番外編 「平陽公主」考
魏(曹魏)の準宗室とも言うべき夏侯氏は夏侯惇傳(魏書九)に「夏侯嬰之後也」とある様に、漢の高祖劉邦の功臣の一人、夏侯嬰の後裔とされている。その真偽は不明だが、夏侯嬰は「沛人」とされ、夏侯惇等は「沛國譙人」と、一応、広義の同郷であり、そう主張するだけの根拠はあるとは言える。
その夏侯嬰の曾孫に頗という人物がいる。
『史記』高祖功臣侯者年表に依れば、元光二年(前133)に「侯頗元年」、元鼎二年(前115)に「侯頗坐尚公主、與父御婢姦罪、自殺、國除」とある。元光・元鼎ともに、武帝(前140~前87)の年号である。高祖の曾孫である武帝と、夏侯嬰の曾孫である夏侯頗が同時代に生きたのは至極当然とも言える。
さて、この表に、「尚公主」とある公主は『史記』・『漢書』両夏侯嬰傳共に、「尚平陽公主」とある。
武帝期に於いて「平陽公主」と云えば武帝の姊、陽信長公主であるが、いま一人、武帝の女、衛長公主(當利公主)もそう呼ばれるべき存在である。
公主の号は奉邑或いは、夫の爵によって呼ばれる事が多い。例えば、景帝の姊、武帝の姑である館陶長公主嫖は、その奉邑から館陶公主、そして、堂邑侯陳午に嫁した事で、堂邑大長公主とも呼ばれる。陽信長公主の場合、「陽信」が奉邑であり、「平陽」は彼女が平陽侯曹壽(時)に嫁した事に依る。
衛長公主の場合はやや異なり、皇后衛氏の長女の故に「衛長」と呼ばれ、彼女を「平陽公主」と呼んだ例は見えないが、平陽侯曹襄に嫁しているので、本来は「平陽公主」とされる筈である。曹襄の母である「平陽公主」、陽信長公主との混同を避ける為に、「衛長公主」とされているのだろう。なお、後に奉邑を當利に改められ、當利公主とされているが、それ以前の奉邑は不明である。
この平陽侯父子、曹壽・曹襄は夏侯嬰と同じく高祖の功臣である曹參の曾孫・玄孫に当たり、その後裔とされるのが、沛國譙縣を本貫とする魏の曹氏である。
この他、元帝の女である平陽公主がいるが、明らかに世代が異なるので、夏侯頗が尚した「平陽公主」はこのどちらか、年齢等を勘案すれば前者の陽信長公主と目される。
陽信長公主(平陽公主)が嫁した平陽侯曹壽は元光四年(前131)に卒しており、それ以前にも、「時病癘、歸國」とある。
後に平陽公主は大將軍衛青に嫁しているが、『史記』の注で「正義漢書云」として、「平陽侯曹壽有惡疾、就國、乃詔青尚平陽公主。」と、曹壽の「惡疾、就國」によって嫁したかの如く記されている。
しかし、元光四年当時の衛青はまだ世に出る以前であり、公主に尚する様な立場ではない。衛青の「尚公主」の年代は確定できないが、大將軍として匈奴討伐で功を挙げた元狩(前122~前117)・元鼎(前116~前111)年間以降である事は確実である。最大限早く見積もっても、長平侯に封じられた元朔元年(前128)以前とは考え難い。
従って、平陽侯曹壽と衛青の間に、汝陰侯となった夏侯頗が「平陽公主」に尚す事は可能である。むしろ、元鼎二年(前115)に夏侯頗が有罪、自殺後に衛青に嫁したと考える方が、年代としては妥当である。
いま一人の衛長公主は元朔元年(前128)生まれの太子據の姊であるから、元光四年(前131)以前の生まれ、衛皇后傳に「武帝即位、數年無子。」とある事からすれば、夏侯頗の元年、元光二年(前133)前後に生まれた筈で、「立十九歲」で自殺する夏侯頗が尚するには、やや年齢差があると思われる。
夏侯頗が罪によって自殺した元鼎二年(前115)に、衛長公主は最低十七歳であるから、夏侯頗に嫁し、程なく彼が自殺するという事はあり得ない訳ではない。しかし、衛長公主の「平陽公主」の所以たる平陽侯曹襄は父壽が死去した元光四年(前131)以降に侯となり、元鼎二年(前115)、夏侯頗と同年に卒している。
「尚平陽公主」との記述を尊重するなら、「平陽公主」は曹襄の卒と同年に、夏侯頗に再嫁し、同年中に、「坐與父御婢姦罪、自殺、國除。」となった事になる。在り得ないわけではないが、考え難い。
以上から、夏侯頗が尚したのは、おそらく陽信長公主であるが、衛長公主の可能性も否定はできない、といった結論になる。
しかし、『漢書』夏侯嬰傳に奇妙な記述がある。
初嬰爲滕令奉車、故號滕公。及曾孫頗尚主、主隨外家姓、號孫公主、故滕公子孫更爲孫氏。
夏侯嬰が「滕令奉車」を以て「滕公」と号されたと云うのは、特に問題はない。問題なのは、「主隨外家姓、號孫公主」の部分である。
「外家」と言えば、通常は母方の事である。従って、「隨外家姓、號孫」ならば、公主の母が孫姓であったという意味にとれる。衛長公主や、その弟衛太子、その子である史皇孫などの如く、公主(或いは皇子)が母方の姓を以て呼ばれる例はある。
しかし、陽信長公主の母は武帝と同母で王皇后、衛長公主の母はその名の通り衛皇后であり、共に「孫」ではない。
景帝・武帝、或いは文帝を含めても、その后妃中に、少なくとも男子を出生したものの中で、孫氏は見受けられない。強いて言うなら、文帝の代孝王參・梁懷王揖を生んだ「諸姬」(姓不明)が孫氏である可能性はある。但し、この場合は年齢や「平陽」の問題が生じる。
年齢は文帝の最末年の誕生であれば、「侯頗元年」に二十五歳であるので問題はないかに見える。しかし、「平陽公主」であるからには、平陽侯家がある以上、平陽が奉邑とは考え難い事から、この公主が平陽侯に一時は嫁したと考える必要がある。
すると、その候補は平陽簡侯曹奇(曹壽の父)、であろう。しかし、曹奇は景帝の前三年(前154)に卒しているので、夏侯頗まで約二十年の隔たりがある。従って、「侯頗元年」には三十代後半から四十代と考えるのが妥当かと思われ、決して在り得ないわけではないが確定はできない。
何れにせよ、これは仮定に仮定を重ねなければならないので、何とも言い難い。
では、この「孫公主」とは何者なのか。残念ながら不明とする他無い。或いは、「平陽公主」が何らかの誤傳である可能性も考えられる。平や陽の付く縣名は多々あり、顛倒した「陽平」もあるが、該当者は検出できない。
また、「王」家の孫で、「王孫」が「孫」とされたなどとも考えられるが、強引であろう。
以上、解を得ず、脈絡のない話となったが、直接の繋がりは無いものの、曹魏の宗室・準宗室である曹氏・夏侯氏に、古くから係わりがある事の一例として挙げておく。
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