第11話 知りたかっただけ
「相手するの大変だった」
やめて。
「もう近寄らないで、気持ち悪い」
やめて……。
「重いよ」
やめて……!!
***
「はぁはぁはぁ……」
最悪な夢だ。
最近、見なかったはずの夢をまた見るなんてどうかしている。寝たいのに寝たらまた同じ夢を見そうで怖くて寝れなくなってしまった。
時計は四の数字を指している。
学校もない日にこんなに早く起きてしまい、損をしている気分だ。先程まで暑かった体は汗が冷えて驚くほど冷たくなっていた。
夏は日の入りが早く、まだ人が起きるような時間ではないのに窓の外は薄明るくなっている。
「はぁ……」
後悔してもしきれない思いが頭を巡り、ため息しか出なくなっていた。
私は指で自分の唇をなぞってみた。
自分の唇なんて意識して触ったことがないので、これがいつもの唇かどうかもわからない。
昨日はなんであんな行動に出たのか自分が一番よくわからなかった。
ただ、知りたかっただけ――。
谷口さんならどこから女性恐怖症を発症するのかを確かめたかっただけだ。
あんなことを急にして、絶対に気持ち悪いと思われたに決まっている。谷口さんが今もこの家の中に居ると思うと息を無意識に止めてしまい、苦しくなる。
だからあんな夢も見てしまったんだ。
一度、気持ちを落ち着かせるために水を飲もうと思い、冷えきって固まった体に力を入れた。
この時間なら谷口さんに会うこともないだろう。しかし、谷口さんは休みの日なので一日家にいるだろう。その事が憂鬱でしかたなかった。
今日は、いや……これから先ずっと谷口さんに会いたくない。あんなことをしておいてどんな顔をして彼女の前に立てばいいかわからない。
音が立たないようにドアをゆっくり開け、リビングに向かう。食器棚からコップを出し、水を汲もうとすると一番聞きたくない人の声が聞こえた。
「紗夜、早いね。おはよう」
私の手は止まり、水を欲しがっていた空のコップを握ったまま動けなくなってしまった。
土日なんて早くても八時くらいにしか起きない谷口さんが、なぜこの時間に電気も付けずリビングに居るのだろう。もしかして、私はまだ夢の中にいるのだろうか。
「…………」
「無視ー?」
パジャマ姿で髪がストレートになっている彼女は何事もなかったかのように話しかけてくる。さらに、笑顔でいつものように私に接してくるのだ。
きっと、沢山の人と付き合ってきた谷口さんからしたら、昨日のことなんて、コップに水を汲むことよりも簡単なことなのかもしれない。
こんなところでも、彼女に余裕を見せつけられて少し腹が立ってしまう。
「おはようございます……」
この上ないくらい不機嫌な声で、彼女の顔も見ずに挨拶をし、私の怒りが伝わればいいと思ってしまった。
「そんなあからさまに不機嫌そうにしないでよ」
谷口さんはいつもよりも明るい感じで笑いながら答えている。なんでそんな余裕そうなのか。沢山悩んだ私が馬鹿みたいではないか。
「――谷口さんにとっては大したことなかったんですね」
「えっ……」
私はそのまま部屋に戻ろうとすると谷口さんにはばかられた。
「嫌かなと思って話出さなかったけど、本当はそのこと話したかったりするの?」
私より背の高い谷口さんを見上げると笑っていると言うよりニヤリと悪い表情をしていた。
やっぱり余裕そうだ。
本当にムカつく。
「気持ち悪いって思わなかったんですか……」
私は気持ち悪い人間だ。聞くつもりがなかったのに、その事実を否定して欲しくてそんなことを聞いてしまった。
…………
怖い……。
もし気持ち悪いと言われたら、私は今すぐこの家を出ていかなければいけない。谷口さんにこれ以上迷惑をかけられないのと、自分の心の傷がより深くならないためにここから離れたい。
「――もう一回しようか?」
その言葉にはっとして顔を上げると、いつもの谷口さんがいた。いつもと同じ彼女に安心するのと、イライラが募るのとで感情がぐちゃぐちゃになってしてしまう。
ただ、イタズラで言っているのではなくて本気で言っているのは分かるから私はどこか安心してしまった。またしてもいいくらいには思っているらしい。それは私のことを気持ち悪いと思ってはいないことを意味していると思う。
「谷口さんの変態」
私はニヤニヤ変態谷口さんを置いて部屋に戻ることにした。部屋に戻っても夏休みだからやることはない。
いや、やることしかない。
私は受験生だ。
勉強しなければいけない。
やることは沢山あるのにどこか気持ちは落ち着いていて、夢を見るのは怖いけど、私は知らない間にベッドに転がっていた。
※※※
コンコンコン
「紗夜、朝ご飯食べよ?」
私は知らない間に寝ていたみたいだ。
さっき聞いたばかりの声が聞こえる。
相変わらず谷口さんは普通だった。
彼女があまりにも普通に接してくるせいで、本当は今日一日、布団にこもっているはずだった予定が狂ってしまう。
扉を開けると、律儀に谷口さんは待っていてくれた。
「さっきぶりだね。ご飯食べよ?」
この人は私が部屋から出てこなかったらいつまで待っているつもりだったのだろう。私は彼女を避けてリビングに向かうことにした。
テーブルの上には焼き色のついたトーストが並んでいて、スクランブルエッグやチーズやツナなどトーストに乗っける具材が用意してあった。もちろんバターとジャムもある。
リビングの椅子に腰掛けると目の前に谷口さんも座ってくる。
もちろんいつものことだ。
それなのに、私の心臓は破裂しそうなほど苦しくなっていた。
「いただきますっ」
「――いただきます」
私たちは手を合わせて挨拶をする。目の前の谷口さんは何にしようかな、なんて独り言を言いながら嬉しそうに考えていた。
昨日、色々あって睡眠が取れなかったせいか睡眠欲の代わりに食欲が大きくなっていたので、私も黙々と具材を乗っけて食べ始めた。
「サラダも食べてね?」
頼んでもいないのに、私に盛り付けたサラダを渡してくる。私は不服だけれどもそれを受け取って草食動物のように黙々と咀嚼した。
次はトーストに何を乗っけよう……。
「紗夜、今日の夜暇?」
せっかく、トーストに乗せるものを楽しく考えていたのに谷口さんはまた邪魔をしてきた。
こんな私に友達と遊ぶ予定があるわけがない。ただ、今は普通に接してくる谷口さんのことが気に入らなかったので、素直になれず、大して集中もできない勉強を理由に嘘をついた。
「受験生なので勉強します」
「そっかぁ。じゃあ、一時間だけちょうだい?」
「一時間?」
「うん。だめ?」
「何するんですか?」
一時間で何をするのか全く分からなかったので、聞いてみたがそれは大きな間違えだった。谷口さんは棚からゴソゴソと物を出してくる。
「じゃーん。買ったんだ。一緒に花火しよ」
私は考えとくと言ったが一緒に花火をするとは言っていない。そして、いつ花火を買いに行ったんだこの人は……。
「今の世の中って便利だよね。コンビニ行ったらたまたま売ってたんだよね」
嬉しそうに谷口さんは語っている。彼女は時々、年甲斐もなく子供みたいな表情をする時がある。そんな自由な彼女の表情を少し羨ましいと思った。
「勉強するので一人でしてください」
「勉強の息抜きにしようよ」
「いやです」
「けちー!」
大の大人がぶーぶーとほっぺを膨らましていた。なんでそこまで私と花火がしたいのか理解できない。
「じゃあ、ほんとに一人で花火しに行くからね?」
珍しく谷口さんが鋭い目で睨んでくる。睨んではいるものの、その目には優しさがあって全然怖くない。
「どうぞ」
「……どうしたら来てくれる? なんでそんなに花火したくないの?」
どうやらどうしても花火は譲れないらしい。私は大して使えない頭を回転させた。
どう考えても花火をするメリットは無い。
小さい頃に一度だけ母と花火をしたことがある。その時のことは大して覚えていない。楓と夏祭りで花火を見たりなんかはしたが、別に何も感じなかった。
唯一、花火で鮮明に覚えているのは谷口家の皆と一緒に手持ち花火で遊んだ時のことだけだ。その時は花火が綺麗というよりも寂しかった私にとって、誰かと一緒に何かをすることが嬉しかったという気持ちだった。
だから、私にとって花火はなにかを感じる特別なものではないのだ。
「花火、楽しいと思わないので」
花火をしたくない理由はそれで十分だと思った。流石に楽しくないことを強要するほど悪い人ではないと思っている。
「それなら、私と花火するの一択だね」
はっ……?
谷口さんを見ると満面の笑みだ。彼女は全く私の話を聞いていない。
「私と花火一緒にしよう。楽しいって思わせてあげるよ」
なんの自信があってそんなことを言っているのか全くわからない。しかし、隣の美人さんはとても嬉しそうだ。昨日は不安そうで弱々しい感じだったのに、今日は自信で満ち溢れている。
わけがわからない人だ。
「はぁ…………」
「そんなあからさまにため息つかれると大人の私でも傷つくよ?」
「大人ならなんでそんな強引に年下の子に花火付き合って欲しいとか言うんですか」
「うぐっ」
「…………今度おいしいケーキ奢ってください。それなら花火してもいいですよ」
別にケーキが好きなわけじゃない。ただで彼女のお願いを聞くことが嫌だった。そして、彼女の謎の自信はどこから来るのだろうと少し知りたかった。
「今度ケーキ屋さんでとびきりおいしいの買ってくるね!」
谷口さんは花火の袋を振り回しながら、るんるんで朝食の片付けを始めてしまった。
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