劉琨雑考 下

 永嘉元年(307)三月条末の「并州諸郡爲劉元海所陷、刺史劉琨獨保晉陽。」について、劉元海(劉淵)載記を確認すると、以下の如くある。


 、騰又遣司馬瑜・周良・石鮮等討之、次于離石汾城。元海遣其武牙將軍劉欽等六軍距瑜等、四戰、瑜皆敗、欽振旅而歸。是歲、離石大饑、遷于黎亭、以就邸閣穀、留其太尉劉宏・護軍馬景守離石、使大司農卜豫運糧以給之。以其前將軍劉景爲使持節・征討大都督・大將軍、。其侍中劉殷・王育進諫元海曰:「……」元海悅曰:「此孤心也。」。元海遂入都蒲子、河東・平陽屬縣壘壁盡降。


 文中の「二年」は前段の「永興元年、元海乃爲壇于南郊、僭即漢王位、……」を受けており、これは惠帝紀では永興元年(304)八月条の「匈奴左賢王劉元海反於離石、自號大單于。」に当る。

 そして、引用部の次段には「永嘉二年、元海僭即皇帝位、大赦境內、改元永鳳。」とあり、これは懷帝紀では同年(308)十月の「劉元海僭帝號于平陽、仍稱漢。」に当る。

 従って、この段の記事は永興二年(305)から永嘉二年(308)十月以前が記述となる。


 この「二年」以下、「是歲、離石大饑、遷于黎亭、……運糧以給之。」までは、永興二年(305)中のこととして問題はないかと思われる。史書の記述として、年紀を記したした後に、「是歲」云々とするのは、そこまででその年が終わる事を示していると言える。

 従って、問題となるのは、それ以下の部分、特に直後の「要擊并州刺史劉琨于版橋、爲琨所敗、琨遂據晉陽。」、劉淵が劉景をして劉琨を要撃させたが敗れ、劉琨が「遂」に晉陽に拠ったという部分である。

 永興「二年」以降の劉淵の動向に関する記事は乏しく、懷帝紀永嘉二年三月の「劉元海侵汲郡、略有頓丘・河內之地。」、同年七月の「劉元海寇平陽、太守宋抽奔京師、河東太守路述力戰、死之。」以外は、現在問題としている元年三月条の「并州諸郡爲劉元海所陷、刺史劉琨獨保晉陽。」のみとなる。

 七月条の「劉元海寇平陽」は、載記の「遂進據河東、攻寇蒲阪・平陽、皆陷之。」に当たり、直前の「劉殷・王育進諫」云々も含め、永嘉二年(308)中と見做すべきであるから、問題となるのは、上記の劉琨に関する部分である。

 だが、この記述だけからでは永興二年以降、永嘉二年以前とする以上の断定はできない。


 そこで、校勘記が永嘉元年以前(=光熙元年)とする根拠、「琨在路上表」の内容を見ると、「九月末得發、道嶮山峻、胡寇塞路、輒以少擊眾、冒險而進、頓伏艱危、辛苦備嘗、即日達壺口關。」とある。

 「即日」は修辞としても、「胡寇」が「塞」いでいた「路」とは、洛陽から「壺口關」に至る道程であった事が知れる。劉琨が如何なる経路を辿ったのかは不明だが、壺口關が魏郡(鄴)と上黨郡を結ぶ経路にある事を思えば、鄴を経由して、并州上黨郡に入ったと考えるのが妥当である。

 この、洛陽から河內・汲郡を経て、魏郡に至る経路が「胡寇塞路」という状況になるのは、光熙元年よりも永嘉元年の方が相応しい。光熙元(永興三)年九月時点では鄴に范陽王虓が健在であり、その威令が鄴周辺には及んでいた筈である。

 一方で、永嘉元年五月には「馬牧帥汲桑聚眾反、敗魏郡太守馮嵩、遂陷鄴城、害新蔡王騰。」という事態になり、九月に苟晞が汲桑を破り、十二月に樂陵で斬られるまでの間、冀州魏郡一帯は「塞路」状態にあったと見るのが相応しい。

 その意味では汲桑が苟晞に破れて、敗走した「九月末」に劉琨が「發し得」たというのは符合する。但し、汲桑或いは石勒等を含めた攪乱が「胡寇」とされるかという問題はある。「胡」を厳密に匈奴ととれば、むしろ永嘉二年時の方が「胡寇塞路」に相応しいとも言えるが、その場合、劉琨の出発が永嘉二年九月ということになり、やや遅すぎるので、措く。


 次に、劉琨傳では「琨在路上表」云々の次段に以下の如くある。


 、并土饑荒、百姓隨騰南下、餘戶不滿二萬、寇賊縱橫、道路斷塞。琨募得千餘人、轉鬥至晉陽。府寺焚毀、僵尸蔽地、其有存者、飢羸無復人色、荊棘成林、豺狼滿道。琨翦除荊棘、收葬枯骸、造府朝、建市獄。寇盜互來掩襲、恒以城門爲戰場、百姓負楯以耕、屬鞬而耨。琨撫循勞徠、甚得物情。、相去三百許里。琨密遣離間其部雜虜、降者萬餘落。


 「時東嬴公騰自晉陽鎮鄴」の部分のみを見れば、「東嬴公騰」が「鎮鄴」であった時期、早くとも光熙元年(306)十月以降、遅くとも、新蔡王騰が害された永嘉元年五月以前には、劉琨が并州(晉陽)に入っており、校勘記の光熙元年説が正しいかに見える。

 だが、この「時」は以下の「寇賊縱橫、道路斷塞」にまで掛かると見るべきで、「東嬴公騰の晉陽自り鄴に鎮し、并土饑荒し、百姓騰に隨ひて南下す」が「餘戶二萬に滿たず、寇賊縱橫し、道路斷塞す」となった原因で、劉琨の并州刺史就任時、或いは晉陽到達時の状況が、後者であったという事になる。

 一方で、劉淵が「時在離石」・「遂城蒲子而居之」ともある。この記述に従えば、「甚だ懼れ」た結果であるかは兎も角、劉淵が離石から蒲子に移ったのは、劉琨が晉陽に入って程無い頃と想定される。

 この当時、劉淵は永興二年の「離石大饑」によって、黎亭に遷っており、「時在離石」は、石勒載記の「劉元海稱漢王于黎亭」を見ても、「在黎亭」の誤りとするのが正しいかと思われる。

 この黎亭は『續漢書』郡國志では上黨郡壺關縣に「有黎亭」とある。或いは、後に再び離石に遷ったとも考えられるが、どちらにせよ、晉陽から「相去三百許里」という位置ではある。

 この黎亭(離石)から、劉淵が蒲子に入ったのは、載記の「遂進據河東、攻寇蒲阪・平陽、皆陷之」後、つまり、永嘉二年(308)七月以降という事になる。その後、十月には「劉元海僭帝號于平陽、仍稱漢。」とあるので、遅くともこの時点、つまり永嘉二年以降である。

 劉琨の晉陽到達から、劉淵の蒲子移動までの期間がどれ程かが不明ではあるが、永嘉元年末に晉陽に到達したという方に妥当性がある。


 以上、推論の域を出ないが、劉琨の并州刺史就任は、本傳・王隱『晉書』に「永嘉」と明記されている事に従うべきであろう。

 むしろ、「并州諸郡爲劉元海所陷、刺史劉琨獨保晉陽。」という記事が置かれた位置を疑うべきである。例えば、永嘉二年三月或いは四月の時点であれば、「并州諸郡爲劉元海所陷」という状況により相応しい。

 この記事の年次に疑いが生ずれば、校勘記の指摘は拠り所を失うことになり、『資治通鑑』も他に格別の根拠は示されておらず、校勘記と同様の根拠によって配置されていると思われる。となれば、通鑑の配置は光熙元年出発を示す根拠とはならない。

 従って、劉琨が「出爲并州刺史」となったのは、本傳の記述通り永嘉元年(307)であるという事になり、それが王隱『晉書』にある「年三十五」であるならば、劉琨の生年は泰始九年(273)となる。


 この推定に従って、他の年齢を見ると、「年二十六」については、年次を確定する材料はないので、推定される生年から年次を確定するほかはない。泰始七年(271)生まれであれば、元康六年(296)であり、泰始九年(273)ならば、元康八年(298)となる。

 当時、石崇が「征虜將軍」であったと云うが、石崇は「出爲征虜將軍、假節・監徐州諸軍事、鎮下邳。……至鎮、與徐州刺史高誕爭酒相侮、爲軍司所奏、免官。復拜衛尉、與潘岳諂事賈謐。」であり、「河南金谷澗中有別廬」にて「賓客を引き致して、日び賦詩を以て」するというのは、徐州に於いてでは有り得ない以上、元康六年の赴任直前、又は免官後の「拜衛尉」以前に、もと「征虜將軍」であった時期という事になる。

 また、そもそも「時」を「年二十六」、司隸從事と為った前後とみれば、概ね元康末年というだけとも言える。従って、どちらの生年であっても、大きな問題は生じない。


 次いで、「年二十九」については、泰始七年(271)生まれならば、元康九年(299)で、この「太子」は「愍懷太子」になるが、「太子掾」ではなく、「太尉掾」である可能性もある。泰始九年(273)生まれとすると、建始元年(301)となり、「太子掾」の「太子」は司馬荂となる。この場合、「掾」は「詹事」の事となり、厳密には一致しない。


 最後に享年の「時四十八」については、泰始七年(271)生まれでは、太興元年(318)で、元帝紀に一致する一方で、泰始九年(273)では太興三年(320)となってしまい、同年卒は元帝紀などから見て、考え難い。但し、「六」は「亠」が脱落すれば、「八」となることを思えば、現行『晉書』の「時四十八」は「時四十六」の誤りとする事もできる。「時四十六」であれば、没年は太興元年(318)に一致する。


 以上のように、劉琨の生年については、現行『晉書』から得られる泰始七年(271)生まれよりも、王隱『晉書』から推定される泰始九年(273)生まれが妥当であるかに思われる。

 難があるとすれば、「太子掾」と「(太子)詹事」の違いだが、本傳に拠れば、劉琨は司馬荂の「詹事」となる以前に、著作郎・太學博士・尚書郎を「頻遷」し、趙王倫の記室督・從事中郎を経て、その即位により「太子」荂の詹事と為っている。

 著作郎以下は何れも六品であり、太子詹事は三品であるので、縁戚である事による抜擢であり、「詹事」とされる以前に、その屬官とされた事が「掾」とされたとも考えられる。

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