古代中国・家族用語の基礎知識―④「內妹」、「母弟」、そして「女弟」
「基礎知識」第四回は「內妹」と、「母弟(兄・姊・妹)」に、「女弟(兄)」について。短めを三つです。
「內妹」は母方のいとこ、
なお、その場合、
そして、更に
ともあれ、「內妹」が妻の姉妹を意味する場合もあると言えるが、一方で、妻を軸にした関係を云う場合、「妻弟(兄・姊・妹)」と表現され、多くは兄・弟だが、以下の如く、僅かながら、「妻妹(姊)」という事例も存在する。
劉表辟爲從事祭酒、欲妻以妻妹蔡氏。(『三國志』卷二十二桓階傳)
詳又蒸於安定王爕妃高氏、高氏即茹皓妻姊。(『(北)魏書』卷二十一北海王詳傳)
これ等は敢えて妻の縁者である事を強調する意図もあるかと思われるが、「內妹」が妻の妹である事が一般的ならば、その必要はないであろう。つまり、本来、「內妹」は母方のいとこを云うと見るべきである。
ところで、「內妹」で比較的有名と思われるのは、『三國志』夏侯淵傳(卷九)の「淵妻、太祖內妹。」、乃ち夏侯淵の妻が「太祖」曹操の「內妹」であった、というものである。これは具体的な関係が見えず、曹操の「妻の妹」が夏侯淵の妻であったという可能性は否定できない。
一方で、曹操の妻として先ず挙げるべきは、后妃傳(卷五)や、それに引かれた『魏略』に「太祖始有丁夫人」とある「丁夫人」であるが、文帝紀(卷二)の延康元年五月に「天子命王追尊皇祖太尉曰太王、夫人丁氏曰太王后」とあり、「太王」に追尊された「皇祖太尉」、乃ち曹操の父である曹嵩の夫人も丁氏で、「丁夫人」と同姓である。
この「夫人丁氏」が曹操の実母(生母)であるかは不明だが、少なくとも「太王后」とされているのだから、曹嵩の正妻で、曹操の「母」であろう。その丁氏と同姓の「丁夫人」は丁氏の姪、兄弟の女という可能性がある。つまり、曹操からすれば母の兄弟、舅の女で、「內妹(姊)」となる。
曹操と丁夫人の関係は、子が無かった事や、丁夫人が養った「子脩」(曹昂)が曹操に代わって戦死した事などで破綻している。想像を逞しくすれば、曹操は丁氏の所生ではなく、それ故に、両家の結び付きを強める意味でも、丁氏の実家から妻を迎える事となったが、「丁夫人」の側も含め、互いに不満があったのかも知れない。
ともあれ、「丁夫人」が曹操の「內妹(姊)」ならば、その妹、或いは從妹も曹操の「內妹」であり、夏侯淵の妻であったのはその丁氏で、曹操の「いとこ」に当たる女性であったとも考えられる。単なる「妻の妹」よりも、関係は深いと思われるが、どうであろうか。
さて、「內妹」が時としてそうであるとされる、「妻妹(姊)」という語は、言うまでもなく、「妻」の「妹」であり、「舅」・「姑」で触れた「舅女」・「姑子」・「姑夫」などと同じ構造の語である。
一方で、「姨弟」・「從母弟」といった語は、「姨」・「從母」の「弟」では意味を成さないので、「姨」・「從母」の処の「弟」の如きものといった語感になる。「從父弟」・「從祖弟」なども同様である。
これ等と類似した構造の語として「母弟(兄・姊・妹)」がある。これも「母」の「弟」と解したいところであり、実際、そうした解釈も間々見受けられる。だが、母の弟(兄)であれば舅であり、姉妹であれば姨・從母であるので、敢えてそうした表記をする必要はない。つまり、「母の弟」ではない。
「母弟」が母の弟でない事が明白な事例として、『晉書』文帝紀(卷二)の「文皇帝諱昭、字子上、景帝之母弟也。」が挙げられる。「文皇帝」は司馬昭、「景帝」は司馬師であり、周知の如く、両者は共に司馬懿の子で、その夫人王氏の所生、乃ち同母兄弟である。当然ながら、追尊とは言え、皇帝(「景帝」)の「母の弟」が皇帝(「文皇帝」)などという事は有り得ない。
同様の例は『晉書』に散見し、「太子母弟秦王柬(卷三武帝紀)」、「康皇帝諱岳、字世同、成帝母弟也。(卷七康帝紀)」、「廢帝諱奕、字延齡、哀帝之母弟也。(卷八廢帝海西公紀)」、「恭帝諱德文、字德文、安帝母弟也。(卷十恭帝紀)」などがある。
また、武帝の同母弟である齊王攸の傳(卷三十八)や、他書も含めて諸傳に「母弟之親」という語が見え、これが「母の弟」の「親」しさでは意味不明であり、当然ながら、「母」と「弟」の「親」でも同様である。
以上から明らかな様に、「母弟」は異母弟に対する同母弟、母を同じくする弟である。なお、この同母は異父の場合も含まれる様で、古例だが、『漢書』季布傳(卷三十七)に「布母弟丁公」とあり、これは名が「丁公」なのではなく、丁姓で『楚漢春秋』に依れば名は固だと云う。
因みに、「母弟」の使用例は註釋などを含めても『晉書』が最多であり、これは上の如く、晉(司馬氏)では兄弟間で皇帝位が継承される事が多かった事も影響しているかと思われる。
いま一つ、「母弟」と似た構造の語として、「女弟(兄)」がある。だが、これは「女」(むすめ)の「弟」では自らの子であろうし、「女」(むすめ)の処の「弟」の如きものと読んでは、意味不明である。従って、これは「女」(むすめ)ではなく、「女」(おんな)である「弟」、つまり、「後生」、後に生まれたもの、妹と解すべきである。
「女兄」であれば、「兄」である、つまり、「先生」した「女」(おんな)で姉となる。「女弟」の場合、「娣」という字もあり、「妻の妹」という義もあるが、それ以外も含めた「いもうと」である。
「女弟」が「いもうと」である事例は数多いが、端的にそれを示しているのは『史記』卷九十五樊噲傳の「噲以呂后女弟呂須爲婦」であろう。樊噲の妻(「婦」)が高祖の妻(皇后)たる呂后の「女弟呂須」である、妻なのだから、当然女性であり、呂后と同姓なのだから「いもうと」である。
『史記』を挙げたのは、何故か「六朝」の史書に事例が殆ど見られない故である。「女弟」は僅かに二例、『(北)魏書』卷八十六孝感傳の長孫慮に「慮身居長、今年十五、有一女弟、始向四歲」(『北史』同文)、『(北)齊書』卷二十九李璵傳に「韞與陸令萱女弟私通」とあるのみである。
「女兄」は更に少なく、「六朝」以前では『三國志』卷十六蘇則傳に「(裴)松之案」として「石崇妻、紹之女兄也。」とあるのみである。何れも『舊唐書』以降の史書には散見する。
『後漢書』は宋の范曄撰で、原史料に従っただけの可能性もあるが、年長であるが同時代の裴松之が「案」じている様に、南朝宋代にも「女弟(兄)」という語自体はあった筈だが、一般的ではなかったと思われる。
ところで、「石崇妻」に関しては、『三國志』の刊本(宋本以外)によっては「兄女」、「兄の
同条には「石崇金谷詩敘」を引いて「余以元康六年、……蘇紹字世嗣年五十」云々とあり、蘇紹は五十で、元康六年(296)に石崇は四十八と同年輩である。蘇紹と「兄」の年齢差が大きければ、有り得ないわけではないが、「兄女」ではなく、「女兄」が正しく、蘇紹・石崇は互いの姉を妻としていたのだろう。
因みに、蘇紹・石崇の子女が婚姻を結べば、その子等にとって蘇紹或いは石崇とその妻が、
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