第14話 私が女性恐怖症治してあげるよ――。

 谷口さんがすごい近い距離にいる。

 

 普通、この距離に女の人が居たら具合悪くなってしまうのだが、今は少し動悸がするくらいですんでいる。


 少し動悸がするのも危ないのかもしれないけど、この動悸が女性の近くにいるからなのか、目の前の綺麗な花火のせいなのかわからないから、このままここに止まることにした。


 きれいな目の前の火花は一瞬にして散ってしまう。こんなに何かに夢中になったのはいつ以来だろう。


 

 母と一緒に生きることで精一杯だった。

 

 だから、何かに興味をもったり、夢中になったりすることもなかった。

 

 別にそれが嫌だった訳じゃない。


 家族がいなくなることの方が私にとっては嫌だった。



 

 私の父はとても優しい人で、母はそんな父のことが大好きだった。父が亡くなってから母はいつも泣いていた。どんなに時間が経った時もふとした時に涙を流していたから、きっと忘れられなかったのだろう。


 私が六歳の頃に亡くなった父の記憶は今だに残っているから、きっと忘れられないくらい私も父のことが大好きだったのだと思う。


 外で遊ぶのも出かけるのも父がいつも一緒で、私のどんなわがままも聞いてくれた。本当に幸せだった。

 

 父が亡くなったせいで私がこうなってしまったとは微塵も思わないけれど、父が生きていたら、もっと違う人生で生きれたのかな、なんて思うことがよくある。

 

 父が居なくなってから私は全てのわがままを我慢した。母まで居なくなってしまえば、私の心が壊れそうだったから……。明るい子を演じ、母にわがままは言わないようにした。

 


 そんな私に、楽しいことをたくさん教えてくれたのは谷口さんだった。

 

 谷口さんは七つも下の私と遊んで、楽しいわけもないのに公園やお買い物など色々なところに連れて行ってくれた。



 今でも忘れられない小学生の頃の夏。叔母さんと叔父さんと谷口さんと海で花火をした。


 あれは谷口さんたちにとっては当たり前の生活で私にとっては特別な思い出だったと思っていたから、彼女があの時の約束を覚えていてくれたことには驚いた。


 少しだけ……。少しだけ、谷口さんがそのことを覚えていてくれたことに心が温かくなった。



「そろそろ帰ろっか」

「はい」


 私は腰を上げ、花火のゴミをまとめる。


 今日、谷口さんと花火をしたことはまた私の記憶に刻まれてしまっただろう。私だけが楽しかったと思うこの記憶はいつか私を虚しくさせるので、今すぐに消せるのなら消したい。


 しかし、線香花火がこんなにも綺麗で私は思ったよりも花火が好きなんだってことは忘れたくないから、この記憶は胸に留めておくことにした。


 谷口さんの車に乗り、助手席でユラユラと揺られて谷口さんの家まで帰る。

 


 この人とあまり一緒に居たくない。


 理由は簡単で谷口さんと一緒にいると感情の起伏が激しく、考えさせられる時間が多くなるからだ。

 

 谷口叔母さんのところで気を使って生きていた時の方がまだ考えることは少なかったと思う。何より叔母さんは私に踏み込んできたりしない。それくらいの距離感の方がちょうどいい。


 隣で車を運転している女性はとても上機嫌だった。私は彼女に対して冷たい反応しかしていないのに、何がそんなに楽しいのだろうと思う。ただ、その横顔に少し見とれてしまったのは何かの間違いだと思って正面を向いた。

 


「紗夜、約束覚えてる?」



 しまった。

 すっかり忘れていた……。

 

 最後の線香花火があまりにも綺麗だったから、頭の片隅にもなかったことが思い出される。今思い出したことは引き出しに閉まっておきたい。

 


「忘れました」

「それ無しってさっき言ったよね?」

「――」

 

 何も言い逃れできない。


 そもそも、勝負に乗ったのが間違えだった。


 谷口さんが負けるような勝負を吹っかけてくるわけがないのだ。彼女はおしとやかそうに見えて実は腹黒いタイプの女性だと最近、思い知った。


 

「とりあえずお風呂上がったらソファー集合ね」


 真面目なトーンでそう言われてしまい、彼女の言うことを守るしかなかった。


 お風呂から上がると谷口さんはソファーに座っている。背中だけ見ても分かるくらい、彼女はルンルンだ。

 

 なんのお願いをされるのだろう……。


 いつも谷口さんは急に意味の分からないことを言い出したりするので、今の私にとって何よりも脅威である。



「紗夜、早く」

 

 ソファーをぽんぽんと叩かれ、私はその叩かれた場所から彼女と少し遠い距離にゆっくりと腰かける。ソファーの前のテーブルにはお酒が置いてあった。


 

「お酒飲んだんですか?」

「うん。明日仕事休みだし、今日、楽しかったから飲みたくなっちゃった。そんな弱くないから大丈夫だよ。お酒の匂い、嫌だったりする?」

「別に大丈夫です」

 

 母は一人で働くようになってから、よくお酒を飲んでいたのでその辺は気にならなかった。むしろ、その匂いは母との生活を思い出すので心地良いと思ってしまう。しかし、谷口さんと距離が近いのが嫌なので少し体が反対方向に傾いていた。


「そんなあからさまに避けなくてもいいじゃん」

 

 彼女は酔っているせいなのか、いつもより高いトーンで頬を膨らましながらぶーぶー文句を言っていた。



「それで、お願いは何ですか?」

「そんなに早く意地悪されたいのー?」

 

 隣の谷口さんを見るといつも以上にニンマリと私を見ていた。ほんとにタチが悪いと思う。

 

「早く終わらせて寝たいだけです」

 

 早くこの時間が過ぎて欲しい。私は谷口さんからどんなお願いをされるのか気が気でなくて胸がどくどくと音を立てていた。

 

「今から言う質問に絶対嘘つかないで答えるのがお願いね」

 

 ただ、谷口さんの質問に答えればいいだけなのに、谷口さんは急に真面目な顔をするので私の鼓動は余計早くなる。


「わかりました――」


 私が重い空気の中、そう告げると谷口さんは深呼吸をして真剣なトーンで話し始めた。

 

「勘違いだったら申し訳ないんだけど、私だったらそんなに恐怖症の症状酷くなかったりする? それとも私が嫌いすぎて近寄って欲しくないから女性苦手だって嘘ついてた?」

「……嘘はついてないです」


 私はそれだけ即答してあとは何も言えなくなってしまう。谷口さんの質問に心臓が取れそうなくらい速く動いてしまっていた。

 

 答えられない。


 答えられるわけがない。


 私だって勘違いをしているだけかもしれない。そんなことはない、そうじゃないと自分に言い聞かせていたのに背筋には冷たい汗が滲み始める。


「嘘じゃないなら最初に質問したのはどうなの?」


 谷口さんはさっきまで朗らかな雰囲気だったくせに急にシリアスな雰囲気を出してくる。


 勝負に負けたのは私だ。


 あの時を後悔してもしきれない。


 ただ、今日は全部惨敗だった。

 

 楽しむはずのなかった花火が楽しくて、綺麗だと思うことのなかった花火を綺麗だと思った。負けたから負け惜しみをしたくなかっただけだ。


 ゆっくりと息を吸い、心を落ち着かせる。


「自分でも、よく分かってないんですけど、谷口さんにはそんなに強く症状が現れないかもしれないです……」


 正直にそう答えると、谷口さんはいつものにっこりとした表情に戻っていた。私は彼女の要求に答えたので、部屋に戻ろうとすると谷口さんにそれを遮られる。

 

 谷口さんは私側の肘置きに手を置いて通せんぼしてくる。彼女が私と距離を縮めるので私側のソファーが沈む。


 谷口さんはそのまま距離を詰めて、もう片方の手で私の顎を持ち上げてきた。

 

 谷口さんと至近距離で目が合う。


 私の心臓はもう壊れかけていた。

 

 心臓がどこにあるのか分からなくなるくらい、体の色々なところからどくどくと音が鳴る。



「私が女性恐怖症治してあげるよ――」


 …………えっ?


 

 そのまま谷口さんは顔を近づけるので、私は無意識に目をつぶってしまう。私のおでこに柔らかいものを感じると、自分の取った行動が恥ずかしくなり、谷口さんを睨んでいた。

 


「期待した?」

 

 目の前に魔女がいると思った。いや、魔女なんてかわいいものじゃない。大悪魔だろう。私はされっぱなしが気に食わなかったので、そのまま私の顎を掴んでいる彼女の手に噛みちぎるつもりで歯を立てた。


「いたいんだけど……」

 

 谷口さんは勢いよく腕を引くので私の口から手が逃れる。彼女の指には私の歯型が赤く付いていた。



 自分にとって好都合なだけだ。

 

 私もこのままではいけないと思っていた。

 

 社会に出る上で困らないくらいの人間になりたい。

 

 そのために谷口さんを利用するだけ。



「できるのならやってみてください」

「随分クソガキに育ったね」

 

 谷口さんは笑っていた。

 その笑顔はいつもの愛想笑いよりも綺麗な笑顔だった。

 

 こうして、私たちの歪な関係が始まったのだ。

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