古代中国・家族用語の基礎知識―⑤「世孫」 上

 「基礎知識」第五回の今回は趣を少し変えて、「世孫」について。「世子」(世継ぎ)たる孫ではなく、上に数字が入って某世孫とされる子孫の事です。


 これまでが同時代の親族、基本的には互いに見知った関係であったのに対して、「世孫」は世代を超えた間柄となる。この「世孫」を取り上げる理由は、その数え方に齟齬、変化があるかに見えるからである。


 某「世孫」というのは、世代の離れた子孫、或る人物が誰の子孫であるか、逆に言えば、祖先が誰であるかを示す際に使われ、比較的近い世代では、子・孫・曾孫・玄孫などと称される。

 「世」はその儘、世代の事であり、初代、乃ち起点となる人物を「一世」、子を「二世」、孫を「三世」と数えていく。これは二代目を「二世」と称したり、同名の人物を区別する為に「二世」・「三世」と呼ぶのと同様である。


 先ず、この数え方が本来である事を確認したい。

 『後漢書』卷一光武帝紀冒頭に「世祖光武皇帝諱秀、字文叔、南陽蔡陽人、高祖九世之孫也、出自景帝生長沙定王發。發生舂陵節侯買、買生鬱林太守外、外生鉅鹿都尉回、回生南頓令欽、欽生光武。」と、光武帝が「高祖」劉邦の「九世之孫」であるとし、その世系が述べられている。

 その始祖に当たる景帝は高祖の孫であるので、高祖から光武帝に至る世代は、①高祖、②文帝、③景帝、④長沙定王發、⑤舂陵節侯買、⑥鬱林太守外、⑦鉅鹿都尉回、⑧南頓令欽、⑨光武帝となり、光武帝が九世代目で、「九世(之)孫」となる。


 『後漢書』は南朝宋の范曄撰であるので、当時の認識とも考えられるが、『漢書』卷八十一孔光傳に、以下の如く、孔光が「孔子十四世之孫」として、やはり、その世系が述べられている。


 孔光字子夏、孔子十四世之孫也。孔子生伯魚鯉、鯉生子思伋、伋生子上帛、帛生子家求、求生子真箕、箕生子高穿。穿生順、順爲魏相。順生鮒、鮒爲陳涉博士、死陳下。鮒弟子襄爲孝惠博士、長沙太傅。襄生忠、忠生武及安國、武生延年。延年生霸、字次儒。霸生光焉。


 これに従えば、①孔子、②伯魚鯉、③子思伋、④子上帛、⑤子家求、⑥子真箕、⑦子高穿、⑧順、⑨鮒・子襄、⑩忠、⑪武・安國、⑫延年、⑬霸、⑭光となり、孔光は十四世代目、「十四世(之)孫」となる。

 因みに、『三國志』にも登場する孔融は『後漢書』卷七十に傳が有り、「孔融字文舉、魯國人、孔子二十世孫也。七世祖霸、爲元帝師、位至侍中。父宙、太山都尉。」とされる。孔霸から孔融への世系は不明であるが、孔融が二十世孫という事は、孔子十三世たる孔霸の玄孫の曾孫であり、父宙も含め六世代が間に入る事になる。

 なお、某「世祖」と云う場合、自身が「一世」の「祖」では意味が通らないので、父が「一世」代前の「祖」という意味合いで、父を「一世」、この場合は孔宙から数えるので、孔霸との間が「六世」で、⑦孔霸、⑥(霸子)、⑤(霸孫・宙高祖)、④(霸曾孫・宙曾祖)、③(霸玄孫・宙祖)、②(宙父)、①孔宙となり、孔霸が「七世祖」である。


 念の為に言えば、この二例は某「世之孫」とあるが、『漢書』卷二十一律曆志に「光武皇帝、著紀以景帝後高祖九世孫受命中興復漢」とあるので、「九世之孫」と「九世孫」が同等である事が判る。従って、『漢書』、東漢初の班固の認識は初代を「一世」とするものであったと言える。


 西晉代に編纂された『三國志』には適当な事例が無く、『晉書』は編纂が唐代であるので措き、『後漢書』、乃ち宋初以降に編纂された史書についても見ておけば、『(南)齊書』卷一高帝紀に、高帝(蕭道成)が「漢相國蕭何二十四世孫」であるとして、以下の如くある。


 太祖高皇帝諱道成、字紹伯、姓蕭氏、小諱鬬將、漢相國蕭何二十四世孫也。何子酇定侯延生侍中彪、彪生公府掾章、章生皓、皓生仰、仰生御史大夫望之、望之生光祿大夫育、育生御史中丞紹、紹生光祿勳閎、閎生濟陰太守闡、闡生吳郡太守永、永生中山相苞、苞生博士周、周生蛇丘長矯、矯生州從事逵、逵生孝廉休、休生廣陵府丞豹、豹生太中大夫裔、裔生淮陰令整、整生即丘令儁、儁生輔國參軍樂子、宋昇明二年九月贈太常、生皇考。


 煩雑ではあるが、その世系を辿ってみれば、①蕭何、②酇定侯延、③侍中彪、④公府掾章、⑤皓、⑥仰、⑦御史大夫望之、⑧光祿大夫育、⑨御史中丞紹、⑩光祿勳閎、⑪濟陰太守闡、⑫吳郡太守永、⑬中山相苞、⑭博士周、⑮蛇丘長矯、⑯州從事逵、⑰孝廉休、⑱廣陵府丞豹、⑲太中大夫裔、⑳淮陰令整、㉑即丘令儁、㉒輔國參軍樂子、㉓皇考(蕭承之)、㉔高帝(蕭道成)、となり、確かに蕭道成が蕭何の二十四世孫である。但し、この系譜が正しいのかは、また別の話である。


 北朝については、『魏書』卷二十四崔玄伯傳に「崔玄伯、清河東武城人也、名犯高祖廟諱、魏司空林六世孫也。祖悅、仕石虎、官至司徒左長史・關內侯。父潛、仕慕容暐、爲黃門侍郎、並有才學之稱。」と、崔玄伯(崔宏)が「魏司空林六世孫」とする。

 『三國志』崔林傳には「子述嗣」、同傳裴松之注(裴注)に『晉諸公贊』を引いて「述弟隨」・「林孫瑋」が見えるが、その世系は不詳である。ただ、『晉書』卷四十四盧欽傳に「魏司空林曾孫」・「沒石氏、亦居大官。」という崔悅が見え、これが崔宏の「祖悅」と同一人物であろう。

 従って、その世系は①崔林、②崔述・隨(?)、③崔瑋(?)、④崔悅(林曾孫・宏祖)、⑤崔潛、⑥崔宏となり、崔悅の父祖が誰であれ、崔宏は崔林の六世孫で相違ない。


 以上から、少なくとも『(南)齊書』が編纂された梁初まで、或いは『魏書』が編纂された北齊初までは、某「世孫」は初代を「一世」とする数え方をしていたと考えられる。

 ところが、唐初に編纂された『梁書』・『陳書』・『(北)齊書』には、これと異なる、初代の子を「一世」とした数え方が見える。


 先ず、『梁書』卷十六王亮傳に「王亮字奉叔、琅邪臨沂人、晉丞相導之六世孫也。祖偃、宋右光祿大夫・開府儀同三司。父攸、給事黃門侍郎。」と、王亮が「晉丞相導之六世孫」であるとし、その「祖偃」は『宋書』卷四十一孝武文穆王皇后に「后父偃、字子游、晉丞相導玄孫、尚書嘏之子也。」とある。

 従って、『晉書』卷六十五王導傳より王導から王偃の父である王嘏までの世系を補えば、①王導、②王恬、③王琨、④王嘏、⑤王偃(導玄孫・亮祖)、⑥王攸(亮父)、⑦王亮となり、本来、王亮は七世孫で、王導の子を「一世」としなければ六世孫とはならない。

 但し、これは王恬の子である王琨(琨)が祖父王導の爵始興公を継承しているので、王導の「子」と見做された可能性もある。しかし、王偃が「導玄孫」と明記されており、王導の子で彼に先立って死去した王悅(始興貞世子)の「子」、乃ち世孫としての継承と見るべきである。


 『陳書』では卷三十四文學傳の許亨が「許亨字亨道、高陽新城人、晉徵士詢之六世孫也。曾祖珪、……祖勇慧、……父懋、……」とあり、「晉徵士詢」については『南史』卷六十許懋傳に「許懋字昭哲、高陽新城人、魏鎮北將軍允九世孫也。五世祖詢、晉徵士。」とある。

 許詢が許亨の父である許懋の五世祖(高祖の父)であるならば、⑤許詢、④(懋高祖)、③(懋曾祖)、②許珪、①許勇慧となるが、許詢を「一世」とすると、その子孫は①許詢、②(懋高祖)、③(懋曾祖)、④許珪、⑤許勇慧、⑥許懋、⑦許亨と、許亨は七世孫となるので、やはり、許詢の子(懋高祖)を「一世」としなければならない。

 なお、許懋の「魏鎮北將軍允九世孫」については、『梁書』卷四十許懋傳にも見え、許允は『世說新語』(言語第二)に引く『續晉陽秋』に「許詢字玄度、高陽人、魏中領軍允玄孫。」とあるので、許詢の高祖である。

 従って、①許允、②(詢曾祖)、③(詢祖)、④(詢父)、⑤許詢、⑥(懋高祖)、⑦(懋曾祖)、⑧許珪、⑨許勇慧、⑩許懋となるので、これも許允の子を「一世」としている。

 因みに、許允から許詢の世系は『三國志』裴注の諸書や『文選』注、『新唐書』宰相世系から復元できるが、ここでは措く。


 『(北)齊書』には卷二十九李璵傳に「李璵、字道璠、隴西成紀人、涼武昭王暠之五世孫。父韶、並有重名於魏代。」とあり、『魏書』卷三十九には「李寶、字懷素、小字衍孫、隴西狄道人、私署涼王暠之孫也。父翻、字士舉、……」とある李寶の傳が有り、その子承の「長子韶」が李璵の父である。

 従って、①李暠、②李翻、③李寶、④李承、⑤李韶、⑥李璵となり、やはり、李暠の子を「一世」としなければ李璵は五世孫とはならない。


 以上の如く、少数だが、本来の、初代を「一世」とした数え方とは異なる事例が確認できる。ただ、系譜が確認できない、単に某「世孫」とあるのみの事例が多く、その中にも同様の数え方をしたものがあると予想される。

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