孫權「從女」考 上
史書に女性が登場する事は稀である。
登場しても多くは「母」・「妻」としてであり、一女性として見える事は寡ない。時に誰かの「
そうした女性の一人として、『三國志』顧雍傳(卷五十二)引く『江表傳』に見える孫權の「從女」がいる。
權嫁從女、女顧氏甥、故請雍父子及孫譚、譚時爲選曹尚書、見任貴重。是日、權極歡。譚醉酒、三起舞、舞不知止。雍內怒之。明日、召譚、訶責之曰:……(以下略)
「從女」は「從」が「の如き」・「に準ずる」といった意味合いであるから、「女」の如きもの、つまり、兄弟の女で「めい」である。その「めい」を孫權が嫁がせるに当たって、その「
なお、この一文は「女」を衍字として、「孫權は
嫁「女」「某」という形式は『漢書』卷四十五江充傳の「嫁之(=女弟)趙太子丹」や、『晉書』卷四十六劉頌傳の「頌嫁女臨淮陳矯」など、例が無いわけではないが、特殊である。
因みに、この劉頌は晉代の人物で、その経歴は泰始元年(265)の「武帝踐阼」頃からで、永康元年(300)の「趙王倫之害張華」後に卒している。一方で、陳矯は魏代の人、孫權と同時代で、建安年間(196~220)から官途に在り、景初元年(237)に薨じているので、劉頌がその女を陳矯に嫁がせたというのは有り得ない。
文法的に特殊というのはさて措いても、孫權が「從女」を嫁がせる、言わば新郎が「顧氏甥」であるなら、「甥」は姉妹が他氏に嫁いで生んだ子を云うので、顧某ではなく、顧氏の縁戚ではあるが、他姓という事になる。
当時としては名を知られていたという可能性もあるが、姓名不詳の人物に「めい」を嫁がせるに当たって、新婦側の親族である孫權が、新郎側の縁戚である顧雍等をわざわざ「請」くというのは不自然ではないか。
また、語義的に有り得ないが、「甥」が顧氏の「おい」である顧某であったなら、新郎側の親族とも言うべき顧雍等が列席するのは当然とも言え、孫權が「請」くのは、より不可解である。
従って、「女」は衍字ではなく、「女」(「從女」)が「顧氏甥」であり、新婦の親族として顧雍等が「請」かれたと見るのが妥当である。
さて、「女」(「從女」)が「顧氏甥」であったならば、その母は顧氏であり、顧雍、或いはその近親の姉妹で、孫權の「從女」の父親、乃ち孫權の「兄(弟)」に嫁いでいたという事になる。
この「從女」の父親が誰であるのか、そして、可能であれば、彼女が嫁いだ相手が誰であったのかについて考察してみたい。
孫權の兄弟については『三國志』卷四十六孫破虜(孫堅)傳の末尾に裴松之が『志林』を引いて、「堅有五子:策・權・翊・匡、吳氏所生。少子朗、庶生也、一名仁。」と注している。
「從女」が兄弟の女、「めい」である以上、この孫策・孫翊・孫匡、或いは異母弟である孫朗の何れかが、その父親という事になる。彼等の妻及び子女について、それぞれの傳、卷四十六孫討逆(孫策)傳及び卷五十一宗室傳から確認する。
先ず、孫權の兄孫策であるが、彼の妻妾と云えば、所謂「大橋」(大喬)、つまり、「橋公兩女(橋公二女)」の姉が知られている。しかし、彼女が正式な妻であったかは疑わしく、仮に妻であったとしても、それは極めて短い期間に過ぎない。
と言うのも、彼女は孫策が「從攻皖、拔之」の際に、「得」て「納」れた女性である。これは建安四年(199)の事であり、孫策傳に引く『吳錄』が載せる孫策の上表によれば、「十二月八日」以前の筈である。
同傳に引く『志林』に依れば、翌建安五年(200)四月四日には孫策が死去しているので、大橋が孫策の下に在ったのは、半年程度、「攻皖」をその契機となった袁術の死(建安四年六月)直後としても、一年に満たない筈である。従って、大橋が孫策の子を生んでいたとしても、一人、それも、おそらくは遺腹という事になる。
一方で、孫策には少なくとも、二人以上の子女が確認できる。子は吳侯、後に上虞侯に改封された孫紹であり、彼が孫策の正嫡で、確認できる唯一の子である。女は顧邵(顧雍子)に嫁いだ「策女」(顧雍傳)、朱紀(朱治子)に嫁いだ「策女」(卷五十六朱治傳)、陸遜に嫁いだ「(孫權)兄策女」(卷五十八陸遜傳)の三女が確認できる。
後に検討するが、仮にこの三女が同一人だとしても、大橋が生めた孫策の子は双子等の可能性を除けば、最大一人である以上、少なくとも、もう一人、孫策の子女を産んだ女性がいた事になる。そして、大橋が孫策の許に「納」れられた時期を考えれば、この孫策の子女を生んだ女性が、彼の妻、正室であったとも考えられる。
ところで、大橋は「橋公」の女という事で、彼女(及び周瑜妻である「小橋」)の父は、東漢末に太尉(=公)に至った橋玄であるとも云われている。橋玄は東漢末に橋氏で唯一の三公経験者であり、光和六年(183)に「年七十五」で卒しているので、その晩年の女であるとする事に妥当性はある。
一方で、橋「公」というのは、必ずしも三公経験者を言うのではなく、著名な人物に対する尊称で、皖周辺の有力者に過ぎないとも云われている。実際、『三國志』卷八に傳が有る陶謙の妻の父は「故蒼梧太守同縣甘公」とあり、甘氏の三公経験者はいないので、この「公」は名の可能性もあるが、その妻が「甘公夫人」とされている事を思えば、尊称であろう。であれば、大橋等の父は不明という事になる。
ただ、『三國志』及び『後漢書』には「橋蕤」なる人物が散見する。『三國志』では武帝紀・袁術傳・何夔傳・于禁傳、『後漢書』では袁術傳・呂布傳に見えるが、何れも袁術の「將」であり、『三國志』袁術傳では「以張勳、橋蕤等爲大將軍。」とあるので、その中でも、有力な將であったと推定される。
この「橋蕤」は武帝紀の建安二年(197)九月条に「術侵陳、公東征之。術聞公自來、棄軍走、留其將橋蕤・李豊・梁綱・樂就。公到、擊破蕤等、皆斬之。」とあるので、同年に曹操に斬られ、死去した事が判る。
「大將軍」とされる人物であれば、それなりの年齢であり、子女が建安二年以前に生まれており、且つ成年に達している可能性は高い。また、橋蕤が死去したのは、春に袁術が「天子」を称した年で、当然、その「王朝」(「仲氏」)に於いて、三公に相当する人物がいた筈である。その一人が橋蕤であったと想定しても、臆断ではないだろう。
そして、孫策が皖を攻撃したのは、同地(廬江)の太守劉勳が「將其眾欲就策」せんとした「(袁術)長史楊弘・大將張勳等」を「要擊、悉虜之、收其珍寶以歸」したからである。橋蕤とともに「大將軍」となった張勳がおり、この時、「虜」とされた一行の中には袁術の「妻子」も含まれ、更に橋蕤の「妻子」がいたとしても不思議はない。
従って、「橋公」が橋蕤であるとは断定できないが、その可能性はあると考える。また、周瑜傳に引く『江表傳』で孫策が「橋公二女雖流離、得吾二人作婿、亦足爲歡」と述べているのは、「橋公」を孫策(及び周瑜)が見知っている故の発言ともとれ、「橋公」が袁術の許に在れば、互いに知己であるという事態は想定できる。
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