孫權「從女」考 中

 孫策には大橋以外の妻妾があり、子女を生んでいるのは確実であるが、それが如何なる女性であるかは、史料に明記がなく、不明である。そこで確認できる孫策の子女から、何らかの手掛りを得られないか、見ていきたい。

 なお、孫策は建安五年(200)に「時年二十六」で殺害されているので、熹平四年(175)生まれであり、その子女は早くとも初平元年(190)以降の生まれであり、孫堅の死などを鑑みれば、建安元年(196)前後と考えるのが妥当である。


 先ず、子である孫紹であるが、彼は孫策の後嗣という以外に事蹟は不明で、死後、子の奉が後を嗣ぎ、孫皓時に、「奉當立」という訛伝によって、誅殺されている。なお、張昭傳が引く『吳錄』に吳の朝儀を撰定した孫紹という人物が見えるが、彼が孫策の子と同一人であるかは不明である。同一人であるとすれば、武事に長けた孫策とは異なる印象を受ける人物となる。何れにせよ、孫紹にはその母どころか、当人の史料もなく、手掛りとなるものは無い。


 次いで、顧邵に嫁いだ「策女」(以下、仮に顧孫氏)であるが、これも顧邵の妻となった以外は不明である。その顧邵は顧雍の子、年二十七で豫章太守となり、「在郡五年」、つまり三十一で卒している。その年次は不明だが、呂蒙傳(卷五十四)に「及豫章太守顧邵卒、權問所用。」とあるので、呂蒙が死去した建安二十四年(219)十二月以降より前であるのは確実である。

 仮に建安二十四年(219)卒とすれば、その生年は中平六年(189)となり、これが下限となる。因みに、顧雍は赤烏六年(243)に「年七十六」で卒するので、建寧元年(168)の生まれとなり、中平六年ならば二十二歳での子となる。

 従って、顧邵の生年の上限は然程遡る事はなく、中平年間(184~189)となる。つまり、孫策死去時には十代前半となり、同じく十歳前であったであろう顧孫氏とは相応の年齢差となる。


 顧邵には二子(譚・承)があるが、彼等は顧孫氏の所生ではない。陸遜傳(卷五十八)に「遜外生顧譚・顧承・姚信」とあり、顧承傳に「嘉禾中與舅陸瑁俱以禮徵。」とある様に、陸遜・陸瑁兄弟の姉妹である陸氏がその母となる。

 従って、顧邵には顧孫氏以外に、陸氏の妻がいた事になる。この場合、顧孫氏が正室とも考えられるが、陸氏が先妻であり、その死後、顧孫氏が嫁いだ、或いは、顧孫氏との婚姻により、正室から下ろされたと考える方が妥当であろう。陸遜等との関係を考えれば、死後に嫁いだと見る方が穏当であろうか。

 顧譚は赤烏八年(245)頃の「二宮」(孫和・孫霸)の騒動で交州に徙され、「見流二年、年四十二」で交阯に於いて卒している。従って、卒年を赤烏九年(246)とすれば、建安十年(205)生まれとなり、実際はいま少し後であろう。

 ただ、彼が交州に徙された下限は、孫和が太子を廃され、孫霸が「賜死」とされた、赤烏十三年(250)八月であるから、概ね建安十年代(205~214)となり、顧邵が十代後半から二十前後での子となる。

 顧承も年次は不明だが、「徙交州、年三十七卒」とあるので、その死亡時期にも依るが、兄顧譚とは五歳前後の年齢差があると思われる。

 従って、陸氏は建安二十年(215)頃までは生存していると見られる。因みに、彼女の兄弟で、顧譚等の舅である陸遜は赤烏八年(245)に「時年六十三」で卒するので、光和六年(183)生まれであり、顧邵と同年輩となる。建安二十年には三十三であり、陸氏がその妹であれば、顧譚等を生み、二十代後半で早世したと見るのは不当ではなかろう。

 そして、その時期は顧孫氏が孫策晩年の子であれば、ちょうど適齢期に差し掛かる頃であり、それ以前の誕生であっても、二十歳前後となり、彼女が継室となったという想定が不当ではないと言える。

 そして、数年以内に、顧邵が死去するのであるから、顧孫氏が子女を生んでいる可能性は低い。逆に、顧孫氏が陸氏より先に嫁いだという可能性は、顧譚の生年想定からすると低い。


 次に朱紀に嫁いだ「策女」(以下、朱孫氏)だが、顧孫氏と同様、朱紀の妻となった事以外は不明である。朱紀は卷五十六に立傳された朱治の次子であるが、「校尉領兵」とある以外は不明である。父の朱治は黃武三年(224)に「年六十九」で卒しているので、永壽二年(156)の生まれで、顧雍より年長である。

 その子であれば、次子であっても顧邵より年長かと思われるが、朱然(「治姊子」)傳(卷五十六)に「初治未有子、然年十三、乃啟策乞以爲嗣。」とあり、朱然は赤烏十二年(249)に「年六十八」で卒しているので、光和五年(182)の生まれで、「年十三」は興平元年(194)となる。

 従って、朱治の長子朱才の生年はそれ以降であり、当然、朱紀の生年は更に下る事となる。顧邵より五歳以上年少であり、早くとも、建安元年(196)以降の生まれで、孫策死去時には五歳未満であり、その子女とは同年輩と目される。

 また、朱才傳の記述から、朱紀は朱治の死までは生存していると思われ、その没年は黃武三年(224)以降となる。黃武三年(224)時の年齢は二十代後半であろうが、朱孫氏も二十代半ば以上であるので、婚姻はこれ以前、建安末(220)以前と推定される。

 「校尉領兵」以外の事蹟が見えないことからすれば、これ以降、程なく死去した事も考えられる。子女が見えない事も、この想定を裏付ける。


 最後に陸遜に嫁いだ「兄策女」(以下、陸孫氏)であるが、陸遜の次子・陸抗が「孫策外孫」とされるので、その生母である。陸抗は「遜卒時」、つまり、赤烏八年(245)二月に「年二十」とあるので、黃武五年(226)生まれとなり、当然、陸孫氏との婚姻はこれ以前となる。

 なお、陸遜には長子の陸延があるが、その生母は不明である。但し、黃武五年(226)に陸孫氏は二十五歳以上であるから、初産ではなく、先に陸延を生んでいる可能性は充分にある。

 陸遜は光和六年(183)の生まれであるから、陸抗誕生時に四十四歳で、陸孫氏とはかなりの年齢差がある。陸孫氏以前に妻があり、その所生が陸延である可能性も考えられる。


 以上、孫策の三女について見てきたが、何れも情報に乏しく、その生母の手掛りはない。ただ、推定される婚姻の時期及び、孫策の没年が二十六である事から、何れもその生年は孫策が死去した建安五年(200)から大きく遡る事はないと思われる。従って、三女の一人、或いは孫紹の生母が大橋である可能性はあるが、確定は出来ない。


 ところで、この「三女」が同一人、つまり、顧邵・朱紀・陸遜への何れかが再嫁である可能性はないであろうか。顧孫氏が顧邵に嫁いだのは、建安末(215~220)頃かと思われ、朱孫氏は遅くとも黃武三年(224)、おそらくは建安末以前、陸孫氏は黃武五年(226)以前となる。

 最も早く死去した顧邵の死去時、朱紀は二十三歳以下である。従って、顧邵と死別した顧孫氏が朱紀に再嫁する可能性はあり得る。また、陸遜は三十代半ばであるが、陸抗の生年からすれば、これまたあり得る。

 一方、朱紀が死去したのが黃武三年(224)以降であれば、朱孫氏が顧邵に再嫁する可能性はあり得ず、陸遜の場合も陸抗の生年からすれば、可能性は低いだろう。

 陸孫氏は陸遜の子を産んでおり、陸遜の死が赤烏八年(245)、つまり、四十五歳以上でのことであるから、再嫁する可能性は、少なくとも顧邵・朱紀に対しては無い。

 よって、顧孫氏と朱孫氏、或いは、顧孫氏と陸孫氏が同一人である可能性はあるが、他の可能性は低い。


 その上で、各傳の記述を改めて見ると、顧邵には「權妻以策女」、朱紀には「權以策女妻之」と、「妻」を使用しているのに対し、陸遜には「權以兄策女配遜」と、「配」を使用してみる。ともに「めあはす」の意だが、強いてその違いに意味を見出せば、陸孫氏が再嫁であった可能性ではないだろうか。

 この場合、陸抗を生んだ年齢がやや高い事の説明にもなる。但し、「配」は通常、身分が高い人物に女を嫁がせる場合に使用されており、孫權の陸遜に対する敬意の表れである可能性が高い。

 従って、この検討はあくまでも可能性を指摘するという程度でしかない。


 以上から、孫策に複数の妻妾と、複数の子女があることは確認できたが、妻妾の一人が大橋である事、女の一人が、陸遜の子陸抗を生んでいる事が知れるのみである。

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