孫權「從女」考 下

 孫策以外の孫權の兄弟、弟達の妻・子女について見ていきたい。


 孫權の次弟孫翊はその傳に「建安八年、以偏將軍領丹楊太守、時年二十。」とあり、建安八年(203)に年二十ならば、中平元年(184)生まれで、太元二年(252)に「時年七十一」で薨じる、乃ち光和五年(182)生まれの孫權とは二歳違いである。そして、「後卒爲左右邊鴻所殺」とあるが、これは吳主傳(卷四十七)から建安九年(204)の事であるので、二十一で殺害された事になる。

 同傳には子である孫松の傳が附されており、裴注で引かれた『吳歷』に「翊妻徐」とあり、孫翊の妻が徐氏であった事が判る。孫松の母が徐氏であるかは不明だが、二十一というその享年を鑑みれば、孫翊に他の妻妾があり、子女を生していた可能性は低い。


 次いで、孫權の同母の末弟孫匡は、やはりその傳に「舉孝廉茂才、未試用、卒、時年二十餘。」とあるが、その生没年は不明である。但し、当然ながら、孫翊より年少、且つ父である孫堅が死去した初平三年(192)か、その翌年までに生まれているので、中平二年(185)から初平四年(193)の間がその生年となる。

 没年は「餘」をどの程度と見るかにもよるが、建安九年(204)以降、遅くとも建安二十五年(220)頃までには卒しているだろう。

 彼には建安五年(200)に橫死する孫策の生前に、曹操が「以弟女配策小弟匡」、自身の「弟女」(めい)を娶せているので、同年前後には嫁聚する年齢に達していると思われ、孫翊との年齢差は大きくなかったと考えられる。

 彼の子としては「曹氏之甥」とされる孫泰の傳が附されており、「曹氏」の「甥」であるならば、母は曹氏という事になる。「二十餘」で卒しているならば、孫翊と同様、他の子女がいる可能性は低い。


 孫朗については事蹟が不明だが、「少子」と云うならば、孫匡より年少、中平年間(184~189)の末から、孫堅が死去する初平年間(190~193)初の生まれであろうか。孫匡傳が引く『江表傳』に「曹休出洞口、呂範率軍禦之」時に「匡爲定武中郎將」とあり、これは吳の黃武元年(222)九月の事であるが、同年に孫匡は三十以上であり、裴松之は孫朗の誤りとする。

 この時、「孫匡」(孫朗)は呂範の令に違い、戦後に「權別其族爲丁氏、禁固終身」とされ、族籍から外されており、その子女がいたとしても同様で、孫權の「從女(子)」としては扱われないと考えられる。


 以上から、孫朗については留保が必要だが、孫翊・孫匡は早くに死去し、それぞれ一子がいるが、他に子女がいるとは言い難く、妻も顧氏ではない。従って、孫權の「從女めい」の父親は彼等ではない可能性が高い。すると、『江表傳』に見える「從女」は、孫策の女であり、彼女が嫁したのは顧邵・朱紀・陸遜の何れかであったのだろうか。


 その可能性を検証する前に、「權嫁從女」がいつ頃の出来事であるのかを検討してみたい。

 『江表傳』には「(顧)雍父子及孫譚」が「まね」かれたとある。従って、当然ながら、顧雍の生前、赤烏六年(243)以前であり、且つ、その孫である顧譚が「時に選曹尚書と爲」った時期という事になる。

 顧譚傳には「薛綜爲選曹尚書、固讓譚曰:……後遂代綜。祖父雍卒數月、拜太常、代雍平尚書事。」と、顧譚が薛綜に代わって選曹尚書と為ったとある。薛綜傳には「赤烏三年、徙選曹尚書。五年、爲太子少傅、領選職如故。六年春、卒。」とあるので、顧譚が選曹尚書と為ったのは赤烏五年(242)、或いは、その翌六年(243)春の薛綜死後という事になる。

 六年(243)十一月には顧雍が卒し、顧譚は「數月」で太常と為っているので、選曹尚書であったのは赤烏五年(242)から六年(243)頃、つまり、「權嫁從女」もその頃という事になる。


 「從女」が嫁したのが赤烏五年(242)としても、孫策の女では四十二歳以上、孫翊の女でも三十八歳以上となってしまう。孫匡の女ならば、二十八歳以上、孫匡の没年の二十「餘」を大きめに見れば、いま少し下になるが、それでも二十歳以下という事は考え難く、同年に「嫁」するのは再嫁の可能性以外では低い。

 『江表傳』の「譚時爲選曹尚書」が何らかの誤り、時期の誤認であったとしても、顧譚は「酒に醉ひて、三たび起ちて舞い、舞の止まることを知らず」であった為に祖父顧雍の怒りを買う事になるのだから、一定の年齢、成人に達していると思われ、建安十年(205)以降の生まれであれば、少なくとも、吳の黄武年間(222~229)以降と見るべきである。

 黄武年間以降であれば、時期からして顧孫氏は顧邵が顧譚等の父という事もあり、有り得ず、朱孫氏の可能性も黃武三年(224)以前という推定はかなり遅いので低いが、顧孫氏の再嫁という可能性ならば有り得る。

 また、陸孫氏の可能性は陸抗の生年(黃武五年)からすれば、有り得ると言え、陸孫氏の母が顧氏であると、顧雍と孫策の生年(168・175)からして、顧氏は顧雍の妹であり、その女が顧邵に嫁ぎ、更に陸遜に再嫁したとも考えられる。ただ、この場合、陸遜と顧雍等の関係が複雑になり過ぎるとも言える。


 従って、「譚時爲選曹尚書」とある以上、「從女」が嫁したのが赤烏五年頃、顧雍の晩年と見るのが妥当であるが、同年前後に嫁ぐ女を持つ孫權の兄弟はいないという事になる。そこで、範囲を広げて、この「從女」は広義の從女、乃ち從兄弟の女、「從兄(弟)女」と考えた場合はどうであろうか。


 孫權の從兄弟と言えば、孫堅の兄子である孫賁・孫輔兄弟や、弟孫靜の子達がいる。このうちむすめの存在が確認できるのは、孫靜の第四子孫奐のみである。

 孫奐傳に附随する子壹の傳に「及孫綝誅滕胤・呂據、據・胤皆壹之妹夫也。」とある。孫壹は孫權の從弟子であるから、その妹であれば、從弟女という事になる。滕胤は卷六十四に傳があり、呂據は卷五十六に傳が有る呂範の子である。二人が誅されたのは、孫權の死後、太平元年(256)十月であるが、共に享年は不明である。


 呂據は父呂範が黃武七年(228)八月に卒した時点で、「副軍校尉、佐領軍事」であり、安軍中郎將に遷っているので、当時既に成年に達していたと思われる。従って、建安十年(205)前後には既に生まれていたと考えられる。その場合、赤烏五年(242)には四十前後であり、「壹之妹」との婚姻はそれ以前で、「從女」とは無関係であろう。


 滕胤の生年も不明だが、その傳に引く『吳書』に「胤年十二、而孤單煢立。」とあり、父の死去時に十二で、その後、「權爲吳王、追錄舊恩、封胤都亭侯。」と云うから、孫權が吳王となった、黃初二年(221)八月には十二以上であったという事になる。従って、建安十五年(210)以前の生まれとなる。

 そして、本傳の記述は「少有節操、美容儀。弱冠尚公主。年三十、起家爲丹楊太守、徙吳郡・會稽、所在見稱。」と続く。「弱冠」を二十歳とすれば、建安十五年(210)生まれとして、黃龍元年(229)となる。これ以前である可能性もあるのだが、「尚公主」に拘るならば、孫權が皇帝位に即いた同年以降となる。


 さて、この滕胤が尚った「公主」は本来であれば、孫權の女であるが、孫壹傳には滕胤の妻は孫壹の妹とある。二人が同一人であれば、孫奐の女が「公主」の待遇で滕胤の許に嫁いだ事になるが、「從女」とは年代が異なり、「公主」ならば「女」とされる筈である。

 別人であれば、「公主」の死後などに改めて嫁いだ事になり、孫權の寵任の故に「從女」とされたとも考えられる。実際、太元元年(251)に孫權が死去すると、滕胤は遺詔を受けて輔政する事となる。

 孫奐傳によれば、孫奐は嘉禾三年(234)に「年四十」で卒するので、興平二年(195)生まれであり、赤烏五年(242)頃に適齢となる女を持つには相応しい。従って、『江表傳』に見える「從女」はこの孫奐の女であり、滕胤との婚姻の際のことが記されている可能性がある。しかし、明証といえる程のものはなく、憶測に過ぎない。


 この孫奐女・孫壹妹が『江表傳』に見える「從女」・「顧氏甥」であったならば、孫奐の生年からして、顧氏は顧雍の女で、顧譚にとっては姑の女、外姉妹(いとこ)であり、その気安さが顧雍の怒りを買う「舞不知止」に至ったとも考えられる。

 何れにせよ、「從女」の存在は、孫氏と顧氏の繋がりを示すものであり、彼女の婚姻によって生じる新たな関係が、孫權をして「極歡」させるものであったと想像される。

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