第9話 どうやったら笑ってくれる――?
朝六時に起きて顔を洗って、仕事の支度をする。
部屋で支度を終えたら水を汲んでベランダに出る。今日も綺麗な
本当はここで一服したいところだが、家に保護猫が来てから吸うのはやめている。
私が高校生の頃は煙草の匂いが嫌いだったし、せっかく懐き始めた子に嫌われるのはいやだと思い、ライターも何もかも捨てた。
かわいい娘たちに挨拶を終えたら、キッチンに向かい朝ご飯とお弁当の準備をする。シンプルな木箱の弁当箱に作っておいたお惣菜たちを詰めて、花柄の綺麗な風呂敷に包む。味噌汁の味見をしていると奥の扉が開く音が聞こえた。
不機嫌とも上機嫌とも言えない少女がリビングに入ってくる。
「おはよう」
「……おはようございます」
いつもと同じでいつもと違うこのやり取りに胸がくすぐったくなってしまう。
昨日のお弁当作戦は成功したらしい。
別にあんな条件を提示する気はなかった。最初はほんとに紗夜の体が心配なだけだった。高校生なんて成長期真っ只中なのに、酷い食生活では体に悪い。別にあの条件を呑んでくれなくても毎日お弁当を作るつもりでいた。
ただ、紗夜があまりにも申し訳ないって顔をするから、彼女にとって難しいお願いを提案してみたのだ。
思ったよりもその要求は簡単に認められてしまい、今日からまた新しい生活が始まると心が弾んでいる。
「今日は何時に帰ってくる?」
「六時くらいには……」
「私も今日は定時で上がれそうだから、ホットプレートでお好み焼きでも焼く?」
「――」
「いやだ?」
「嫌じゃないです」
「じゃあ、今日の夜楽しみにしてるね。はい、今日の分」
私はそっと彼女の横にお弁当を置いた。
「ありがとうございます……」
すごい小さい声だけど、紗夜は眉間に皺を寄せたままお礼を言ってきた。
今日はどんな夜になるだろう。
そんなことを考えて仕事に取り組むと時間が過ぎるのはあっという間だった。
私は仕事が終わると急いで帰る準備を始める。ここで急いだって楽しみが逃げるわけでも無くなるわけでもないのに、どうやら私は早く楽しみに追いつきたいらしい。
「和奏さん、随分嬉しそうだね。なんかあった?」
そんな浮かれ気分の私を見透かしたのか、ザ・OL女子という言葉が似合う、髪をかきあげた女性が話しかけてくる。
「そんな嬉しそうな顔してる?」
「うん。してるよ。一時期は死ぬんじゃないかってくらい心配な顔をしてたから少し安心だよ」
目の前の女性はほっとしてコーヒーを口に運んでいた。
彼女は
「彼女もいなくなったんだし、私と飲んでよ」
「そうだね。色々語りたい」
心春は「やったね」と言って嬉しそうに微笑んでいた。
元カノはかなり独占欲が強かったので、心春にも嫉妬してしまい、ほとんど遊ぶことができず、心春と話す時間は会社の昼休憩の時くらいしかなかった。
飲みにも遊びにも行かない。
恋というのはどうやら盲目らしく、私は彼女が居てくれれば、遊びに行けなくても自由がなくてもなんでもいいと思っていた。
そんな人付き合いの悪くなった私になっても、心春はずっと友達でいてくれた。
「心春には本当に感謝してるよ」
「どういたしまして。いつでもいいから仕事休みの日どう?」
「いいよ。おいしい所行こう」
「楽しみ!」
大人っぽい彼女の顔からは想像もできないほど子供っぽい笑顔になって喜んでいる。私も久しぶりに友人とゆっくり話すことができることが嬉しくなっていた。
「それでー? 最近、嬉しそうな理由は?」
紗夜と暮らすようになったおかげで余計なことを考えなくていい時間が増えた。いつか、心春には話したいと思っているが、今話すのはなんか違う気がしたのと、なにより早く家に帰りたかったので今日話すことは控えた。
「今度落ち着いたら話すね。大した話じゃないけど」
「楽しみにしてるね」
私はそのまま心春に背を向けて職場を出た。
帰りのスーパーで食材をるんるんで選んでいると、カップルらしい人たちが私の目の前にいて自然と会話が聞こえてくる。
「今日何ご飯にする?」
「炒めもの食べたいな」
「じゃあ、〇〇くんのために頑張ろっかな」
どちらも幸せそうな顔をしている。
私もそういう時期があったな……。
さっき心春には元気になったと言っていたが、こういうふとした時にどうしても思い出してしまう。私はたくさんの思い出の詰まったスーパーを出て家に足を向ける。
紗夜は六時くらいに帰ってくると言っていた。まだ、六時になっていないので自分の方が家に着くのは早いかもしれない。そう思ってマンションの扉を開けると家の奥は光が灯っていた。奥のドアが開き、綺麗な少女が近づいてくる。
「…………おかえりなさい」
紗夜は難しそうな顔でそう言うと、買い物袋を私から取り上げて中に行ってしまう。
私は驚いてその場に立ち尽くしてしまった。
確かにたわいもない話をしようとは言った。
それは私の一方的な思いで、まさか話しかけられるとは思っていなかった。
私があまりにも長い時間玄関に立ち尽くしていたせいか、中から紗夜が近づいてくる。
「何してるんですか?」
不思議そうというより、不機嫌そうな顔をしていたので、これ以上、機嫌を損ねてはいけないと家の中に入ることにした。
私は仕事着から部屋着に着替えて大きいホットプレートを出す。紗夜が運んでくれた荷物はリビングのテーブルの上に乗っかっていた。その中から必要な具材を選び、下準備を始める。
彼女はエサを待つ大人しい猫のように行儀良くテーブルの前に座っていた。その光景がかわいらしくてつい微笑んでしまう。
「なんで笑ってるんですか?」
さっき玄関でしていた顔と同じ顔で不機嫌そうだ。これ以上待たせてしまうと爪を立てられかねないので、急いで準備を進める。プレートがだいぶ温まってきたので、作った下地を広げた。
「今日、学校はどうだった?」
「普通です」
「女の人苦手って言ってたけど、学校では男の子とかと一緒に居るの?」
どうしても聞いてみたかった。
私の母は学校で色々あったと言っていた。しかし、それはどこまで本当かわからない。一緒に暮らす上で大切なことだから、少しでも紗夜のことが知りたいと思った。
「親友だけは大丈夫なんです」
「そうなんだ……」
素直に答えてくれたことが嬉しいのと、紗夜にとって症状に関係なく関われる特別な人がいると思うとなんだか複雑な気持ちになった。
私は紗夜から見たら大多数いる苦手な女性の一人で、その親友は紗夜が唯一、心を許している相手らしい。
お弁当を理由に紗夜と近くなったと思っていたけれど、全然近くなってなんかいなくて、むしろ遠いのだと自覚する。
自分で質問しておきながら冷たい反応になって空気を悪くしてしまったので、明るいトーンで話を変えた。
「そろそろ焼けてきたから、お好み焼きひっくり返そうか。やってみる?」
「私がやったら食べ物ではなくなってしまいそうなので、遠慮しておきます」
「ふふっ、なにそれ。大丈夫だよ。ものは経験だよ」
そういって私は紗夜にフライ返しを渡す。
すごい困った顔をしていたけど、やる覚悟が決まったのか紗夜はフライ返しを持って、今も熱が通り続けるお好み焼きをひっくり返した。
お好み焼きは綺麗に真っ二つ割れて、片方はフライパンの外に出てしまう。もう片方はかろうじてプレートの中に収まっていた。
あっ、という顔をしたあと、彼女の顔がみるみる青ざめていく。そんな深刻そうな顔をしなくてもいいのにと思いながら、テーブルに落ちたお好み焼きをもう一度プレートに乗せた。
「……ごめんなさい」
「二人で分けて食べるんだし、ちょうどいいじゃん。テーブル綺麗だから大丈夫だよ」
彼女が気にしないように優しい言葉を投げる。紗夜は思ったよりも不器用らしい。いや、家に来た当時から不器用だと思っていたが、お好み焼きもひっくり返せないくらい不器用なようだ。そういうところはむしろかわいいと思う。
焼けたお好み焼きを盛り付けると、なぜか彼女は不機嫌そうになっていた。
「落ちたの私が食べます」
「いいよ。こっちの方が小さいし、私の胃袋にはちょうどいい」
今日は一緒にご飯を作ることを楽しんでもらい、おいしいものを食べて欲しいと思ってホットプレートを使う料理にした。だから、紗夜にはそういう顔じゃなくて楽しい顔をしていて欲しいのだ。
お皿に手を伸ばすと紗夜の手と私の手が重なる。また、気持ち悪いとなぎ払われるのかと思ったら、手はそのままで紗夜の方が驚いた顔をしていた。
私もそれに驚きつつ、普通を装う。
紗夜の焼いてくれたお好み焼きにソースで猫の絵を書いて渡した。
「私のこと子供だと思ってますよね」
さっきまでの驚いていた紗夜はどこにも居なくなっていて、不機嫌な紗夜に戻ってしまう。喜ぶかなと思ったけど、どうやら逆効果だったらしい。紗夜はもう私の知る紗夜ではないのだ。
彼女は高校三年生で子供扱いする年齢ではない。ただ、絵を書いたら喜ぶかななんて思った。
紗夜と再会してから笑顔は一度も見たことがない。こんな綺麗な人が笑ったらきっととびきり綺麗なんだろうと思う。そんな笑顔が見てみたいという私の欲望があった。
「どうやったら笑ってくれる――?」
自分の願望が口から漏れてしまう。
「意味わかんないです」
私の恥ずかしい質問はスルーされた。機嫌は良くないものの、紗夜はお好み焼きを口に運んでいたので、お好み焼きが残されるという事態は避けられて良かったと思う。やはり、紗夜がこうなってしまった原因を探す方が良さそうだ。
「なんで、女の人嫌いなの? 何があったの? 私には話せないこと?」
そういった瞬間、彼女の顔は先程よりも青ざめていき、私はいけない話に触れたのだと自覚した。紗夜のことを知りたいという気持ちに蓋をする。
「ごめん嫌なこと聞いて。忘れて」
聞いたことを無かったことにはできない後悔を抱え、私は黙々とご飯を食べ、片付けを始める。紗夜が片付けの担当だが、今日は量も多かったので私も手伝うことにした。
彼女の顔色を伺いながら、彼女の嫌にならない距離で片付けを続ける。
なにか話題を変えてこの空気を変えないとと思うと紗夜から言葉が放たれた。
「谷口さんはこんな私になんで優しいんですか? 妹みたいに思ってるからですか?」
紗夜は洗い物用のスポンジを見ながら私に話しかけている。こっちは絶対に向かないと言った態度だ。
確かに、紗夜を預かったときは仲の良かった従姉妹の面倒を見るもんだと思っていた。しかし、紗夜と暮らしてその考えは間違えているのだと感じた。
年月というものは恐ろしく、たった数年会っていないだけで、紗夜は私の知る紗夜ではなくなっていた。
それが悪い訳ではなく、それくらい早いスピードで人というものは形を変えてしまうのだろう。
私も小学生の時と高校生の時の性格が同じだったかと言われると別人かと思うくらい違う人だったと思う。
今、目の前にいるのは五十嵐紗夜という一人の人間だ。全く、とまでは言わないが、私の知らない人で他人だ。家族でもない人と一緒に暮らしていくのならその人のことを知らなければいけないと私は思っている。
「昔は妹みたいに思ってたよ。でも、今はそう思わない。紗夜がどういう人か知りたいんだ。だから、いくらでも優しくなれるし、知るための努力はおしまないよ」
私は一気に伝えたいことを伝え、スッキリして紗夜を見ると、少しだけ、ほんとに少しだけ目元が柔らかくなっている気がした。
まだまだ、紗夜のことは分からないし今日分かったことといえば、お好み焼きをひっくり返すのが下手くそで、過去のことには絶対に触れて欲しくないということくらいだ。
それだけでも十分の収穫だろう。
紗夜とあと二週間もない共同生活なはずなのに、彼女のことをもっと知りたいと思ってしまった。
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