはきっと崩れ去るだろう。
それでお酒に頼ってしまった。
お酒がなければきっと、聞きたいことを聞いて終わりになっていたはずだ。
紗夜の女性恐怖症を治すなんて大見栄を張ってしまった……。
何すればいいんだ――?
考えても分からない答えを布団の中でぐるぐると考えてしまう。壁に立掛けてある時計を見ると八時を指していた。お酒を飲んだ次の日にこんなに早く起きれるなんて珍しいこともある。
いや、紗夜がこの家に住むようになってから土日も早く起きるような体になってしまった。そろそろ、うちの飼い猫がお腹を空かせている時間だ。ご飯を作らないといけない。
布団にくっついてしまった体を引き剥がし、重い足を一歩一歩進めながらリビングへ向かう。
私は大人だ。
しっかり大人な対応をしなければいけない。
扉を開けるとリビングの電気が付いていた。それだけのことに心臓が速く動き始め、呼吸が苦しくなる。
「――おはよう」
「おはようございます」
いつもどおりの顔を作って彼女に話しかける。紗夜は思ったよりも普通で安心するようなモヤモヤするような気持ちが入り乱れた。
こんなに悩んでいるのは私だけ――?
そんな考えをぶんぶんと振り落として、朝食の準備を始める。
「なにかすることありますか?」
その声にビクッと反応してしまい、私の反応を見て紗夜の顔が曇った。だって仕方ないじゃないか。昨日、あんなことがあって平気でいれるわけがない。
「テーブルこれで拭いて、コップと箸とお茶出してもらっていい?」
彼女の心情は何一つ分からないけれど、手伝ってくれるという気持ちを無下にできないので、できそうなことをお願いする。台拭きを手の上に置くと、紗夜の曇った顔は少し晴れ、いつもの真顔に戻っている気がした。
「「いただきます」」
あまりにも普段と何も変わらない朝で昨日のことなんて夢だったんじゃないかと思い、自分の記憶を疑い始めた。
酔いすぎて変な夢を見ていたとか?
いや……たかがハイボール一本でそんな酔い方をするわけがない。私は嫌でも頭から離れない記憶と戦い続けている。
「治すって言いましたけど何するんですか?」
「ゴホッゴホッ」
せっかくおいしいホットミルクを飲んでいたのに急に真顔でそんなことを聞いてくるから動揺してしまった。こんなことで動揺してしまうなんてかっこ悪い。私はどこかに逃げようとした平常心を引きずり戻す。
「なにしようね。やっぱり手っ取り早いのはセックスじゃない?」
「最低ですね」
ほんとに最低だ。
高校生に対して私は何を言っているんだ。朝のせいで脳みそがしっかり働いていなかったと言い訳をしておくことにしよう。
「まあ、冗談は置いておいて、やっぱり無理にでも慣れてもらうしかないと思ってる。一日一回は私が近くに居ることに慣れる時間作ろ?」
「……」
その言葉にうんとは言わなかったものの、嫌とも言わなかったのできっとそういうことでいいのだろう。
ほんとにそれでいいのだろうか?
このやり方って合ってるの?
何が正解か分からないから私も手探り状態で彼女と向き合っていくしかない。そんなことが頭から離れなくて休みの日なのに気が気でなくなってしまう。
考えても答えの出ない悩みをとりあえず置いて、紗夜と会話をすることにした。
「今日は何するの?」
「受験勉強です」
そうだ、この子は受験期なんだった。私の部屋を貸しているが、部屋には勉強机のようなものは無かったはずだ。
「部屋に机ないから今まで勉強ちゃんとできなかったでしょ。ごめんね。今度見に行こうか」
「ここに居るのそんな長くないので大丈夫です」
「そうだよね……」
九月末になれば紗夜はこの家からいなくなるのでそう言う理由もわかる。そう言われてまで机を買うほど私はお節介ではない。
私は何も考えたくないのでベランダに出た。ベランダには心を癒してくれる花たちが並び、椅子も置いているのでそこに腰かけゆっくりと眺める。
夏は毎日水分が必要な花が多いので水やりを欠かさずにやっている。逆に、夏でも水を上げすぎると枯れてしまう花もある。
このバランスがとても難しい。
そういう点では紗夜の世話も同じことが言えるのかもしれない。
沢山甘やかして心を許してくれたかと思えば、急に牙を剥けられる。しかし、関わることを辞めたら彼女との距離はどんどん離れていくのだろう。
んー……難しい。
人間関係ってこんなに難しかっただろうか?
結局、私はどこに居ても紗夜のことで頭がいっぱいになって嫌になってしまった。
先程から受験勉強をすると言った猫はこちらの様子を気にしている。前もあったが意外と花に興味があったりするのだろうか?
興味があるのなら素直にそう言ってくれればいいのだけれど、そんなことも教えてくれない。
「こっちくる?」
声をかけると、はっという顔をして私を無視してソファーにぽすっと座ってしまった。
私は水やりも終わったし、やることも無いので紗夜の隣に腰を下ろすことにした。少しでも距離が近いことに慣れてもらおうと思ったのだ。
私が近くに行くと紗夜の肩がビクッと上がっていた。
「やっぱり、怖い?」
「――大丈夫です」
紗夜は付けていたテレビに目を向けていた。彼女は絶対に本音を話さないから何を思っているのか分からない。そのせいで私たちは行き違うことが多い。
この時も言葉足らずなせいで、私は間違えた行動に出た。
私は紗夜の手を取って、優しく握る。
私よりも小さい手に力が入っていた。それが小動物のようで少しかわいいと思ってしまう。
「やめてください」
紗夜は私の手を離そうとするので私は離さなくてもいい理由を話した。
「治すためにやってるんだよ?」
ニコニコと彼女に笑顔を向けるとギリっと睨まれた。人を睨んでも美しい顔立ちが崩れない彼女は神様から寵愛を受けている、なんてバカげた考えが浮かんでしまう。
「――変態」
「こんなことも変態になるの?」
私はわざと彼女に笑顔を向けた。こんなの、大人気ないと思っている。ただ、私の隣にいる怯えた小動物が逃げないようにそう行動するしかなかった。
私の握っている手にはなぜかじわじわと汗が滲み始め、温度が上がっていく。紗夜に気持ち悪いと思われるんじゃないかと少し怯んだが、離したくはなかった。
私が離さないとわかったのか、紗夜は私を睨むのをやめて、そのまま私の手を睨んでいる。
どうやら諦めたようだ。
と思えば私の手を何やら持ち上げていた。何をするんだろうと思った次の瞬間、紗夜の手を握ったことを後悔する。
紗夜が前と同じように、いや、それ以上の力で私の手に噛み付いてきた。
「いっ――」
私は手を引くが紗夜に腕を掴まれて逃げれなくなっていた。彼女の歯がくい込み、痛さが増していく。痛さから逃れるように力いっぱい手を引くが今度は私の腕に紗夜の爪がくい込んでいた。左手全体にじんじんと痛みが広がる。
「痛い。離して……」
あまりの痛さにかなり低い声を出すと、私の左手は段々痛みから解放される。
「こんなに噛むとかばかじゃないの。爪立てないで。本気で痛い」
「こうしないと離してくれないと思ったので」
紗夜は私よりも怒った顔でこちらを睨んでくる。睨みたいのはこっちだ。
流石に可愛がっている猫でもここまでされたら怒ってしまう。しかし、彼女は私に怒る隙も与えてくれない。紗夜がソファーから立ち上がるので私の座っている方が沈んで立ち上がる勢いがなくなった。
私はそのままリビングに残された。
左手は今もじんじんと熱い。
こんな状態で私たちの生活は大丈夫なのだろうかという不安とため息で部屋は満たされていた。
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